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秋津洲 (水上機母艦)

秋津洲
昭和17(1942)年4月18日、淡路沖で終末全力運転公試中の水上機母艦「秋津洲」[1]
昭和17(1942)年4月18日、淡路沖で終末全力運転公試中の水上機母艦「秋津洲」[1]
基本情報
建造所 川崎重工業[2]艦船工場(神戸)
運用者  大日本帝国海軍
艦種 水上機母艦[3]
建造費 成立予算 11,825,000円[4]
母港 横須賀[5]
艦歴
計画 昭和14年度(1939年)、④計画[6]
起工 1940年10月29日
進水 1941年7月25日
竣工 1942年4月29日
最期 1944年9月24日沈没
除籍 1944年11月10日[7]
要目
基準排水量 4,650英トン[8]
公試排水量 5,000トン[9]
全長 114.800m[9]
水線長 113.000m[9]
垂線間長 108.700m[9]
水線幅 15.800m[9]
深さ 9.65m[10]
吃水 5.400m (公試平均)[9]
主機 22号10型ディーゼル4基[9]
(フルカンギア接続)[9]
出力 8,000hp[9]
推進器 2軸 x 350rpm[8]
直径2.500m、ピッチ2.200m[8]
速力 19ノット[9]
燃料 重油満載 455トン[9]
航続距離 8,000カイリ / 14ノット[9]
乗員 計画乗員 545名[10]
竣工時定員 338名[11]
搭載能力 航空燃料689トン[10]
航空魚雷36本[12]
爆弾 800kg30個、500kg15個、250kg100個、60kg100個[13]
糧食・真水[9]
魚雷艇5隻(最終時)[14]
兵装
搭載艇 9m内火艇1隻、12m内火ランチ2隻、9mカッター2隻、6m通船1隻[15]
搭載機 飛行艇1機搭載可能 (停泊時)[16]
レーダー 21号電探7型1基(最終時)[14][17]
その他

臨時の工作艦設備(最終時)[18]

・名前の由来 「記紀」(「古事記」「日本書紀」)に記された日本の本州の古名
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秋津洲(あきつしま)は、大日本帝国海軍水上機母艦[2][19]。 秋津洲型の1番艦(同型艦は建造されず)[20]。 日本海軍の類別上は水上機母艦だが[3]、実際には大型飛行艇への補給、整備を任務とする艦艇であり、飛行艇母艦と呼ばれる事もある[21][22]

艦名は明治期の防護巡洋艦秋津洲」に続き2代目[23][24]秋津洲とは、日本の別称(「記紀」(「古事記」「日本書紀」)に記された日本の本州の古名)[25][26]

概要

軍艦秋津洲(あきつしま、2代目)は、日本海軍が太平洋戦争で運用した水上機母艦[27]。類別上は水上機母艦だが[19][3]飛行艇の整備補給や救難をおこなう飛行艇母艦である[22]二式飛行艇を艦尾のクレーンでつりあげ、後甲板に搭載して整備することが可能だった[28]。ただし、飛行艇を搭載したままでの航行は想定していない[28]

秋津洲は神戸川崎重工業で1940年(昭和15年)10月末から建造がはじまり、1942年(昭和17年)4月29日に竣工した[27]第十一航空艦隊の第二十五航空戦隊に編入され、5月中旬にサイパン島へ進出[27]。続いてニューブリテン島ラバウルに進出し、飛行艇部隊(横浜海軍航空隊)の支援をおこなった。8月8日には、ガダルカナル島の米艦隊攻撃にむかう第八艦隊とすれちがった(第一次ソロモン海戦[29]。その後、ショートランド泊地を拠点にガダルカナル島の戦いにともなうソロモン諸島の作戦に従事した[27]

1943年(昭和18年)2月以降、内南洋諸島で行動する機会が増えた。6月末、幌筵島に進出してキスカ島撤退作戦の支援をおこなった[27]。その後は中部太平洋諸島で行動。1944年(昭和19年)2月17日、トラック島空襲に遭遇して損傷[27]メレヨン島パラオ諸島を経由して、横須賀に帰投した[27]。日本海軍はパラオ大空襲で工作艦明石を喪失[30]。そこで秋津洲を工作艦に改造した[18]捷号作戦にそなえ、秋津洲は第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)に編入された[31][32]

9月上旬、秋津洲はヒ75船団に同行して九州を出撃、リンガ泊地所在の第一遊撃部隊(通称、栗田艦隊)との合流をめざす[32]。 9月21日、マニラの日本軍は米軍機動部隊艦載機の攻撃をうけ、駆逐艦皐月等が沈没、大損害を受けた[33][34]。秋津洲は特務艦神威等と共にカラミアン諸島コロン島に退避する[33][35]。9月24日、ふたたび空襲をうけ給糧艦伊良湖[35]等と共に撃沈された[33][36]

計画

日本海軍では、真珠湾攻撃の5年前から航空機によるハワイ攻撃作戦の研究が組織的に進められていた。

1936年(昭和11年)に海軍大学校がまとめた文書、「対米作戦用兵ニ関スル研究」には、「開戦前敵主要艦艇特ニ航空母艦AL(=真珠湾)ニ在泊スル場合ハ敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母(艦載機)並ニ中艇、大艇)ニ依ル急襲ヲ以テ開戦スルノ着意アルヲ要ス」とある。もし対米戦が始まっても、アメリカ艦隊が出撃して来なければ、帝国海軍の想定した速戦即決の艦隊決戦は起きない。そこで敵の根拠地である真珠湾を航空機で(宣戦布告前に)奇襲攻撃することで開戦し、アメリカ艦隊に早期の出撃を強要することを考えたのである。その奇襲攻撃には空母艦載機の他に、航続力の大きい飛行艇(大艇、中艇)を使用するつもりだったのである。

この文書には、続いて「而シテ現状ニ於テハ大艇、中艇ハGK(=マーシャル諸島)東端付近ヨリ出発シ予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給ヲ行フ等ノ手段ヲ講ズルヲ要ス」とある。この手段を、水上艦艇で具体化したものが、飛行艇母艦「秋津洲」であり、潜水艦で具体化したものが、「潜補型」であった。

水上機戦力に力を入れた帝国海軍は、大型飛行艇九七式飛行艇二式飛行艇)を洋上補給・整備するための新造飛行艇母艦(移動基地)を要望した[22]。そのため水上機母艦「神威」を改装したが十分でなく、昭和14年度計画(④計画)において新艦(仮称第131号艦)を建造することとなった[37][38]。当初、飛行艇母艦大型(9,950トン)と小型飛行艇母艦(2,550トン)の二種を検討したが、最終的に中型艦案にまとまった[38]。 また昭和17年度の改⑤計画では秋津洲型3隻が建造予定だったが[20]、戦局の変遷により建造中止になった[37][39]。開戦の準備として発動された戦時急備計画(マル急計画)でも同型艦(第303号艦、予定艦名「千早」)の建造が決まり[40][12]、昭和17年7月25日に起工されたが、昭和17年秋には建造中止となった[28]。このほかに、1万1000トン級の艦隊随伴型大型飛行艇母艦、3300トン級の小型飛行艇母艦も計画された[22]。さらに福田啓二造船中将により排水量3万トン、全長200m、幅24mの巨大艦も検討されたが、いずれも太平洋戦争の勃発により実現しなかった[22]

艦型

「秋津洲」は排水量5000トン程度であり、大型飛行艇1機を艦上で整備するという構想には無理があった[28]。当初の計画では、艦尾のスロープから大型飛行艇をウインチで船体後部の飛行艇収容区画へ引き揚げる計画だった[22][38]。ところが川西航空機が開発した二式飛行艇(重量31トン)をウインチで引き揚げるのは無理という判断により、設計を変更して艦尾に35トン電動クレーンを装備した[28]。このクレーンが秋津洲型の最大の特徴となった[28]。艦内には航空隊員用の居住施設、飛行艇に搭載する魚雷(36本)・爆弾・機銃弾等の弾薬庫、軽質油用タンク、工作施設を備え、通信設備も充実していた[13]。なお秋津洲型は大型飛行艇を艦上に収容した場合、搭載機が航行中に損傷したり、あるいは操艦そのものが困難となるため、揚収中は航行しない事を前提に運用されている[28]

