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本名が「加藤泰通」の映画監督の「加藤泰」あるいは「加藤泰衑」とは別人です。 |
加藤 泰通(かとう やすみち、1879年(明治12年)4月10日[1] - 1971年(昭和46年)2月23日[1])は、明治後期から昭和前期の宮内官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。
経歴
東京府出身。子爵・加藤泰秋の二男として生まれる[1][2]。学習院高等科を修了し、1901年(明治34年)イギリスに留学した[2][3]。父・泰秋の死去に伴い、1926年(大正15年)8月16日、家督を相続し子爵を襲爵した[1][4]。
1908年(明治41年)以降、外務省嘱託、式部官、侍従、宮内事務官、皇后宮事務官、大喪使事務官、大礼使典儀官、外国使節接伴員、御物管理委員会臨時委員、相続税物納制度調査会委員などを務めた[3]。
1932年(昭和7年)3月10日、補欠選挙で貴族院子爵議員に選出され[5][6]、研究会に属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[3]。
栄典
- 位階
- 勲章
親族
- 妻 加藤敬子(ひろこ、松平茂昭五女、1889年 - 1953年)[1]
- 長男 加藤泰同(1909年 - 1987年)
- 長女 俊子(1910年 -?)
- 次女 恵子(1921年 - )
脚注
- ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成 上巻』434-435頁。
- ^ a b 『人事興信録 第14版 上』カ21頁。
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』40頁。
- ^ 『官報』第4195号、大正15年8月17日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、39頁。
- ^ 『官報』第1557号、昭和7年3月11日。
- ^ 『官報』第4729号「叙任及辞令」1899年4月11日。
- ^ 『官報』第7743号「叙任及辞令」1909年4月21日。
- ^ 『官報』第3814号「叙任及辞令」1925年5月13日。
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。