工藤勉
工藤 勉(くどう つとむ、1959年8月29日 - )は、青森県出身[1]の元騎手・元調教師(地方・高崎所属)。 経歴騎手時代1977年10月7日の高崎第2競走・シノブチドリ(7頭中3着)で初騎乗を果たし、同日の第5競走・イタノフイダルゴで初勝利を挙げる[2] [3]。 1988年にはグレートサーペンとのコンビで活躍し[4]、水沢の第1回北日本マイルチャンピオンシップ南部杯に挑戦[5] [6]。レースはホワイトシローの逃げを新潟のグレートコマンダー[7]がマークし、3番手の内に新潟の古豪イチコウハヤタケ[8]、外に本命のトウケイフリートが続き、緩みの無いペースで進むが、グレートサーペンは向こう上面で中団から外目を通って追い上げを始める[6]。派手な追い方で先行馬群を射程に入れ、実況の加藤久智(岩手放送アナウンサー)は「工藤勉の水車ムチだ、グレートサーペンが上がって行きます」と表現[6]。最後の直線では3番手の外目を進んでいたトウケイフリートを一気に交わし、粘るホワイトシローと一旦は先頭に立ったグレートコマンダーを豪快に差し切った[6]。見事に初代覇者となり[9]、北日本限定とは言え高崎所属として初めて交流レースに優勝[10]。1989年には開設記念を制し大井の帝王賞に挑戦するが、抜群の手応えで進出を開始し始めた第4コーナーにさし掛かった時に落馬に巻き込まれ競走中止、不運にも重度の骨折で予後不良の診断が下された[10]。 1987年から1990年にはスプリンターズ賞を4連覇し、1992年と1993年にはフジギニーとのコンビで同レースを2連覇するが、1995年と1997年にも同レースを制し、8勝を挙げた[11]。1991年と1994年には同レースに騎乗馬がいなかったため[12] [13]、1995年まで騎乗機会7連勝であった。 1991年の高崎大賞典ではアームアニエリで同年の高崎ダービー馬ミサトメモリー[14]と同年に群馬記念を制したカツサニー[15]の追い上げを封じ、逃げ切って大賞典連覇[16] [17]に導いた[18]。 フジギニーでは1992年のスプリンターズ賞を2着馬に4馬身差付けて圧勝し、1993年の同レースでは7番人気に反発して当時4歳ナンバーワンのヨシノキングと直線でデットヒートを続け、鼻面を揃えての入線[19]。長い写真判定の結果、見事に連覇し、1500mのスペシャリストの異名を取った[19]。 1997年にはグランドツアラーとのコンビで笠松のオグリキャップ記念で5着といきなり掲示板に乗る好走[20]、大井の帝王賞では初めてのナイターで12頭中11番人気ながら、コンサートボーイ・アブクマポーロ・バトルラインと当時交流戦で最強と言われる面々を向こうに回し、離されたとは言え、キョウトシチー・シンコウウインディ・ライブリマウントを抑えて掲示板ラインの5着[21]に入った[22]。続く金沢の白山大賞典でも地方勢最先着の4着[23]に入り、中長距離での地位を確立[22]。 2001年7月1日の高崎第8競走AB普通・デュプレファーディが最後の勝利[2] [24]、9月30日の高崎第9競走浅間山特別・キングナムラ(10頭中5着)が最後の騎乗[2] [25]となり、同年限りで現役を引退[2]。 調教師時代引退後は厩舎を開業し、2002年4月12日の高崎第1競走C5普通・エスターフォンテン(8頭中7着)[26]で初出走、同日の第3競走3歳普通・シルバースター[27]で初勝利を挙げる。 2003年12月20日の高崎第4競走C4 16普通・カネサイシャダイが最後の勝利[28]、2004年1月3日の高崎第4競走C3 C49 普通・エプソムソレイユ(10頭中2着)[29]が最後の出走[30]となり、2004年限りで勇退[31]。 騎手成績
調教師成績
脚注出典
外部リンク
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