『俺は用心棒』(おれはようじんぼう)は、1950年(昭和25年)製作・公開、伊丹万作脚本、稲垣浩監督による日本の長篇劇映画である[1][2][3][4]。シナリオ完成時の原題は『昔を今に』(むかしをいまに)[5]、伊丹の没後に初めて映画化された作品である[1][2]。
略歴・概要
本作のシナリオは、ロード・ダンセイニの小品『もしも』を下敷きに伊丹万作(1900年 - 1946年)が『昔を今に』のタイトルで執筆したものであるとされる[6]。伊丹は、本作の映画化をみることなく1946年(昭和21年)9月21日に亡くなったが、同年に大橋恭彦が創刊した映画雑誌『映畫藝術』(星林社)が、翌1947年(昭和22年)1月発行の第2巻第1号で「伊丹万作追悼」を特集し、伊丹の遺稿、伊藤大輔、池内岳彦(のちの伊丹十三)の文章とともに、本作シナリオを『昔を今に』のタイトルで掲載した[7]。伊丹がサイレント映画用脚本『若しもあの時』として書いたものを稲垣浩がトーキー用に再構成したものである、という説もある[6]。いずれにしても、脚本の雑誌掲載後に本作は映画化された[1][2][3][4][8]。
伊丹の生前実現しなかった作品にはほかに、『手をつなぐ子等』(監督稲垣浩、1948年)、『恋風五十三次』(シナリオ原題『東海道膝栗毛』、監督中川信夫、1952年)、『不惜身命』(原作山本有三、1942年執筆、未映画化)、『木綿太平記』(原作恩田木工、1943年執筆、同)がある[8][9]。本作は、伊丹の没後に映画化された作品としては『手をつなぐ子等』に次ぐ2作目であり、脚本専念後に映画化された作品としては生前の『無法松の一生』(監督稲垣浩、1943年)を含めて3作目である[8]。
本作を製作した東横映画、配給した東京映画配給はいずれも現在の東映の前身であり、本作の製作・公開の翌年である1951年(昭和26年))4月1日に合併し、前者は東映京都撮影所、後者は東映の営業部門となった。
本作公開当時のキャッチコピーは、
- 伊丹万作遺稿の映画化!
- 口も八丁 手も八丁 俺は天下の豪傑だ!
であった。
2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリントを所蔵していない[10]。ビデオグラムについてはかつて発売された形跡がなく、東映チャンネルは、本作を放映した形跡がない[11]。事実上、観ることの不可能な作品である。本作の脚本については、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)には収録されていない[12]。
ストーリー
江戸時代の話である。職探しの旅の途中で、浪人・寒川八郎(片岡千恵蔵)は、出会った老乞食(団徳麿)から「幸福の印篭」を買い取った。町外れの居酒屋で、悪漢(椿三四郎)と喧嘩をし、就職予定先の主人と行き違えになってしまう。落胆して歩いていたときに、ヒゲの豪傑・横田権兵衛(月形龍之介)と知り合い、道中を伴にすることになる。次の町の居酒屋では、美人の酌女・お初(折原啓子)が、大串屋の雁九郎(加東大介)にちょっかいを出されて困っているところに出くわし、八郎と権兵衛はこれを助けてやり、雁九郎はあっさりと片づいてしまう。五斗屋の親分(遠山滿)はこの一部始終を目撃、八郎と権兵衛を「用心棒」として雇うことを申し出る。
「用心棒」生活は酒を飲んだり将棋をしたりと気ままではあるが、たいへん退屈なものであった。八郎は居酒屋でお初に会えるのがたのしみであったが、お初には許婚の与吉(中野清)という存在があった。与吉は大串屋の親分(花菱アチャコ)に騙されて、大串屋の私牢に幽閉されていたのだった。八郎は、牢番(水野浩)をだまして与吉を救出し、山小屋に逃がしてやるのだった。
大串屋と五斗屋との抗争が本格化し、八郎はこんなものは馬鹿げている、として無血終結のために奔走する。まずは大串屋に飛び込んで、口も八丁で嘘を言い、親分を旅立たせて、子分たちに後を追わせた。返す刀で八郎は、役所に行って代官(澤村國太郎)の悪事を暴き、五斗屋に逃げ込む。代官の追手が五斗屋になだれ込むと、五斗屋と子分たちは一斉にそこを逃げ出した。これで町には抗争は消えた。八郎はお初に与吉の居場所を教え、この町を去った。
数年が経過した。八郎は乞食に変り果てていた。仲間の乞食(杉狂児)の言う「悪事さえはたらかなければ、乞食の身分も幸運だ」とのことばを聴いて、「幸福の印篭」を投げ捨てた。さらに月日は経過し、八郎は猿回しになっていた。ある村外れで八郎は、お初の噂を耳にする。お初は与吉に捨てられた。八郎はお初と出逢った居酒屋へ行く。お初がいた。二人は無言で抱き合うのであった。
スタッフ・作品データ
キャスト
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク