浅野 忠順(あさの ただより)は、江戸時代中期の安芸国広島藩の家老。三原浅野家第9代。
略歴
寛政2年(1790年)5月1日、広島藩主浅野重晟の七男として安芸広島城中で生まれる。寛政5年(1793年)12月5日、4歳で三原家先代忠愛の跡を継いだ。[2]
文化元年(1804年)8月、実兄の藩主浅野斉賢に御目見し、元服して忠順と名乗る。
文化11年(1814年)8月、病により隠居して家督を養子の忠敬に譲り、三原に移住した。格別の由緒から藩より毎年銀十八貫目を賜った。[3]文政2年(1819年)、修と改名する。文政6年(1823年)、三原城二の丸に別邸を建設して移り住む。[2]
文政7年(1824年)4月24日、三原で死去、享年35。菩提寺の妙正寺に葬られた。
龍泉寺(広島県三原市小泉町)境内に「禅は禅の 色香見せけり 山桜」と詠んだ忠順の句碑が建てられている。
脚注
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 25頁。
- ^ a b 御調郡誌
- ^ 三原市史
参考文献