「秋津洲」が施していた特異な迷彩塗装は、同艦の初代艦長黛治夫大佐の影響であった[18]。第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第八艦隊参謀長大西新蔵少将が本艦の迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には「攻撃力がないから、昆虫のように保護色にしたんですよ」と黛艦長は説明している[29][41]。 またラバウル停泊時、空襲を回避するため、連日の爆撃から航海士が米重爆の水平爆撃のクセを見抜き、黛艦長に進言、独自の回避行動を実践した[42]。これは停泊中に空襲を受けた場合に、両舷の錨を右舷側に偏らせ150mの所まで錨鎖を伸ばしておき、敵機が仰角38度になった時に前進一杯を号令すると艦が急速に右舷側に動いて回避できるという方法であった[43][42]。ソロモン諸島で行動する時には、座礁すれすれの場所を通ることで米潜水艦の襲撃を防いでいる[44]。黛は単艦指揮官としての工夫を「秋津洲流兵法」[45]、航海方法については「秋津洲流戦場航海術」と称していた[46][44]

機関は22号10型ディーゼル4基を搭載、2組ずつフルカンギアで接続し2軸とした[9]。その他補助缶にホ号艦本式缶(空気過熱器付)2基を搭載した[9][8]。電源は200KVAディーゼル発電機2基、2770KVA同1基を搭載、交流電源だった[10]

大戦中は飛行艇用の広い後甲板とクレーンを利用して魚雷艇数隻を搭載し前線への輸送を行った[18]1944年(昭和19年)3月に横須賀海軍工廠で損傷修理を行った際に21号電探を前部マスト上に1基装備、機銃を増備し25mm3連装機銃6基、同単装3挺となった[12]。また後甲板に軌条3組を設けて、魚雷艇または大発などの運搬設備を設けた[12]。日本海軍は1944年前半に工作艦船のほとんどを喪失したため[18]、同年8月に呉海軍工廠で臨時の工作艦任務のための改造を行った[12]

艦歴

建造経緯

1940年(昭和15年)10月29日、神戸川崎重工業で起工[47][38]。 1941年(昭和16年)6月30日、正式に「秋津洲」の艦名が与えられる[2]。同日附で水上機母艦に類別[3]7月25日昭和天皇の名代として久邇宮朝融王臨席のもと、秋津洲は進水[38][48]。 10月15日、日本海軍は岩淵三次大佐を秋津洲艤装員長[49]に任命する(岩淵は10月15日まで練習巡洋艦香椎艦長)[50]。11月5日、神戸川崎重工業に秋津洲艤装員事務所を設置[51]

1942年(昭和17年)3月25日附で秋津洲艤装員長は黛治夫大佐に交代する[52](岩淵大佐は4月20日より戦艦「霧島」艦長)[53]。 黛は4月3日に到着して、岩淵から職務を引き継いだ[54]。当時、海軍省人事局第一課長中瀬泝大佐は黛に対し、単艦行動の多い「秋津洲」の任務は危険であること、建造予定3隻のために試用実験報告を提出するよう伝えたという[54]

4月18日、アメリカ軍はドーリットル空襲を敢行した[55][56]。 4月21日、神戸沖で公試中の「秋津洲」は「B-25を発見、砲撃して撃退した」と報告する[57]。「秋津洲」は岩国空の九六式陸上攻撃機2機を高角砲で誤射しており、この陸攻には被害は生じなかったものの、高角砲の破片が淡路島航路の連絡船「天女丸」周辺に降り注ぎ、それが機銃掃射と誤認されて報告されたことから空襲警報発令という事態に至った[58]。 友軍機が敵味方識別信号を発しなかったため、黛の判断で発砲した結果だった[59]

「秋津洲」は4月29日に竣工[60][61]。同時附で秋津洲艤装員事務所を撤去[62]。黛艤装員長は正式に秋津洲艦長(初代)となる[63]横須賀鎮守府[64][65]。ただちに横須賀に回航された[60]

飛行艇母艦

1942年(昭和17年)4月30日、「秋津洲」は横須賀に到着した[66]5月5日、横須賀鎮守府司令長官平田昇中将は「秋津洲」を視察、御真影の伝達式も行われた[67]5月15日、「秋津洲」、「ぶら志゛る丸[68]、「第一号哨戒艇」、「第二号哨戒艇」は横須賀を出撃し[69]サイパン島へ向かった[70][71]。 途中、「ぶら志゛る丸[69]以下ミッドウェー作戦従事中の輸送船団と別れる(「ぶらじる丸」、哨戒艇2隻は19日サイパン着)[72][73]。サイパン入港直前、「秋津洲」は米潜水艦から雷撃されるが命中しなかった[74][75]。 入港後、黛はサイパン島守備隊(第五根拠地隊、司令官春日篤少将)に事情を説明したが信用されなかったという[74]。潜水作業により、左舷後部(推進器軸上)に魚雷命中(不発)の痕跡があった[76]。第五根拠地隊司令官はサイパン島周辺に敵潜水艦がいるため攻略船団にグァム島へむかうよう意見具申したが、認められなかった[68]。ミッドウェー攻略船団はサイパン島に集結したが[68]

「秋津洲」はサイパンに一時寄港したのち[77][78]、5月20日にサイパンを出発した[79]5月24日午後2時にニューブリテン島ラバウル到着[80][81]。第25航空戦隊(司令官山田定義少将)の指揮下に入る[27][80]。 第25航空戦隊には九七式飛行艇を装備した横浜海軍航空隊[53]が所属しており、「秋津洲」は第5空襲部隊・第一特務隊(指揮官黛治夫秋津洲艦長)として[82][83]、航空部隊の補給・整備・救難に従事することになった[82][84][85]。 またラバウル所在航空隊(第十一航空艦隊)の雷撃訓練や、ラバウルを空襲する連合軍爆撃機への対空戦闘にも協力した[86][85]。爆撃回避後、浮かんだ魚は艦内神社(秋津洲神社)に奉納されたあと、乗組員の食卓に供された[42]

6月下旬、南洋方面部隊はソロモン諸島およびニューギニア方面に航空基地を建設する為の『SN作戦』を発動[87][88]。 第25航空戦隊(第5空襲部隊)は飛行場を新設するため、事前にソロモン諸島で偵察を実施[85]ガダルカナル島に適地を発見する(8月上旬完成見込み)[89][90]。他方面での作戦と並行しつつ、ガダルカナル島へ向かう輸送船団の護衛や哨戒に従事する[88]。 飛行艇母艦として行動していた頃は、単艦もしくは「秋風[91][92]などの駆逐艦1隻を護衛に伴っての行動が多かった[93]


1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦にともないガダルカナル島フロリダ諸島ツラギ島)に上陸を敢行、ガダルカナル島の戦いが始まる[94][95]黛治夫(当時秋津洲艦長)によれば、当時の「秋津洲」はラバウルにあり、第25航空戦隊(司令官山田定義少将)の下令により、近いうちに実施予定のポートモレスビー作戦の研究を行なおうとしていた[96]。アメリカ軍の上陸が判明すると「秋津洲」は不時着機の救助を命じられ、ガダルカナル方面に進出した[97][79]。このフロリダ諸島の戦いで、同諸島配備の横浜海軍航空隊は玉砕した(宮崎司令官以下全滅、3名捕虜生存)[98][99][94]8月8日夕刻、外南洋部隊指揮官三川軍一中将が指揮する重巡洋艦「鳥海」、「青葉」、「加古」、「衣笠」、「古鷹」ほかと遭遇し、情報を交換した[44]。その際、迷彩を施した「秋津洲」は敵艦と誤認されかけた[100]。これが前述の「厚化粧」発言につながった[29]従軍記者として旗艦「鳥海」艦橋にいた丹羽文雄記者は、「秋津洲」との遭遇について以下のように描写している[101]

