日本とボスニア・ヘルツェゴビナの関係 (ボスニア語 : Odnosi Japan i Bosna i Hercegovina 、クロアチア語 : Odnosi Japan i Bosna i Hercegovina 、セルビア語 : Односи Јапан и Босна и Херцеговина 、英語 : Japan–Bosnia and Herzegovina relations ) では、日本 とボスニア・ヘルツェゴビナ の関係について概説する。
両国の比較
歴史
駐日ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館が入居するビル
ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館は2Fと3F
在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本国大使館 全景(サラエヴォ )
ボスニア・ヘルツェゴビナ前史
紀元前1世紀 にローマ帝国 の支配下に入る[ 18] 。
6世紀 にはスラヴ人 が定住し、キリスト教 カトリック と正教会 の境界線となる[ 18] 。
12世紀 後半、ボスニア王国 が同地域を支配し、現国家の源流となった[ 19] 。
15世紀 後半、オスマン帝国 の支配下に入る[ 18] 。
19世紀 から20世紀 にかけて、オスマン帝国の弱体化に伴いオーストリア=ハンガリー帝国 とロシア帝国 の勢力争いの場になる。1908年にはオーストリア=ハンガリー帝国 によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合 、1914年にはサラエヴォ事件 が起こり、第一次世界大戦 勃発のきっかけとなる[ 20] 。
1918年に成立したユーゴスラビア王国 に参加し、第二次世界大戦 後はユーゴスラビア社会主義連邦共和国 の一自治共和国「ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国 」となる[ 18] 。
1984年にサラエヴォオリンピック が開催された。
1992年から1995年まで、ユーゴスラビア紛争 の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 が勃発。独立を果たす。
独立以前の交流
独立以前のボスニア・ヘルツェゴビナ と日本の交流は、オーストリア=ハンガリー帝国 やユーゴスラビア を介していた。特に1984年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国 が開催した初めてかつ唯一のサラエヴォオリンピック では、日本は選手団を送って北沢欣浩 がスピードスケート 男子500mで見事銀メダル を獲得している[ 21] 。また、開催都市招致の段階からサラエヴォ と日本の札幌市 はライバルであり、決選投票も行われて札幌 は3票差という僅差でサラエヴォに敗れている[ 22] 。
その後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 が勃発。フォチャの虐殺 、プリイェドルの虐殺 、ラシュヴァ渓谷の民族浄化 、スレブレニツァの虐殺 といった凄惨な事件が次々発生し、欧州最大の紛争となった。これを受け日本は現地から殆どに日本人を帰国させ、また日本でも連日この紛争が報道された[ 23] 。紛争終結後、日本はボスニア・ヘルツェゴビナに対して多くの人道支援を実施した[ 24] 。なお、紛争はデイトン合意 によって和平を迎えたが、日本は和平履行評議会の一国として和平維持を継続的に促している。
外交史
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 を経てユーゴスラビア からの完全な独立を果たすと、1996年1月23日に日本は同国を国家承認し、同年2月9日には外交関係が樹立した[ 3] 。同年6月から在オーストリア日本国大使館がボスニア・ヘルツェゴビナを兼轄し、1998年2月にはサラエヴォ に兼勤駐在官事務所 を開設、2008年1月に在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本国大使館 に格上げされた[ 3] 。一方のボスニア・ヘルツェゴビナ側は1991年1月に東京に駐日ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館が設置され、2月から駐日大使が常駐を開始した。
現況
要人往来
紛争終結間近の1994年、外務省 総合外交政策局 長柳井俊二 をヘッドとする旧ユーゴスラビア調査チームがボスニア・ヘルツェゴビナに派遣された。これを契機に紛争終結後は日本からのボスニア・ヘルツェゴビナ訪問が始まり、1996年には外務大臣 池田行彦 が、1998年には外務大臣小渕恵三 が当国を訪問した[ 3] 。近年では、2016年10月に両国外交関係樹立20周年を節目に外務副大臣 岸信夫 がボスニア・ヘルツェゴビナを訪問して、経済関係の強化について話し合われた[ 25] 。
ボスニア・ヘルツェゴビナ側は2005年にアドナン・テルジッチ閣僚会議議長が来日して総理大臣 小泉純一郎 と首脳会談 を実施。ボスニア側は日本の和平履行への貢献に感謝を示したのに対し、日本側はさらなるボスニア・ヘルツェゴビナの安定化と経済発展のための支援を約束した[ 26] 。また、2019年には即位礼正殿の儀 のために大統領評議会 議長ジェリコ・コムシッチ が来日した[ 27] 。
経済関係
経済的には、日本は2018年までに500億円以上の開発援助 を実施した。主要な援助はインフラ整備で、日本のODA で建設されたドボイ橋及びモドリッチャ橋は、紛争後長らく阻害されてきた円滑な物流に大きな貢献を果たした[ 28] 。また、ボスニア・ヘルツェゴビナは欧州の中では未だに賃金が低く生産コストが少ない。その事から、製造拠点としての潜在性が日系企業に注目されつつある[ 29] 。
外交使節
駐ボスニア・ヘルツェゴビナ日本大使
駐日ボスニア・ヘルツェゴビナ大使
ベンヤミン・マルキン (1998~2001年、信任状捧呈 は1999年2月10日[ 30] )[ 31]
ヴラディミル・ラスプディッチ (2002~2006年、信任状捧呈は3月22日[ 32] )
ボリヴォイ・マロイエヴィッチ (2006~2009年、信任状捧呈は3月31日[ 33] )
ペロ・マティッチ (2010~2013年、信任状捧呈は6月25日[ 35] )
アネサ・クンドゥロビッチ (2014~2017年、信任状捧呈は4月9日[ 36] )
ボリスラブ・マリッチ (2017~2019年、信任状捧呈は5月10日[ 37] )
シニシャ・ベリャン (2019年~2023年、信任状捧呈は7月4日[ 38] )
マト・ゼコ (2023年~、信任状捧呈は12月7日[ 39] )
脚注
参考文献
ボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)基礎データ 外務省
関連項目
外部リンク
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