浅野泰治郎
浅野 泰治郎(あさの たいじろう、1884年〈明治17年〉7月5日[1] - 1947年〈昭和22年〉11月29日[2])は、日本の実業家。浅野財閥二代目総帥として苦境にあった浅野財閥を再建した。二代目浅野総一郎を襲名する。 来歴初代浅野総一郎の長男で、浅野セメント深川工場で生まれた[3]。早稲田大学商科を卒業後、セメント業研究のために欧米を何度も視察した。1930年(昭和5年)、父の死後に浅野財閥総帥になると浅野総一郎を襲名したが、弟の浅野良三に実務を任せた。1938年(昭和13年)に刊行された中外産業調査会による『中堅財閥の新研究 関東編』という書籍には「独裁的」な先代と比較して「うって変って温和な性格、よく云えば長老の風があり、悪く云えば長男型で、平々凡々だ」という人物評がある[4][5]。 浅野総一郎死後の1932年(昭和7年)8月に、浅野同族会社(浅野財閥の本社)は安田財閥傘下銀行(安田銀行と日本昼夜銀行)から、払込資本金の1.8倍に達する借金を抱えていた。浅野泰治郎は、この借財を整理するために、安田財閥の支援を得ながら、関連会社16社を整理・統合し、財閥を再建した[6]。具体的には以下の通り。浅野セメントに日本セメントと土佐セメントを吸収合併させた。磐城炭鉱には第二磐城炭鉱を吸収合併させた。国策に従って発電設備を日本発送電に売却した後で関東水力電気と浅野カーリットと関水興業を一つにまとめて関東電気興業にした[7]。神奈川コークスを東京瓦斯に売却し利益を得た。また、発電所が完成すると庄川水力電気の持株を日本電力に売却して利益を得た。さらに大日本鉱業の持株を住友合資会社に売却して整理した。富士製鋼を日本製鐵結成に参加させて処分した。大島製鋼所を日曹製鋼に売却した。武蔵野鉄道を整理した。経営難が続く東洋汽船に関しては、1933年に東洋証券を設立して安田銀行の借入金を肩代わりさせ、さらに東洋海運を設立して東洋汽船持船全部を定期貸船にして、復配に成功した[8]。朝鮮鉄山を十分の一に減資して繰越損失を埋め、さらに、鉄鉱区を浅野造船所に売却した。石油精製業の内外石油は採算が合わないので開業前に事業を中止した[9]。小倉製鋼の4万株を売却し、さらに関東水力電気の4万株も売却して、その利益を安田財閥の安田銀行と日本昼夜銀行からの借金返済に当てた。浅野造船所は減資して繰越損金を一掃した[10]。 1930年(昭和5年)浅野泰治郎、鈴木紋次郎、金子喜代太が安田保善社に赴き浅野財閥本社である浅野同族会社の整理案を相談したが、理事の森広蔵と安田財閥の同意を得られなかった[11]。その後、浅野同族会社を清算し解散して、臨時の代替会社として浅野興業株式会社を設立することに、安田財閥の賛成を得る[12]。また、浅野興業が室蘭埋築を買収して少し規模を拡大することを決定した[13]。1947年(昭和22年)に没した[14]。 役職磐城炭鉱、小倉製鋼、関東水力電気、浅野重工業、沖電気、東京湾埋立、台湾地所建物、小倉築港の会長と、浅野同族、浅野興業、室蘭埋築、浅野企業、沖電気証券、浅野証券保有、石城証券、浅野保険代理部、浅野物産、浅野セメント、台湾セメント、朝鮮浅野セメント、日本高炉セメント、日本ヒューム管、日向興業、沖通信機、伏木板紙、港湾工業、浅野ビルディングの社長と、浅野総合中学校の理事長を兼任した[15]。また、1942年(昭和17年)にセメント統制会長に就任した[16]。 趣味家族
姻族関係系図
(参考文献)『財界家系図』、『日本の有名一族』、『御侍中先祖書系圖牒』、『土佐の墓』、『日本人なら知っておきたい名家・名門』、『閨閥』、『板垣精神』、『平成新修旧華族家系大成』 脚注
参考文献
関連項目 |