片倉直人
片倉 直人(かたくら なおと、1885年11月9日[1] - 1958年10月16日)は、日本の実業家、教育者。 片倉製絲紡績株式會社取締役、伊勢萬吳服店株式會社取締役、日東紡績株式會社取締役、東部電力株式會社取締役、富國火災海上保險株式會社取締役、諏訪生絲副產株式會社取締役、備作製絲株式會社監査役、郡山商工會議所副会頭(初代)、片倉生命保險株式會社社長、学校法人松本松南高等学校理事長(第3代)などを歴任した。 概要長野県出身の実業家である。製糸業や金融業などで活躍し[2]、片倉製絲紡績など多くの企業の経営に参画した[2]。富國火災海上保險では取締役となり[2]、片倉生命保險では社長に就任している。そのほかにも郡山商工會議所の副会頭など公的団体の役職や[2][3]、松本松南高等学校を運営する学校法人の理事長などを歴任した[4]。 来歴生い立ち1885年(明治18年)11月に生まれ[2]、長野県諏訪郡川岸村で育った。父である片倉俊太郞は実業家として活動していた。生家は祖父である片倉権助が興した家であり、他の片倉家と区別する際には「新宅」と呼ばれていた。一方、権助の兄である片倉市助の家は、のちに当主が代々「兼太郞」を襲名するようになったことから「片倉兼太郞家」と呼ばれていた。「新宅」の家督は兄である片倉勝衞が継承するため、直人は1918年(大正7年)に「新宅」から分家した[2]。 実業家として直人の従伯父である初代片倉兼太郞は「片倉兼太郞家」の当主であり、尾澤金左衞門や林國藏とともに「信州製糸の三大明星」[5]と謳われるなど、長野県の製糸業界に多大な功績を遺した。同じく直人の従伯父である二代目片倉兼太郞は、直人の叔母と結婚し、初代兼太郞から引き継いだ家業を発展させて片倉財閥を興し、「諏訪の六大製糸家」さらには「日本のシルクエンペラー」と呼ばれるに至った。直人も片倉財閥の事業に携わることになり、中心企業である片倉製絲紡績で取締役に就任した[2][註釈 1]。 そのほかにも多くの企業の経営に携わっていた[2]。片倉生命保險においては取締役を務め[2][註釈 2]、のちに社長に就任した。片倉生命保險は、当時の生命保険業界では最後発に位置する企業であった。しかし、役員を片倉家の関係者で固めるなど、片倉財閥との結び付きを深めており、財閥傘下の各企業の従業員を勧誘する営業手法に活路を見出していた。その結果、新規契約高は急上昇を示しており「驚くべき数字を示し本邦保険界に新記録を造った」「他の同業会社が十数年を費す処を僅々五年にして為しとげたのは流石は片倉である」などと報じられた。ただし「斯様な勢いで急激に発展した反動か失効も相当に現われた様であった」とも報じられている。また、富國火災海上保險においても[註釈 3]、取締役に就任している[2]。さらに日東紡績においても取締役に就任していた[2]。そのほか、伊勢萬吳服店[2]、東部電力[2]、諏訪生絲副產[2]、といった各社の経営にも取締役として参画していた[註釈 4]。また、備作製絲では監査役に就任した[2][註釈 5]。 公的な団体の役職も兼任しており、1925年(大正14年)12月には推されて郡山商工會の初代副会頭に就任した[3]。なお、商工会議所法の公布により1928年(昭和3年)に郡山商工會議所に移行したが[3]、引き続き副会頭を務めた。副会頭在任中は、福島県郡山市の産業振興に貢献した。1929年(昭和4年)11月に小口理一が後任の副会頭に就いた[3]。太平洋戦争終結後は、長野県の教育振興に力を注いだ。林清市の辞任を受け[4]、松本松南高等学校を設置・運営する学校法人の理事長に就くことになり[4][註釈 6][註釈 7]、1951年(昭和26年)4月16日に着任した[4]。在任中に学校林の購入や校地の拡張を推進し[4]、校舎の増築や体育館の新設を手掛けるなど[4]、教学環境の整備に尽力した。1958年(昭和33年)10月16日、理事長在任のまま死去した[4]。後任には、日東紡績の社長などを歴任した再従兄の片倉三平が就任することになった[4]。 略歴
著作寄稿、分担執筆、等
家族・親族
系譜
脚注註釈
出典
関連項目関連文献
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