八尋 不二(やひろ ふじ、1904年7月18日 - 1986年11月9日)は、日本の脚本家である。本名-實(-みのる)。昭和初年のサイレント映画時代末期から500本のシナリオを執筆、トーキー黎明期の京都にかつて存在した脚本家集団「鳴滝組」に参加、映画史に名を残す。勲四等旭日小綬章受章者。
来歴・人物
1904年(明治37年)7月18日、福岡県朝倉郡夜須村長者町(現在の同郡筑前町長者町)に生まれる。上京後、明治大学政経学部に入学するが中退する[1]。
1927年(昭和2年)、マキノ・プロダクション御室撮影所で『学生五人男』シリーズ全6作を発表して脚本家としてデビューする。翌1928年(昭和3年)、東京・巣鴨町(現在の豊島区西巣鴨)の河合映画製作社に入社、わずか2年少々の間に脚本を量産、35本が映画化された。1931年(昭和6年)、京都に戻り、帝国キネマに移籍、同年の同社の新興キネマへの改組後も残留して、同京都撮影所で活躍した。
当時、マキノ時代に知り合い河合時代に仕事をした仲間である三村伸太郎、監督の鈴木桃作らとともに、京都市右京区鳴滝音戸山町に住んでおり、そこを彼らは近代以前の名称で「鳴滝村」と呼んでいた。1934年(昭和9年)、「鳴滝村」に集った同世代の脚本家・藤井滋司、監督の滝沢英輔、稲垣浩、山中貞雄、助監督の萩原遼とともに、この8人が脚本集団「鳴滝組」を結成した。共同のペンネームを「梶原金八」とした。時代はサイレントからトーキーへの移行時期で、痛快なトーキーを書ける謎の新進脚本家「梶原金八」に業界は騒然となった。やがて「鳴滝組」は、1937年(昭和12年)の滝沢・山中の上京と、翌年の山中の戦死などがあって活動を停止するが、22本の作品を残した。
その後も1942年(昭和17年)1月の新興キネマの戦時統合による合併後も残留、大映で執筆をつづけた。
戦後1947年(昭和22年)に東横映画が設立されると『金色夜叉』前後篇を書き、1949年(昭和24年)にマキノ正博がCACを設立するとそちらにも協力、1950年代は東映京都撮影所作品にも多く書いたが、基本的には大映京都撮影所の作家であった。また、映画監督の伊藤大輔らと雑誌「時代映画」を編集・発行した。
65歳になる1969年(昭和44年)に脚本家を引退した。1971年(昭和46年)紫綬褒章受章、1975年(昭和50年)第17回牧野省三賞受賞、同年勲四等旭日小綬章受章ほか受賞は多数[1]。
1986年(昭和61年)11月9日、死去[1]。82歳没。
おもなフィルモグラフィ
ビブリオグラフィ
出典
- ^ a b c raizofan.netサイト内の「八尋不二」の記述を参照。
関連事項
外部リンク