出しぬけに見なれない軍艦が一隻あらわれ、ぐんぐん近着いてきた。(中略)そんなところに味方の艦が一隻、のんきにうかんでいるのが不思議だった。ここまで来るのに艦隊は度々戦闘用意をやっているのだ。見なれない軍艦はじっと声もたてずに艦隊を見送っているらしいが、無言のうちにも何かつき破るはげしい力をひそめているようであった。その太っ腹には私の理解の手がとどかなかった。艦長は大胆不敵で鳴る大佐だと聞かされたが、今は互いに発火信号を交してとおりすごせばよいであろう。 — 丹羽文雄、丹羽文雄『海戦』【伏字復刻版】73ページ

8月10日、「秋津洲」はラバウルに帰投した[102][79]

8月15日、「秋津洲」と「秋風」はラバウルを出撃し、飛行艇補給・整備のためショートランド泊地に進出する[103][104]。 同泊地でもB-17重爆の空襲を受けるが、特に被害はなかった[105]第二次ソロモン海戦直前の8月22日には、駆逐艦「陽炎」に燃料補給を行った事も記録されている[106]。 その後も各地で飛行艇の母艦任務、索敵哨戒等に従事した[107][29]。また、艦形を活かして基地設営、物資輸送、魚雷艇の輸送、工作艦任務などにも活躍した[18][108][109]。 9月22日、「秋津洲」と「秋風」は一旦ショートランド泊地からラバウルへ戻った[110][111]。 9月25日附で第十一航空艦隊附属[112][79]。以後もショートランド泊地を拠点にソロモン諸島で行動した[113][114][115]

12月3日、秋津洲艦長は黛治夫大佐から高尾儀六大佐[116]に交代。砲術科の黛にとって後方支援艦の「秋津洲」艦長は本意でなかったが、艦長任期中に戦死者を出さなかったことについては「艦長として感謝のきわみである」と回想している[45]

12月4日、新艦長を迎えた「秋津洲」はラバウルを出発した[79]。12月12日に横須賀に到着[117][118]。修理と整備を実施する。 12月24日、日本海軍は第十一航空艦隊と第八艦隊をもって南東方面艦隊を編成[119][120]。「秋津洲」も南東方面艦隊附属となった[121][122]

昭和18年以降の行動

1943年(昭和18年)1月15日、「秋津洲」は横須賀を出発して再びソロモン諸島へ向かう[123][124]。1月22日、カビエン到着[79]。 1月23日[125]、「秋津洲」と駆逐艦「羽風」がカビエン近海で行動中、「羽風」がアメリカ潜水艦の雷撃を受け沈没[126]。 「秋津洲」は「羽風」の生存者約140名を救助した[126]。1月24日にラバウル着[79]。28日以降、ショートランド泊地に停泊する[79]。飛行艇母艦として行動した[27]

2月下旬から、「秋津洲」は二五二空のソロモン方面からマーシャルへの移動に伴う輸送に従事[127]。2月21日に駆逐艦「秋風」に護衛されてブインを出発し、ナウルへの揚陸後、ヤルートで「秋風」と別れ、それからルオット、ウェークへ揚陸を行った[128]。ウェークには3月2日に着いている[128]。続いて、内地帰還となる二〇一空のウェーク派遣隊をルオットへ運んだ[128]

3月24日、マキンからカントン攻撃に出撃しようとした飛行艇が離水時に転覆沈没し、同地にあった「秋津洲」はその乗組員のうち7名を救助した[129]

6月12日、「秋津洲」はラバウルを出発[79]。翌日、北東方面強化のため「秋津洲」を約2か月間第二基地航空部隊[131]に編入するとの命令が出る[132]。 6月15日に第二基地航空部隊に編入され、第八〇一海軍航空隊柏原派遣隊の母艦を務めることになった「秋津洲」は、ヤルート、横須賀、函館を経て7月6日に柏原に到着[133]。 北方方面の哨戒や、第五艦隊および第一水雷戦隊によるキスカ島撤退作戦に協力した[79][134]。 8月26日、「秋津洲」艦長は藤牧美穂大佐(7月17日まで給油艦「尻矢」特務艦長)[135]に交代する[136](高尾は11月23日より空母「海鷹」艦長)[137]。 8月28日、「秋津洲」と第八〇一海軍航空隊は第21空襲部隊より除かれる[138]。八〇一空の物件を搭載して8月29日に幌筵島を出発し、9月2日に横須賀へ到着した[79][27]

9月3日附で、「秋津洲」は連合艦隊附属に編入[139]。 9月中旬、「秋津洲」は陸軍兵力の上海からトラック泊地への輸送「丁二号輸送作戦」に参加した[140]。 9月16日、駆逐艦「山雲」と特設巡洋艦「護国丸[141]、特設巡洋艦「清澄丸」(駆逐艦「巻波」と合流予定)はそれぞれ呉を出発[142]。 同日午後、旗艦「平安丸」(第一潜水戦隊司令官古宇田武郎少将)と「秋津洲」は駆逐艦「」に護衛されて横須賀を出発[143]。20日迄に上海市に到着[144]。丁二号輸送部隊各艦は集結を終えた[145][146]。 9月24日[79]、輸送部隊(平安丸、護国丸、清澄丸、秋津洲、巻波、山雲、響)は上海を出撃[147]。29日、響は燃料補給のためサイパン島へ向かう[148]。 10月2日、丁二号輸送部隊はトラック泊地に到着[149][150]。ラバウルに物資と人員を輸送し、10月9日にトラック帰投[151]。 ここに丁二号輸送部隊は編成を解かれ、「護国丸」、「清澄丸」、「山雲」は丁四号輸送部隊に編入[152]。第二輸送部隊(那珂五十鈴、清澄丸、護国丸、山雲)としてトラックを出発した[153]。「秋津洲」は10月14日にトラック泊地を出発し、21日に横須賀へ戻った[79]

12月3日、秋津洲は海防艦「天草[154]に護衛されて横須賀を出撃[155][156]。12月9日[156]に2隻はトラック泊地に着き[157][158]、しばらくトラック泊地で待機した[79]

1944年(昭和19年)2月上旬、「秋津洲」はポナペ島への輸送作戦に従事した[156]。「秋津洲」(独立混成第五連隊、約1000名)は海防艦「隠岐」に護衛され、2月8日にポナペ島に到着[156]。2月11日、2隻はトラック泊地に到着した[156]。2月中旬、「秋津洲」はトラック島空襲に遭遇した[79][27]2月17日のトラック泊地空襲時、「秋津洲」は特設運送船「愛国丸」よりメレヨン島行きの海軍第68警備隊を受け入れており、「日豊丸」と共にメレヨン島へ向かう予定だった[159]。この空襲で「愛国丸」が沈没し、第68警備隊司令も後日死亡した[159]。 同泊地脱出後の「秋津洲」はメレヨン島に立ち寄り(19-22日)[79]パラオから出迎えに来た駆逐艦「早波」と2月24日朝に合同[160][161]。 2月25日昼前、「秋津洲」、「早波」はパラオに到着した[162][79]。3月4日にパラオを出発し、サイパンを経由(7-9日)して、駆逐艦「島風」、「」に護衛されつつ[163]、3月14日に横須賀到着[79][27]

同時期、日本海軍は工作艦「明石[30]や多数の特設工作艦を喪失[18][164]。それにともない「秋津洲」も工作艦として投入されることになった[18][165]

沈没

1944年(昭和19年)7月20日附で「秋津洲」は連合艦隊附属となった[79]。 8月1日、第三段作戦新兵力部署の発令により、「秋津洲」は第一遊撃部隊指揮官栗田健男中将・第二艦隊司令長官に編入された[31][32]。8月30日まで呉で戦備作業を実施した[32]

9月8日、ヒ75船団の護衛艦(空母神鷹、駆逐艦夕月卯月、海防艦三宅満珠、干珠)、加入船舶(秋津洲、西貢丸浅間丸、雄鳳丸、良栄丸、日栄丸、万栄丸、あまと丸、東邦丸せりあ丸)は[166]シンガポールを目指して日本本土(門司)を出撃[167][168]。立ち寄った先の伊万里港では、「秋津洲」の内火艇が船舶間の連絡に用いられることになった[169]。 9月12日夕刻に「浅間丸」は台湾基隆市へ向かい[170]、残るヒ75船団は9月13日に高雄市へ到着[171][172]。9月14日、「海防艦18号」、水雷艇「」、「第28号掃海艇」[171]と油槽船「富士山丸」、「黒潮丸」、「大邦丸」を加えて出港した[173]

