新妻 四郎(にいづま しろう、1899年8月25日 - 1951年5月29日)は、日本の俳優である。元映画製作庶務から俳優に抜擢された。新妻 英助(にいづま えいすけ)とも名乗った[1]。
人物・来歴
1899年(明治32年)8月25日、福島県に生まれる[2][3]。
1920年(大正9年)、京都の日活大将軍撮影所に入社、庶務係に配属される[3]。1925年(大正14年)、その体躯が気に入られ[3]社員から俳優となり、尾上卯多五郎主演、池田富保監督のサイレント映画『フラフラ豪傑』の黒雲魔太郎役[1]に抜擢される[3]。同作は同年3月20日に公開され[4]、満26歳での映画俳優デビューとなった。「髭の大男」として人気を得る[3]。1926年(大正15年)、池田富保監督の『実録忠臣蔵 天の巻 地の巻 人の巻』で初めて「不破数右衛門」を演じ、以降、同作も含めて5回演じるあたり役となった[1]。
1930年(昭和5年)、池田富保監督の『元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻 地動の巻』から新妻英助と改名、1933年(昭和8年)、犬塚稔監督の『長脇差風景』を最後に日活を去るまで名乗った。同年、松竹下加茂撮影所に移籍[3][1]、芸名を新妻四郎に戻す[5]。
第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)にマキノ正博監督の『粋な風来坊』[2][3]、翌1947年(昭和22年)には高木孝一監督の『モデルと若様』、1949年(昭和24年)には溝口健二監督の『わが恋は燃えぬ』といった松竹京都撮影所製作の作品に出演した[2]。
その後松竹を退社、映画監督として新妻プロダクションを創立。しかし映画制作は進まず、1951年(昭和26年)5月29日、死去した。満51歳没。
フィルモグラフィ
すべて出演である[1]。特筆以外は「新妻四郎」名義[1]。
日活大将軍撮影所
- 1925年
- 1926年
- 1927年
日活太秦撮影所
- 1927年
- 1928年
- 1929年
- 1930年
- 『元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻 地動の巻』 : 監督池田富保 - 「新妻英助」名義、役・不破数右衛門
- 『腕一本』 : 監督渡辺邦男 - 「新妻英助」名義、役・拳骨の鉄五郎(主演)
- 『競艶恋合戦』 : 監督渡辺邦男 - 「新妻英助」名義、役・虎髭天堂進之丞(主演)
- 『背中の磔』 : 監督清瀬英次郎 - 「新妻英助」名義、役・吹雪算得
- 『怪盗夜叉王 第一篇』 : 監督田中都留彦 - 「新妻英助」名義、役・望月玄藩
- 『怪盗夜叉王 第二篇』 : 監督田中都留彦 - 「新妻英助」名義、役・望月玄藩
- 『怪盗夜叉王 第三篇』 : 監督田中都留彦 - 「新妻英助」名義、役・望月玄藩
- 『小櫻金五郎』 : 監督深川ひさし - 「新妻英助」名義、役・放駒大三郎
- 1931年
- 『裸一貫』 : 監督渡辺邦男 - 「新妻英助」名義、役・銀五郎(主演)
- 『鼠小僧旅枕』 : 監督伊藤大輔 - 「新妻英助」名義、役・馬方権六
- 『殉教血史 日本二十六聖人』 : 監督池田富保 - 「新妻英助」名義、役・北海熊の源次
- 『心の血煙』 : 監督渡辺邦男 - 「新妻英助」名義、役・加々島(主演)
- 1932年
- 『田吾作ホームラン』 : 監督池田富保 - 「新妻英助」名義、役・運転手英公
- 『冷飯十万石』 : 監督池田富保 - 「新妻英助」名義、役・稲妻弥五郎
- 『彦左の一本槍』 : 監督池田富保 - 「新妻英助」名義、役・高田郷助
- 『名人巾着切』 : 監督清瀬英次郎 - 「新妻英助」名義、役・関鉄之助(勤王志士)
- 『三萬兩五十三次 前篇 江戸明暗』 : 監督辻吉郎 - 「新妻英助」名義、役・南郷小平太
- 1933年
松竹下加茂撮影所
- 1933年
- 1934年
- 1935年
- 1936年
- 1937年
- 1938年
- 1939年
- 1940年
- 1941年
- 1943年
- 1944年
松竹京都撮影所
註
外部リンク