矢島賢
矢島 賢(やじま けん、クレジット表記・ken yajima、1950年3月18日 - 2015年4月29日[1])は、日本のギタリスト、スタジオ・ミュージシャン。 ベーシストの江藤勲らとともに、日本の歌謡曲の黄金時代を、サウンド面で支えた。 経歴群馬県前橋市生まれ。群馬県立渋川高等学校卒業後上京。ベトナム戦争最中の1969年より、横田や厚木等の在日米軍基地の将校クラブ、ティーンズ・クラブ等で演奏した。当時のゲストボーカルは五輪真弓。 その後東芝レコードプロデューサー渋谷森久の目に留まり、徐々にバンド活動からスタジオ・ミュージシャンの道を歩み始める。郷ひろみの「男の子女の子」や、山口百恵の「プレイバックPart2」、近藤真彦「ハイティーン・ブギ」[2]などのヒット曲のセッションに参加し、セッション・ギタリストとしての名声を高める。他にも沢田研二や井上陽水、吉田拓郎、長渕剛など数多くのアーティストのレコーディングに参加。しかし、これらのシングルには名前が表記されないことが多く、矢島の活動が知られるようになったのは2000年代になって再評価が進んでからである。 1981年にフェアライトII、その後フェアライトIIIを導入し、アメリカMCI製2インチ24トラックとサウンドクラフト製コンソールで、ホームレコーディングを都内で始めた。 1982年には「矢島賢&ヴィジョンズ」名義で『REALIZE』発表。 1984年から妻であるキーボーディストの矢島マキ(田代真紀子)[3]、岩沢幸矢・MANA夫妻と結成した「Light House Project」名義で編曲を主として活動(下記参照)。[4] 長渕剛は矢島のことを「ソロギタリストで唯一頭が上がらない人物」と公言し、長渕の「海」は矢島のために書いた曲と言っており、矢島のギターソロが大々的にフィーチャーされている。 長渕は「Guitar Magazine」2009年11月号のインタビューの中で、『クラプトンも好きだし、クレイジー・ホースとニール・ヤングも好きだし……後、矢島賢だね、俺は。今はどこかへ消えちゃったけど。探してるけどいないんだ、行方不明なんだよ(笑)。クレイジーでぶっ飛んでて、あんなブルース・ギターを弾ける人は日本にはいないよ。俺は彼と1980年から7年位一緒にバンドをやったけど、凄かった。あの人のギターは今までで一番。どんな海外のアーティストよりも凄い。ロスの有名なティム・ピアースのプレイもエッジが尖っててソリッドでバーンと伝わってくるけど、矢島賢のプレイはそれ以上だ。ぜひ、また一緒にやりたい。復活してほしいね。』と語っている。 その後、「Guitar Magazine」2013年11月号に矢島のロングインタビューが掲載された。 死後の2016年に発売された『ニッポンの編曲家』(川瀬泰雄+吉田格+梶田昌史+田渕浩久編、ディスクユニオン)に、最後のインタビューが収載された。 ディスコグラフィーアルバム
サウンドトラック音楽作曲
編曲
参加作品あ行
か行
さ行
た行
な行は行ま行や行ら行
Light House Project
脚注
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