9月17日、「秋津洲」、「西貢丸」、第30駆逐隊(夕月、卯月)はヒ75船団から分離してフィリピンマニラ港へ向かう[174]。夕刻、駆逐艦「秋風」が合流[175]9月18日午前10時40-50分頃、アメリカ潜水艦「フラッシャー」の雷撃で、「西貢丸」が轟沈[176][177]。第30駆逐隊は対潜掃蕩作戦を行い[178][179]、「秋津洲」は「秋風」と共に退避するも途中で「秋風」を対潜掃蕩へ向かわせた[180]。「秋津洲」ば単艦でマニラに先行した。

だが同地は既にアメリカ軍機動部隊の脅威にさらされていた[181][182]。 そこで日本軍は、アメリカ軍機動部隊艦載機の行動圏外と判断していたコロン島(コロン湾)に艦船を退避させることにした[183]

9月23日昼過ぎ、第三南遣艦隊はマニラからコロン湾に避退した艦船に、マニラへ戻るよう命じる[184]。だがアメリカ軍機動部隊は去っていなかった[33][182]9月24日、「秋津洲」は退避した先のコロン湾で、特務艦(元水上機母艦[185][186]神威」等と共に米空母艦載機の攻撃を受ける[36][183]。「秋津洲」は対空戦闘で撃墜1機を記録するも[187]、午前9時頃に直撃弾を受けて爆発[188]。間もなく沈没した[189]。「秋津洲」の他に、給糧艦「伊良湖[35]、給油艦「興川丸」等も沈没した[33][36]。秋津洲が工作艦として第一遊撃部隊を支援する機会はなかった[32]

11月10日、軍艦「秋津洲」は水上機母艦から削除[190]。また帝国軍艦籍から除籍された[7]。 「秋津洲」最後の艦長となった藤牧は、12月5日より運送艦(特務艦)「神威」特務艦長となった[191]

ビサヤ諸島の戦いでコロン湾が米軍に占領された後、海面に油膜が浮かんでくるのを確認した米軍は潜水艦救難艦「チャンティクリアー」(USS Chanticleer, ASR-7)による調査を行い、終戦直後の1945年(昭和20年)8月28日、水深33m地点に沈んでいる秋津洲を発見した[要出典]

現在ではダイビングの沈船スポットになっており、2015年時点でも海底に沈む秋津洲の船体を観察することができる[192]

簡易艦歴表

  • 1940年10月29日 川崎重工神戸にて起工。
  • 1941年
    • 6月30日 命名、水上機母艦に類別。
    • 7月25日 進水。
  • 1942年4月29日 竣工、横須賀鎮守府籍。
    • 5月15日 横須賀出港、19日サイパン入港、24日ラバウル入港。
    • 8月8日 三川軍一中将が指揮する第八艦隊と遭遇。
    • 8月16日 ショートランド方面に進出。
    • 12月12日 横須賀入港
  • 1943年1月15日 横須賀出港、22日カビエン入港、24日ラバウル入港。
    • 3月12日 マキン入港。八〇二空所属飛行艇の母艦として従事。
    • 6月6日 イミエジ出港、八〇二空の損傷飛行艇を輸送。
    • 6月15日 第21空襲部隊に編入[193]
    • 7月6日 ケ号作戦支援のため幌筵島柏原湾に入港、8月29日まで同島で待機[194]
  • 1944年2月17日 トラック島空襲、損傷を受ける。
    • 3月14日 横須賀入港
    • 4月2日 入渠、13日出渠
    • 8月2日-30日 呉で工作艦設備を付与[194][195]。31日佐世保へ回航。
    • 9月5日 佐世保出港、13日高雄入港、18日マニラ入港、22日コロン湾入港。
    • 9月24日 コロン湾にて艦上機の攻撃により戦没。
    • 11月10日 除籍

歴代艦長

※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』191頁「日本海軍史』第9巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長

  1. 岩淵三次 大佐:1941年11月1日[49] - 3月25日[52]
  2. 黛治夫 大佐:1942年3月25日[52] - 4月29日[63]

艦長

  1. 黛治夫 大佐:1942年4月29日[63] - 12月3日[116]
  2. 高尾儀六 大佐:1942年12月3日[116] - 8月26日[136]
  3. 藤牧美徳 大佐:1943年8月26日[136] - 1944年10月6日[191]

同型艦

参考文献

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    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030317900。 
    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030318000。 
    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(6)』。Ref.C08030318100。 
    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(7)』。Ref.C08030318200。 
    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(8)』。Ref.C08030318300。 

