姚興
姚 興(よう こう)は、五胡十六国時代の後秦の第2代皇帝。羌の出身で、姚萇の子。諡号は文桓皇帝だが、在位のほとんどは皇帝ではなく天王を名乗った。 姚興は前秦の残党勢力を滅ぼし、一時的に西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀を形式上は従えて華北の西部に巨大な勢力を築き上げた。姚興の没後の後秦は、赫連勃勃の独立や皇位をめぐる親族の争いにより実質的に滅んだ。姚興は熱心な仏教徒であり、仏教が中国において国の支援を受けたのは姚興の後秦が初めてである。401年、後涼で暮らしていた仏僧の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)を常安(長安)に迎え入れた。 生涯幼年父の姚萇が前秦の苻堅の将であった366年に生まれた。母は姚興が後に太后と追尊した[1]孫夫人である。成長すると前秦の皇太子苻宏を補佐した。 姚萇の部将384年、父の姚萇が前秦から独立すると、都長安から姚萇の下へ奔った[1]。後秦が成立した後は、姚萇が前秦の残党や西燕と戦う間、もっぱら都を守った。都は初めは北地だったが、386年に西燕が長安を棄てると、長安に遷都された。姚萇はこのとき長安を常安と改め、大秦の皇帝を名乗り、姚興を皇太子とした。 392年、姚萇が戦いに出払っている間、姚方成の献言に従って捕虜の前秦の将軍を数人殺した。姚萇はこれを表面上は怒ったが、内心では姚興がこの捕虜たちの危険性を察したことを喜んだという[2]。同年、鮮卑に逃れていた匈奴鉄弗部の劉勃勃(赫連勃勃、夏の創建者)を後秦に従え、その容姿に心酔して朔方を任せている[3]。393年、前秦の残党の苻登が後秦を攻撃すると、姚萇は尹緯の献言に従い、太子の姚興の主導を兵に植え付けるために防御に向かわせた。姚興は容易に苻登を追い返した。同年、姚萇は病床から姚興に姚晃、姚大目、狄伯支ら大臣を重用するよう言い残した。姚晃が苻登を滅ぼす方法を聞くと、姚萇は問に答えずに姚興なら成し遂げられる、とだけ言ったという[2]。姚萇の没後、長男の姚興が後を継いで即位すると、姚緒、姚碩德、姚崇らを信任して前秦に備えた。 即位後関中統一姚萇の死は隠されていたにもかかわらず苻登はこれを聞きつけて後秦を攻撃した。苻広は雍城を、苻崇は胡空堡を、それぞれ要所を守った。対して姚興は馬嵬に陣を敷き、水の供給が足りていなかった前秦軍が川へ到達するのを防いだ。尹緯は前秦軍の劣勢を察知し、姚興に慎重に動くよう注意されていたが士気が高い内にと迎撃した。前秦の敗報を聞いた苻広と苻崇は陣を棄て、苻登はこれらの地を二度と取り返すことはなかった。苦境に立たされた苻登は西秦の乞伏乾帰を頼ったが、乞伏益州が援軍を率いて合流する前に、苻登は姚興に捕らえられて馬毛山(現在の甘粛省平涼市)で処刑された。さらに苻登の軍は解体され、李皇后は姚泓に与えられた。苻登の皇太子の苻崇が後を継いで後秦への抵抗を続けたが、同年、西秦の裏切りによって前秦は滅び、後秦は関中統一を果たした。 拡大期姚興は政務に励み、よく戦って後秦の領土と影響を広げた。397年末、虵太后の死を悼むあまり政務を休み、喪が明けても喪服を着続けた[1]。399年には天体の異変から不吉を察して「皇帝」から「天王」へ称号を変えて弘始に改元している[1]。
衰退期柴壁の戦いの後、劉勃勃(赫連勃勃)の独立も相まって後秦は徐々に衰退していく。402年に姚泓を皇太子にした。以前から勤勉で優しい性格の姚泓を皇太子にしたがっていたが、身体が弱く遠慮していた[4]。
晩年この時期、姚興の一族で皇位を巡る騒動が起きている。409年、弟の姚沖は常安(長安)の攻撃を計画したが裏切りにより失敗し、姚興に自殺を命じられた。411年、姚興が可愛がった姚弼は皇太子の姚泓を陥れる計画を立てていた。414年、姚弼は数度、大臣に姚興を説得させることで姚泓を皇太子から廃そうとしたが、姚興は拒否した。姚興はこの年、病に伏したので姚弼はクーデターを計画した。姚裕を始めとした兄弟達はこれを見て軍備を整えた。姚興が事態を和らげるために息子達を常安(長安)へ呼び寄せると、兄弟達が姚弼の罪を並べたが、追及しなかった。415年、姚弼はこれの仕返しとして姚宣の罪を提造したので、姚興は姚宣を捕らえた。同年秋、再び病床に就くと、姚弼は再度クーデターを企んだ。姚興は姚弼を捕らえたが、姚洸の嘆願にもかかわらず助命して解放した[5]。
416年、姚興は華陰で病を発し、常安(長安)に帰還しようとしていた。姚弼派の尹沖は姚泓が姚興を迎え入れる際に暗殺しようと考えていたが、これを聞きつけた姚泓派の大臣等が迎えるのを止めることを説得した。姚沙弥は尹沖を説得して姚弼派にしようとしたが、拒否された。姚興が常安(長安)に戻ると、後継を姚泓に定めて姚弼の逮捕を命じた。この時、姚耕児は姚興が死んだと信じ込み、姚愔を立ててクーデターを起こそうとした。姚愔は兄弟の兵と合わせて宮を襲い、姚泓の兵と戦ったが、姚興が病体で公に姿を現すと、姚愔の兵は姚興を目にした瞬間、姚愔を見捨てた。この時、姚興は姚弼に自殺を命じた[5][6]。 その夜、姚興は国を姚紹、梁喜、尹昭、斂曼嵬らに託して翌日51歳で死んだ。姚泓が後を継いだが、皇位を巡る更なる混乱に巻き込まれる。この騒動により衰退した後秦は417年に東晋に滅ぼされる。 仏教姚興は仏教を篤く信奉しており、弘始2年(401年)に後涼を降伏させると、亀茲僧の鳩摩羅什を都常安へ招聘した。姚興は鳩摩羅什を国師として拝し、各地に寺院を建立して手厚く保護した。これにより国民の九割が仏教徒になったという。姚興自身も熱心に仏典を追究し、鳩摩羅什に請いて特に『実相論』『維摩経注』を訳出させたといわれる。なお、姚興の弟の大将軍姚顕や左将軍姚嵩も篤く鳩摩羅什を信奉し、しばしば説法に参加したという。弘始7年(405年)、姚興は巨大化した仏僧集団を整備するため、鳩摩羅什の弟子僧肇を初代大僧正に任命して、これを統制した[1][7]。 宗室父母后妃子
脚注
参考文献 |