敦明親王
敦明親王(あつあきらしんのう)は、三条天皇の第一皇子。母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院(こいちじょういん)[1]。藤原道長の圧力の前に自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに准太上天皇としての待遇を得た。 経歴正暦5年(994年)に皇太子・居貞親王の第一皇子として生まれる。父の居貞親王は、長く年下のいとこである一条天皇の皇太子であった。寛弘3年(1006年)11月に元服。この後、藤原顕光の娘・延子と結婚する。寛弘8年(1011年)父の居貞親王が践祚(三条天皇)。敦明も親王宣下を受け、式部卿に任ぜられる。 三条朝の長和3年(1014年)6月に従者に命じて、加賀守・源政職を拉致し、敦明が住む堀河邸に監禁して暴行する。加えて、連行の際には衆人環視の中で政職に自らの足で歩くことを強制してさらし者にする、という事件を起こす。当時、政職は敦明の妹の禎子内親王に対する債務を滞納しており[2]、返済履行を促すための実力行使であった可能性もあるが[3]、当時の天皇の第一皇子による前代未聞の凶行に貴族社会は驚き、舅の右大臣・藤原顕光が批判にさらされた[4][5]。 また、敦明自身だけでなく、家来も以下のような事件を起こしている。
三条天皇は、藤原道長の孫にあたる一条天皇の第二皇子・敦成親王(のち後一条天皇)を皇太子としていた。三条天皇は道長との関係がうまくいかずその圧力を受け続け、長和5年(1016年)1月29日に敦明親王を次期皇太子とすることを条件に退位する。敦明親王は皇太子となるが、身分の上下を問わず諸官人は春宮関係の官職に就くことを忌避。さらに、道長自身も皇太子に伝えるべき壺切の剣を渡さぬなど圧力を加え、翌長和6年(1017年)5月に三条上皇が崩御するとさらに圧迫を強める。一方の敦明側も、14歳も年下の天皇の皇太子では次期天皇として即位できる可能性は低いと考え、自ら皇太子廃位を願い出た。これにより、同年8月9日に皇太子を辞退、同25日に道長の計らいで小一条院の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得る一方で、道長の娘である寛子(母・源明子)を妃に迎えて婿入りし、近衛御門[注釈 1]を居所とする。さらに家司として受領・随身を受け、親王所生の子供たちが三条天皇の猶子の資格として、二世王でありながら親王宣下を受けるなど破格の待遇を受けた。 しかし、これによって敦明に捨てられる形[注釈 2]となった妃・延子は悲しみの余りに寛仁3年(1019年)に急死し、続いてその父親の左大臣・藤原顕光も、治安元年(1021年)に失意のうちに病死した。その後、顕光父娘は怨霊になって道長一族に祟ったとされ、人々は顕光を「悪霊左府(左大臣)」と呼んで恐れたと伝えられている。 敦明は上皇に準じる待遇を得つつも、道長派の受領層からはふさわしい尊重を受けられなかったらしい[17]。寛仁3年(1019年)10月に石山寺に参詣した際には、敦明を接待することになっていた左少弁兼近江守・源経頼(道長の義理の甥)は完全に接待職務を放棄してしまう。そのため、道長の子である権中納言・藤原能信が在国の下級官人を捕まえて、強引に接待に当たらせたという[18]。 一方で、敦明も道長派の受領であった、高階業敏・成章兄弟に暴行する所行に及んでいる。
万寿2年(1025年)3月に母・藤原娍子を、7月に妻・藤原寛子を亡くすが、その後、寛子の兄・藤原頼宗の娘を新たに娶ったことで厚遇を維持していた[22]。 万寿4年(1027年)には、右大臣・藤原実資の家工であった豊武という者の身柄を引き渡すよう要求したところ、実資は公式な場での決着を望んで検非違使庁に裁定を求めるが、検非違使庁は豊武の罪状を認めなかった。そこで、小一条院は実資の小野宮第の近くに住んでいた豊武を5人の従者に拉致させる実力行使に出た。しかし、豊武を連行していた従者が小野宮第の北門の前を通りがかっかため、実資の従者の牛飼らに見つかってしまい両者が抜刀する騒ぎとなる。結局、騒ぎのどさくさに紛れて豊武は逃亡してしまい、拉致は失敗している[23]。 長暦2年(1038年)出家。永承6年(1051年)正月8日薨去。享年58。 孫娘源基子が生んだ実仁親王・輔仁親王は皇位継承者と目されたが異母兄白河天皇に嫌われ、不遇の生涯を送った。 人物短慮な振舞いによる数々の暴力沙汰を起こしたことなどについて、藤原実資の『小右記』には敦明に対する批判が立太子以前より多く記されている。また、藤原行成の『権記』にも皇太子辞退の報を受けて、顔相に詳しくないと前置きしながら「無龍顔」(天皇の相ではなかった)と述べている[24]。 後世の歴史家からも、暴力事件を理由に天皇としての器量がなかったと評されることが多い。しかし、これらの暴力事件はそれなりの必然性があり、むしろ敦明の行動力を示しているとの評価もある[25]。 一方で、長和4年(1015年)の内裏焼亡の際に、急ぎ避難するために母后を抱えて走ったり[26]、慌てて避難したために冠り物がなく髻が露わになっていた父帝に対して自らの髻を気にせず烏帽子を譲った(その後、敦明は誰かの烏帽子を徴して被った)逸話があることや[27]、源政職への辱めも妹が債権の返済がなされず困っていたことから、債務者を懲らしめたものである[3]、として親兄弟には深い愛情を持っていたとされる[26]。 判官代として出仕した源頼義は、狩猟を愛好した敦明に側近として重用された。伝承ではある時、頼義の嫡男(義家)誕生を聞いた敦明がその子の顔を見たいと思し召し、参内した赤子を鎧の袖に座らせて拝謁したという。この時に新調した鎧、もしくは敦明より拝領した鎧が源氏八領の一つ源太が産衣とされる[28]。 妃・王子女
系図
関連作品脚注注釈出典
参考文献
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