脚注

  1. ^ 週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル(No.68)
  2. ^ a b c #達昭和16年6月pp.55-56「達第二百十九號 昭和十五年度及昭和十六年度ニ於テ建造ニ着手ノ水上機母艦一隻、驅潜艇二隻、敷設艇一隻及魚雷艇三隻ニ左ノ通命名ス|昭和十六年六月三十日 海軍大臣及川古志郎|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 水上機母艦 秋津洲(アキツシマ)|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 第二十三號驅潜艇|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 第二十六號驅潜艇|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 敷設艇 石埼(イシザキ)|株式會社横濱ヨット工作所ニ於テ建造 第一號魚雷艇 第二號魚雷艇 第三號魚雷艇」
  3. ^ a b c d #内令昭和16年6月(3)p.32〔内令第七百三十四號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十六年六月三十日 海軍大臣 及川古志郎|軍艦、水上機母艦ノ項中「日進」ノ下ニ「、秋津洲」ヲ加フ|驅潜艇、第十三號型ノ項中「第二十二號」ノ下ニ「、第二十三號、第二十六號」ヲ加フ〕
  4. ^ 戦史叢書31巻、565頁
  5. ^ #昭和17年4月〜6月 内令 2巻/昭和17年4月(6)画像22「内令第七百五十三號 軍艦 秋津洲 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十七年四月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎」
  6. ^ 戦史叢書31巻、577頁
  7. ^ a b #内令(秘)昭和19年11月(2)pp.21-22「内令第一二五四號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 秋津洲 軍艦 迅鯨|呉鎮守府在籍 軍艦 雲鷹|佐世保鎮守府在籍 軍艦 八重山|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 蒼鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 皐月 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(略)|昭和十九年十一月十日 海軍大臣|」
  8. ^ a b c d #海軍造船技術概要p.1684
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #海軍造船技術概要pp.767-768
  10. ^ a b c d e #軍艦基本計画資料Sheet22
  11. ^ #内令昭和17年4月(6)画像22「内令第七百五十四號 海軍定員令中左ノ通改正セラル 昭和十七年四月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎 水上機母艦定員表其ノ五ヲ別表ノ如ク定ム(別表一葉添)』。同画像24、士官19人、特務士官4人、准士官8人、下士官97人、兵210人
  12. ^ a b c d e f #写真日本の軍艦第4巻p.168
  13. ^ a b #福井空母物語370頁
  14. ^ a b c 「表C あ号作戦後の対空兵装等強化(昭和19年7月現在)」#福井空母物語p.418、「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」同書p.430
  15. ^ #公式図面p.82「水上機母艦秋津洲平面図」
  16. ^ #昭和造船史1pp.794-795
  17. ^ #矢萩登2009p.104
  18. ^ a b c d e f g h #福井空母物語371頁
  19. ^ a b #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.2「軍艦|水上機母艦|能登呂、神威、千歳、千代田、瑞穂、日進、秋津洲」
  20. ^ a b #海軍軍備(4)p.37「(イ)計畫の内容 飛行艇母艦|單艦屯數(基準排水量)四,六五〇|(隻数)三|(合計屯數)一三,九五〇|(艦型)秋津洲型|(速力/航續距離)三七.五/一四〜七,五〇〇|(主要兵装)十二.七糎二聯装砲 二/二十五粍三聯機銃 二/飛行機 一」
  21. ^ #海軍軍備(2)p.25「飛行艇母艦|四,六五〇|一|四,六五〇|一九.〇|一四―八,〇〇〇|十二.七糎高角砲四(大型飛行艇一機搭載施設)」
  22. ^ a b c d e f #福井空母物語345-346頁「飛行艇母艦たる水上機母艦」
  23. ^ #聯合艦隊軍艦銘銘伝(普)pp.29-31
  24. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.59「大正十四年四月三十日(達八八)艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「秋津洲、」ヲ、同驅逐艦ノ欄内「曙、朧」ヲ削除ス」
  25. ^ 幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ41「秋津洲(あきつしま) 艦種 巡洋艦二檣(戦闘檣あり)
    艦名考 秋津洲は日本國の別稱なり。
    艦歴 明治27・8年戦役従軍」
  26. ^ #写真日本の軍艦第4巻128頁「艦名の由来―秋津洲(あきつしま)」
  27. ^ a b c d e f g h i j k l 補助艦艇奮戦記、167-168頁「秋津洲(あきつしま)」
  28. ^ a b c d e f g h #福井空母物語369頁
  29. ^ a b c d #生出、黛(文庫)78-780頁「蜃気楼の大戦果」
  30. ^ a b 補助艦艇奮戦記、268-269頁「明石(あかし)」
  31. ^ a b 戦史叢書37巻、124-129頁「第三段作戦新兵力部署」
  32. ^ a b c d e 戦史叢書37巻、390-391頁「第一遊撃部隊の編制」
  33. ^ a b c d e 戦史叢書37巻、498-502頁「マニラ地区初の被空襲―船舶被害甚大」
  34. ^ 戦史叢書48巻、215頁「艦船の被害と海軍航空部隊の攻撃」
  35. ^ a b c 補助艦艇奮戦記、279頁「伊良湖(いらこ/給糧艦)」
  36. ^ a b c 戦史叢書48巻、216-217頁「九月二十四日の空襲」
  37. ^ a b c #福井空母物語368頁
  38. ^ a b c d e #写真日本の軍艦第4巻167-168頁「◇秋津洲◇」
  39. ^ #海軍軍備(4)p.44「改⑤計畫艦艇建造の結果」
  40. ^ #海軍軍備(3)p.15「(マル急)計画艦艇工事経過 水上機母艦|秋津洲型|千早」
  41. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』58頁
  42. ^ a b c #生出、黛(文庫)58-60頁
  43. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』43-45頁
  44. ^ a b c #生出、黛(文庫)63-65頁
  45. ^ a b #重巡十八隻300頁
  46. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』47頁
  47. ^ #海軍軍備(2)p.28「④計画艦艇工事経過 水上機母艦(秋津洲)」
  48. ^ #昭和天皇実録八巻440-441頁「(昭和十六年七月)二十六日 土曜日 午前、御学問所において朝融王と御対面になり、昨二十五日川崎重工業株式會社において挙行の軍艦秋津洲命名式への御差遣につき復命を受けられる。(以下略)」
  49. ^ a b 昭和16年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第739号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083000 
  50. ^ 昭和16年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第728号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082800 
  51. ^ 昭和16年11月18日(土)海軍公報(部内限)第3940号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C12070398300 「○事務開始 秋津洲艤装員事務所ヲ十一月五日神戸市湊區東川崎町二丁目川崎重工業株式會社内ニ設置シ事務ヲ開始セリ」
  52. ^ a b c 昭和17年3月25日(発令3月25日付)海軍辞令公報(部内限)第834号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084700 
