東南アジア学(とうなんアジアがく)は、東南アジアと呼ばれる地域をテーマとする研究である。
概要
西欧諸国による東南アジア学の成立は、これらの諸国が東南アジアに進出していった16世紀にまで遡る。しかし当時の東南アジア学は、西欧諸国が東南アジアの諸王国との交易を主な目的とし、交易拠点(港市)の確保を目指したことと対応し、これら港市で直接的・間接的に得られる情報(各地の特産品や内陸部の民族誌)を記述するレベルに止まっていた。
18世紀末以降、西欧諸国による領域支配が本格化し、租税の徴収やプランテーション経営など内陸部の開発を進めていったことから、東南アジア学の内容はより体系化・深化されたものになっていった。すなわち支配下に置いた民族からの徴税やプランテーション労働への動員の必要から、彼らの社会・文化などに関してより詳細な情報や分析が必要とされるようになったのである。この結果、東南アジアの諸民族の言語・宗教・社会慣行についての研究が進められるようになり、これらの研究を担う教育・研究機関が組織化された。また、内陸部での領域支配が進行する過程でアンコール・ボロブドゥールなど古代文明の遺跡が発見され、考古学的調査が進められた。
以上のように、特に19世紀から20世紀前半にかけて多くの注目すべき成果を生みだした東南アジア学は、植民地支配と強く結びついており、フランスにおけるアンコール学、オランダにおけるジャワ学など、各地域の研究はそれぞれを支配する宗主国の機関や研究者を中心に進められるのが普通であった。しかしその一方で、19世紀末には各地域での一定の近代化政策の結果、西欧的教養を身に着けた現地人エリートが育成されるようになり、例えばホセ・リサールのように宗主国本位の東南アジア学を批判し、支配される側の視点からの東南アジア学を志向する動きも現れた。
日本においては、17世紀初めの短い朱印船貿易時代ののち、長い鎖国体制を経験したこともあって、長い間日本人自身の見聞に基づく東南アジア学が形成されることはなかった。西川如見『華夷通商考』は、東南アジアの人や事物についてまとまった言及が見られる点で、近世の日本においては例外的な書籍であるが、欧米人による見聞をそのまま祖述するレベルにとどまっており、ここで欧米人によるバイアスをそのまま取り入れた東南アジア観は、福沢諭吉の地理書『世界国尽』まで継承されている。明治維新後においても、日本は東北アジアへの進出・征服を国策(北進論)とし、東南アジア方面への進出(南進論)を重視しなかったこともあって、日本人のアジア研究(東洋学)の中で東南アジア学は等閑にされがちであった。
欧米の後追いという形で日本の東南アジア学がようやく端緒についたのは、日清戦争による台湾領有以後のことであり、台湾総督府を中心に東南アジア事情の研究という形で進められた。しかし第二次世界大戦以前はほぼ欧米の文献の翻訳紹介のレベルに止まっており、主として日本語史料や漢文史料をソースとした岩生成一・石田幹之助らによるオリジナルな研究が出てきたのは、ようやく1940年代のことであった。
年表
16世紀から18世紀
19世紀
20世紀
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関連項目