  53. ^ a b 昭和17年4月20日(発令4月20日付)海軍辞令公報(部内限)第845号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085200 
  54. ^ a b #生出、黛(文庫)35-36頁「初の飛行艇母艦艦長」
  55. ^ #生出、黛(文庫)38頁
  56. ^ #S1701呉鎮日誌(7)p.45「十八日一九〇〇大鯨艦長(宛略)大鯨機密第六番電 十八日一三三五敵飛行機一機來襲右舷一〇六番ビーム水線部外舷ニ爆弾命中(破孔縦八米横十五米)小火災輕傷者三名微傷者四名ヲ生ズ」
  57. ^ #高松宮日記4巻236頁「○大阪「秋津洲」〔行間書込〕一五二五、公試中和田岬沖ニテB-25ヲ見テ砲撃、東ヘ撃攘スト。《輸送キカ》(神経戦ノ目的通リ)。」
  58. ^ ドーリットル空襲秘録、186ページ
  59. ^ #生出、黛(文庫)39-40頁(19日射撃と記載)
  60. ^ a b #生出、黛(文庫)41頁
  61. ^ #S1704横鎮日誌(5)p.7「二九日一〇三〇秋津洲艦長(宛略)秋津洲機密第二番電 軍艦秋津洲四月二十九日一〇三〇受領」
  62. ^ 昭和17年5月4日(月)海軍公報(部内限)第4081号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C12070411900 「○事務所撤去 秋津洲艤装員事務所ヲ四月二十九日撤去セリ」
  63. ^ a b c 昭和17年4月30日(発令4月29日付)海軍辞令公報(部内限)第845号 p.53」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085200 
  64. ^ #内令昭和17年4月(6)p.22「内令第七百五十三號 軍艦 秋津洲 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十七年四月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎」
  65. ^ #S1704横鎮日誌(7)p.3「二九(天候略)三.軍艦秋津洲本籍ヲ横鎮ト定メラル」
  66. ^ #S1704横鎮日誌(7)pp.4-5「三〇(天候略)五.出港 巻雲、風雲/入港 秋津洲」
  67. ^ #S1705横鎮日誌(6)p.20「五(天候略)一.沖風 出港 長官 秋津洲御寫眞傳達式 同視察(以下略)」
  68. ^ a b c 戦史叢書43巻、176-178頁「護衛隊のサイパン進出」
  69. ^ a b 戦史叢書43巻、181-184頁「占領隊とそのサイパン進出」
  70. ^ #S1705横鎮日誌(3)p.31「十四日横鎮長官(宛略)一.秋津洲、ぶら志る丸、第一、第二號哨戒艇明十五日一二三〇第二海塁假泊地發東水道通過サイパン方面ニ向フ速力十六節(以下略)」
  71. ^ #第5空襲部隊第2段1期作戦(1)pp.16-17「一五日一〇〇〇秋津洲艦長|(宛略)|秋津洲機密第二番電 一五日一〇〇〇サイパン経由「ラボウル」ニ向ケ横須賀發」
  72. ^ #生出、黛(文庫)43頁
  73. ^ #S1705横鎮日誌(4)p.16「十九日一三五〇ブラジル丸監督官(宛略)十九日一二三〇ブラジル丸第一號哨戒艇、第二號哨戒艇サイパン着」
  74. ^ a b #生出、黛(文庫)44頁
  75. ^ #S1703二水戦日誌(5)pp.29-30「5Bg司令官|十九日一三四五 GF参謀長 各F.参謀長(2sd司令官其ノ他)|一、十九日〇七一五秋津島ハ「サイパン」港外十浬ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ク(被害ナシ)同艦ハ港外ニ他ニ潜望鏡二ヲ認メタリ/二、當隊護衛隊ノ現状5Bg機密?番電ノ通ニシテ砲艦一、駆潜艇一、特設監視艇二隻ノミ水偵現在使用可能ノモノ二機/三、「サイパン」ハ潜水艦ノ攻撃ニ對シ危險多シ/四、以上各種情況ヨリ判断シ攻略部隊ノ集合点ハ此ノ際爲シ得レバ他ニ変更セラルルヲ可ト認ム」
  76. ^ #生出、黛(文庫)50頁
  77. ^ #S1703十一航艦(1)p.42「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」
  78. ^ #S1703二水戦日誌(5)p.31「二聯徳司令官(宛略)二聯特電令第一號 一、「サイパン」港外ニハ敵潜二隻出没秋津島ハ十九日午前入港時雷撃ヲ受ク(被害ナシ)/二、「ブラジル」丸、第一〇号第二号哨戒艇ハ十九日一八〇〇出港大宮島ニ回航ス/三、清澄丸艦長、清澄丸あるぜんちな丸哨三四、哨三五ヲ率ヰ大宮島ニ河口スベシ/四、第二、第三號?ハ二十四日午前「サイパン」ニ回航ノ豫定」
  79. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #写真日本の軍艦第4巻152頁(水上機母艦行動年表)◆秋津洲◆
  80. ^ a b #生出、黛(文庫)51-52頁
  81. ^ #S1705二五航戦日誌(3)pp.34-35「25Sf機密第四七九番電 5AB戰闘概報第四五號(五月二十四日)(略)七.一四〇〇秋津洲RR入港」
  82. ^ a b #第5空襲部隊第2段2期作戦(1)pp.5-6「(イ)軍隊区分 基地航空部隊ハ機密基地航空部隊命令作第二號(省畧)ニ依リ作戰ス 第五空襲部隊ハ從來ノ軍隊区分ニ依リ作戰ヲ續行ノコトトシ五月二十四日二十四航戰派遣戰闘機隊當方面ニ増援セラレ之ヲ第一部隊ニ編入 同日秋津洲「ラバウル」ニ進出セルヲ以テ特務隊ヲ左ノ如ク變更セリ/第一特務隊 秋津洲 指揮官秋津洲艦長/第二特務隊 最上川丸 指揮官最上川丸艦長」
  83. ^ #S1706二五航戦日誌(1)pp.3-5「(ハ)兵力部署」
  84. ^ #第5空襲部隊第2段2期作戦(1)pp.14-15「(八)第一特務隊ハ「ラバウル」ニ在リテ頻繁ナル敵襲ニ際シ有力ナル防空砲台ノ任務ヲ努メ其ノ都度砲撃セル外有力ナル工作能力ヲ以テ各航空隊ノ修補整備ニ協力セリ」
  85. ^ a b c #第5空襲部隊第2段2期作戦(3)pp.55-56「六功績(略)浜空ハ連日哨戒ヲ實施セル外基地調査ニ協力夜間敵基地ヲ攻撃スル等幾多作戰ニ寄與スル処大ニシテ功績極メテ大ナリ 秋津洲ハ極メテ大ナル工作力ヲ發揮シ各航空隊ノ整備作業ニ協力航空作戰ニ寄與スルトコロ大ナリシ外頻繁ナル敵襲ニ際シテハ其ノ都度之ヲ砲撃シ功績大ナルモノアリ 最上川丸ハ作戰資材ヲ内地ヨリ輸送シ作戰ニ寄與スル処極メテ大ナリ」
  86. ^ #第5空襲部隊第2段2期作戦(1)p.9「(六)作戰ノ繁簡ニ應ジ且ツ敵ノ「ラバウル」湾内爆撃情況ニ應ジ避退ヲ兼ネ秋津洲ヲ「ラバウル」湾口ニ出動セシメ當部隊各隊聯合ノ雷撃訓練ヲ實施ス」
  87. ^ #S1706二五航戦日誌(1)p.3「(ロ)下旬ヨリSN作戰(「ソロモン」諸島「ニューギニア」東部方面ニ於ケル航空基地獲得設營ノ爲ノ作戰)ニ從事セリ」
  88. ^ a b #S1707二五航戦日誌(1)p.4「(ハ)前月末ヨリ引續キSN作戰ニ協力輸送船團ノ上空警戒及「カビエン」「ガダルカナル」陸上航空基地ノ設營指導並ニ「ソロモン」諸島「ルイジアード叢島方面陸上基地調査ヲ實施セリ」
  89. ^ #第5空襲部隊第2段2期作戦(1)pp.12-13「(四)偵察 五月二十五日ヨリ「ガダルカナル」島基地調査ノ爲調査員竝ニ大艇一機「ツラギ」ニ進出二十七日迄ニ一次調査ヲ了ス 該方面作戰上竝ニ地形的條件設營ニ適シ至急着手ノ要アリ/六月四日「ブナ」附近飛行場適地写眞偵察ヲ實施地形上設營困難ナリト認ム/六月十一日「カビエン」寫眞偵察敵概設飛行場ヲ拡張設營ノ見込大ナリ同日「ガダルカナル」島基地適地附近ノ第二次寫眞偵察ヲ了ス(以下略)」
  90. ^ #第5空襲部隊第2段2期作戦(3)p.26「一七日〇九一〇GF三部長(宛略)GF機密第三八一番電 「ガダルカナル」航空基地ハ時期作戰ノ関係上八月上旬迄ニ完成ノ要アル所見込承知シ度尚「キエタ」方面ニ陸上航空基地急速造成ノ能否知ラサレ度」
  91. ^ #S1707二五航戦日誌(1)pp.3-4「(イ)兵力部署 備考 二.秋風ハ當方面行動中5AB指揮官ノ作戰指揮ヲ受ク」
  92. ^ #S1708二五航戦日誌(1)p.7「備考/二.秋風ハ艦船護衛 基地警戒 基地移動協力ニ任ズ」
  93. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(2)pp.3-4
  94. ^ a b #海軍反省会7回323-324頁「声もあげずに全滅したツラギ守備隊」
  95. ^ #海軍反省会7回327頁
  96. ^ #海軍反省会7回334-335頁「気象・地象の研究不足」
  97. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報ソロモン海戦間(5)pp.7-11、p.39
  98. ^ #S1708二五航戦日誌(1)p.9「(二)八月七日早朝有力ナル敵攻畧部隊(甲巡三隻、駆逐艦十籔隻、輸送船約三十隻、空母二乃至三ヲ伴フ支援隊トシテ戰艦二巡五乃至六駆六アリ)「ツラギ」及「ガダルカナル」方面ニ来襲當時「ツラギ」水上基地(「ガブツ」島)ニ在リシ横濱航空隊及該方面我守備隊ハ勇戰敢闘セルモ遂ニ〇六二〇頃以後其ノ消息絶エタリ」
  99. ^ #S1708二五航戦日誌(3)pp.47-50「消息不明者名簿(「ソロモン」海戰於「ツラギ」基地)」
  100. ^ 生出寿『ライオン艦長黛治夫』47-48頁
  101. ^ #海戦(伏字復元)73頁
  102. ^ #S1708二五航戦日誌(3)p.3「一〇(天候略)秋津洲「ラバウル」入港(以下略)」
  103. ^ #S1708二五航戦日誌(3)p.9「一五(天候略)一.一二〇〇秋津洲、秋風「ショートランド」ニ向ケ「ラバウル」出撃(以下略)」
  104. ^ #S1708二五航戦日誌(3)p.10「一六(天候略)一四〇〇秋津洲秋風「ショートランド」着/二.二式大艇四(浜空)「ラバウル」ヨリ「ショートランド」ニ進出(以下略)」
  105. ^ #S1708二五航戦日誌(3)pp.14-15「一九(天候略)一.一三四五B-17五機在「ショートランド」秋津洲ヲ爆撃我方被害ナシ六(天候略)一四〇〇秋津洲秋風「ショートランド」着/二.二式大艇四(浜空)「ラバウル」ヨリ「ショートランド」ニ進出(以下略)」
  106. ^ #S1708二水戦日誌(3)p.19
  107. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(3)p.27
  108. ^ #第5空襲部隊戦闘詳報第2次ソロモン(4)p.9、pp.14-15
  109. ^ #S1709二五航戦日誌(3)pp.25-26「二十八(天候略)一.〇〇〇秋津洲秋風「ブカ」ニ向ケ發(一二三〇着)(輸送任務及「ブカ」基地警戒)(以下略)」
  110. ^ #S1709二五航戦日誌(3)p.18「二十一(天候略)二〇〇〇秋津洲秋風「ショートランド」發(以下略)」
  111. ^ #S1709二五航戦日誌(3)p.20「二十二(天候略)一九〇〇秋津洲秋風「ラバウル」着(以下略)」
  112. ^ #S1709二五航戦日誌(1)p.6「第一特務隊|第二十五航空戰隊司令官|秋津洲艦長|秋津洲|一.基地 警戒/二.基地母艦担任/三.輸送|九月二十五日秋津洲ハ11AF附属トナリ5ABニ編入」
  113. ^ #S1703十一航艦(2)pp.3-4「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)〔九月分〕」
  114. ^ #S1703十一航艦(2)pp.15-16「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)〔十月分〕」
  115. ^ #S1703十一航艦(2)pp.33-34「四.参考(一)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)〔十一月分〕」
  116. ^ a b c 昭和17年12月3日(発令12月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1004号 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088500 
  117. ^ #南東方面艦隊(1)pp.12-13「四.麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」
  118. ^ #S1712横須賀防備(1)p.25「水路嚮導 |一二|一二|こうせい丸|秋津洲|浮島西方ヨリ第二海堡迄嚮導ス」
  119. ^ #南東方面艦隊(1)p.6「二.十二月二十四日附(一)第八艦隊及第十一航空艦隊ヲ以テ南東方面艦隊ヲ編成聯合艦隊ニ編入」
  120. ^ #南東方面艦隊(1)pp.10-11「二.人員ノ現状(一)司令部(イ)職員官氏名」
  121. ^ #南東方面艦隊(1)pp.4-5「(イ)艦隊編制 十二月一日現在」
  122. ^ #南東方面艦隊(1)pp.8-9「(ハ)軍隊區分 十二月一日現在」
  123. ^ #南東方面艦隊(2)p.24「四.麾下艦船部隊ノ行動(其ノ一)」
  124. ^ #S1712横須賀防備(3)p.42「十五日(天候略)二.海上保護(三)掃十七ハ一二〇〇横須賀発ノ秋津洲ヲ護衛大島ノ東ヲ経テ列島線ノ東側ヲ南下ス(三十三度線迄)」
  125. ^ #S1709八艦隊日誌(4)p.37「一月二十二日羽風「ステフェン」海峡ニ於テ雷撃ヲ受ケ沈没』-p.44「羽風|1-23|雷沈没」
  126. ^ a b #高松宮日記5巻496頁「○「羽風」(二四-〇八〇〇)一、「秋津洲」艦長ノ指揮ヲ受ケ先行、対潜掃蕩中、二十三日一六〇二、2°-47.5′S150°-39′ニテ敵潜水艦ノ雷爆二ヲ受ケ(一ハ機械室ニ命中)、船体両断沈没。艦長以下一四三(内一戦死)「秋津洲」ニ収容」
  127. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』290-291ページ
  128. ^ a b c 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』291ページ
  129. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』300ページ
  130. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』334ページ
  131. ^ 第十二航空艦隊からなる部隊[130]
  132. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』343ページ
  133. ^ 『北東方面海軍作戦』662ページ、『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』343ページ
  134. ^ #S1807二四航戦日誌(1)pp.5-6「(三)配備(略)秋津洲 柏原泊地(略)(二)作戰指導○司令部 七五二空本隊、二八一空本隊ヲ第一幌筵陸上基地ニ八〇一空派遣隊ヲ柏原水上基地ニ秋津洲ヲ柏原泊地ニ七五二空派遣隊ヲ千歳基地ニ夫々配備シ敵ノ海上航空兵力ノ撃滅北方方面哨戒千島北海道方面對潜對空警戒ニ從事セシムルト友ニ北方部隊ノ「ケ」號作戰ニ密ニ協力セシム」
  135. ^ 昭和18年7月19日(発令7月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1172号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092200 
  136. ^ a b c 昭和18年8月31日(発令8月26日付)海軍辞令公報(部内限)第1199号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600 
  137. ^ 昭和18年11月24日(発令11月23日付)海軍辞令公報(部内限)第1172号 p.38」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094500 
  138. ^ #S1808二四航戦日誌(1)p.8「(三)配備(略)秋津洲(二十八日附1ABヨリ除カル)柏原湾』-p.11「○二十八日附八〇一空派遣隊秋津洲、21ABヨリ除カル」
  139. ^ #S1808二四航戦日誌(2)pp.26-27「GF機密第二九一九三一番電 GF電令作第六八三號 GF軍隊區分ノ一部ヲ左ノ通変更ス(略)二.九月三日附秋津洲ヲGF附属ニ編入ス/三.九月五日附10dg(秋雲夕雲)ヲ南東方面部隊ニ編入ス」
  140. ^ #S1808護国丸(2)p.19「1SS参謀|九月十日一〇三五護國丸清澄丸秋津洲山雲響巻波(GF長官 大海一部長)|1SS機密第〇九一五一五番電發第一潜戰参謀 丁二號輸送ブタノ輸送計畫概要左ノ通ニ付予メ準備アリ度 一.各艦搭載人員数及積荷量(立方米)平安丸一二〇〇 一五〇〇/清澄丸一一〇〇 三五〇〇/護國丸一五〇〇 二二〇〇/秋津洲五〇〇 二〇〇/驅逐艦一〇〇 二〇 二.平安丸秋津洲及響ハ九月十六日横須賀發護國丸及山雲ハ同日呉發清澄丸ハ九月十七日呉發巻波ハ下関海峡西口ニテ清澄丸ニ合同夫々上海ニ回航セシメラルヽ予定 三.上海發後ノ輸送日程約十日」
  141. ^ #S1808護国丸(2)p.4「一六(天候略)〇五三〇呉発護衛艦山雲ト共ニ丁一號輸送任務ノ爲上海ニ回航」
  142. ^ #S1808護国丸(2)p.32「清澄丸艦長(宛略)清澄丸機密第一七〇七〇二番電發清澄丸艦長 上海ニ向ケ呉發」
  143. ^ #S1808護国丸(2)pp.31-32「1SS司令官(宛略)1SS機密第一六一五三〇番電發一潜戰司令官 平安丸秋津洲響上海ニ向ケ横須賀發」
  144. ^ #S1808護国丸(2)p.5「二〇(天候略)一.平安丸響入港」
  145. ^ #S1808護国丸(2)p.34「九月十八日一五四五護國丸艦長緒(宛略)護國丸山雲上海着」
  146. ^ #S1808護国丸(2)p.5「一九(天候略)一.巻波清澄丸入港」
  147. ^ #S1808護国丸(2)p.5「二四(天候略)一.一〇二九トラツクニ向ケ上海発/二.一五三五大戰山沖合假泊/三.二一五五旗艦平安丸假泊地着(略)二.二一五五丁二號輸送部隊大戰山沖假泊地ニ集結完了 艦船番號一.平安丸 二.本艦 三.清澄丸 四.秋津洲 五.巻波 六.山雲 七.響」
  148. ^ #S1808護国丸(2)p.6「十九(天候略)一.〇六〇〇 一三度二〇分北一四一度東響分列サイパンニ向フ」
  149. ^ #S1808護国丸(3)p.3「二|トラック|(天候略)|〇八一二入港用意/一六〇〇出港用意」
  150. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.7「巻波 丁二號輸送部隊トシテ二日「トラツク」着即日發五日「ラバウル」着任務終了六日同發九日「トラツク」着十二、十三日大波ト共ニ敵潜掃蕩攻撃十七日以降「ブラウン」大鳥島方面行動大波ニ同ジ爾後「トラツク」ニテ待機」
  151. ^ #S1808護国丸(3)p.6「九(天候略)〇七二〇「トラック」泊地入港」
  152. ^ #S1808護国丸(3)pp.17-18「GF長官(宛略)GF機密第〇五一七二〇番電 GF電令作第七三八番號 一.左ニ依リ丁四號輸送部隊ヲ編成GF附属ニ編入 (イ)指揮官第十四戰隊司令官/(ロ)兵力 第十四戰隊木曾多摩栗田丸日枝丸4dg(野分舞風)(以上十月五日)護國丸山雲(以上丁二號輸送部隊PT帰着時)/二.丁四號輸送部隊指揮官ハ十月中旬上海發南東方面転進ノ十七師團第二次輸送ニ任ズベシ」
  153. ^ #S1804十四戦隊日誌(3)p.26「一一(天候略)第二次輸送隊(第十四戰隊清澄丸護国丸山雲)〇五〇〇上海ニ向ケPT発/第一輸送隊(多摩木曾)一〇四五呉淞着」
  154. ^ #S1704第2海上護衛隊(5)p.46「五.参考(イ)十二月分麾下艦船部隊ノ行動 二海護司令部」
  155. ^ #S1704第2海上護衛隊(5)pp.51-52「三(天候略)二.天草、秋津洲ヲ護衛一四〇〇トラックニ向ケ横須賀發」
  156. ^ a b c d e 木俣、海防艦戦史46-47頁「飛行艇母艦を護衛して」
  157. ^ #S1704第2海上護衛隊(5)p.47「(護衛艦 運航指揮官)天草|(被護衛船)秋津洲|護衛区域(自-至)横須賀 トラック|期間(自-至)三-九|(隻数)一」
  158. ^ #S1704第2海上護衛隊(5)pp.56-57「九(天候略)二.天草、秋津洲護衛一四三〇トラック着」
  159. ^ a b #飢餓の島(メレヨン守備隊年表)
  160. ^ #S1812二水戦(4)p.7「(3)下旬(略)輸送護衛 24dg(満潮)白露(武藏) 32dg(早波)(秋津洲) 藤波春雨(明石船團) 島風(日章丸國洋丸旭東丸) 31dg(岸波沖波朝霜)(安藝丸崎戸丸東山丸)」
  161. ^ #S1812二水戦(4)pp.8-9「(3)32dg(早波)横須賀ニ於テ修理整備中五日出渠/十五日高雄ト共ニ横須賀発/二十日「パラオ」着/二十三日秋津洲護衛ノ爲「パラオ」発翌二十四日合同/二十五日「パラオ」着仝日敵KdB來襲ノ報ニ依リYB出撃ノ爲水道外掃蕩セルモ命ニ依リ歸投爾後「パラオ」ニ在リテ待機」
  162. ^ #S1812二水戦(4)p.37「二五日一一三七秋津洲(宛略)秋津洲機密第二五一一三七番電 秋津洲、早波(二四日〇六二〇合同)「パラオ」着」
  163. ^ #S1812十一水戦日誌(2)p.31「十二日二三〇八横鎮(長官)|十三日一二五五 11sd(司令官)秋津島(以下略)|機密第一二二三〇番電(略)二.秋津洲 島風 雷 明十三日正午位置北緯三一度四六分東経一三六度二一分地点北航速力一二節」
  164. ^ 日本補助艦艇物語217-218頁「(2)明石」
  165. ^ 日本補助艦艇物語248頁
  166. ^ #S1906第30駆日誌(2)pp.64-65「一九.七.一一半晴一〇三〇|ヒ七五船團(船團十一隻護衛艦神鷹夕月卯月満珠干珠三宅)第八護衛船團司令官指揮ノ下ニ九月八日門司発昭南ニ向ケ航行中(速力十二節之字運動T法實施)神鷹発進ノ直衛機三〇〇〇度方向ニ敵潜発見」
  167. ^ #海防艦三宅戦記96頁
  168. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.10「九月八|航海中|ヒ七五船團護衛門司發伊万里着」
  169. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.19「八日一四一五第八船團司令官(干珠)|船團|信令第二號 一.秋津洲ハ伊萬里入港後内火艇二隻ヲ以テ船團廻リ便ヲ出スベシ/二.打合セ其ノ他用事アル輸送船ハ右内火艇ヲ利用スベシ」
  170. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.6「一二(天候略)一七四〇淺間丸ヲ分離ス」
  171. ^ a b #海防艦三宅戦記101頁
  172. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.10「九月十三|航海中|ヒ七五船團護衛高雄入港」
  173. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.22「十二日一二二〇運航指揮官(雄鳳丸)|船團|第二警戒航行隊形ヲ左ノ通リ定ム/左側列第一第二分團神鷹右側列第三四分團/日榮丸新加入船(黒潮丸富士山丸大邦丸)ヲ第四分團トス」
  174. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.11「九月十七|航海中|ヒ七五船團ト分離西貢丸船団護衛「マニラ」ニ向フ」
  175. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.8「一七(天候略)一〇二二船團ト分離西貢丸船團護衛「マニラ」ニ向フ/一六四五秋風合同ス」
  176. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.11「九月十八|航海中|一〇四八西貢丸敵潜ノ雷撃ヲ受ケ轟沈爾後掃蕩スルモ手懸ナシ」
  177. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.8「一八(天候略)一〇四八西貢丸雷撃ヲ受ケ轟沈ス配置ニ就ク」
  178. ^ #S1906第30駆日誌(1)p.11「九月十九|マニラ|一六〇〇掃蕩ヲ止メ「マニラ」入港「キャビテ」繋留」
  179. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.9「一九(天候略)一四一五掃蕩ヲ止メ「マニラ」ニ向フ/一八一〇「マニラ」着「カナカオ」岸壁ニ横付ス(略)一六三五秋風司令旗ヲ掲グ」
  180. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.18「十八日一二四七秋津洲(司令官)3KF(卯月夕月)|一三四〇秋風本艦護衛ヲ止メ西貢丸遭難現場ニ急行セシム」
  181. ^ #S1906第30駆日誌(2)p.32「二十一日一一二三大海参一部長|〇九三〇菲島東方海面敵機動部隊アリ」
  182. ^ a b 戦史叢書48巻、212-213頁「米機動部隊のマニラ周辺来襲」
  183. ^ a b #比島方面海軍作戦(1)pp.33-34「(ニ)九月二十四日中比地區に對する空襲 一日おいて二十四日米機動部隊はサマール島東方海面及サンベルナルヂノ海峡東口に出現し中部比島を攻撃した。〇七二〇頃よりセブ、タクロバン、レガスピー、ブーランの各飛行場に敵艦上機來襲〇八三〇サンベルナルヂノ海峡見張所は東方に空母一隻戰艦一隻を確認報告した 當時マニラから避退中の艦船が多數在泊していたコロン湾は〇九〇〇前後艦上機約七〇機の來襲を受け工作艦秋津洲外輸送船三隻沈没同二隻大火災といふ被害を蒙り湾内は兌混亂を呈した この攻撃は明かに日本側の意表に出た攻撃であつて當時日本側は同地を艦上機の攻撃圏外と考へていた(以下略)」
  184. ^ #S1904神威日誌(3)p.6「二三日一三五九 3KF長官|二三日一九四七 神威知床八重山伊良湖秋津洲(33Bg司令官、754Sg司令外)|3KF機密第二三一三五九番電 一.「マニラ」方面空襲ニ対スル艦艇船舶ノ待避ヲ解除ス/二.「マニラ」ヨリ避退セル艦艇船舶ハ「マニラ」ニ帰投セヨ 但シ荷役終了且補給ヲ要セザル船舶ヲ除ク/三.「コロン」湾残留船舶ノ警戒艦ヲ駆潜36トス」
  185. ^ #内令昭和19年4月(1)p.32〔内令第五百四十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年四月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、水上機母艦ノ項中「、神威」ヲ削ル|潜水艦、一等伊十七型ノ項中「、伊號第三十」ヲ、第伊百七十六型ノ項中「、伊號第百七十九」ヲ削ル〕
  186. ^ #内令昭和19年4月(1)pp.32-33「内令第五百四十九號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年四月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|運送艦ノ部中隠戸型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |神威| 」
  187. ^ #S1904神威日誌(2)p.29「二四日一三三〇神威特務艦長|GKF参謀長|神威機密第二四一三三〇番電 戰闘概報 一.戰果 秋津洲撃墜一機、神威撃破一機(発煙退避)/二.被害 蒼鷹機密第二四〇九四七番電ノ外秋津洲 興川丸沈没 神威直撃一被弾戰闘航海差支ナシ/三.我西方ニ避退中」
  188. ^ #S1904神威日誌(3)p.4「〇九〇一|「打方始メ」一基撃墜 前部左舷至近弾(略)一基撃墜左百四十度(四番機銃射手口述)|秋津洲直撃弾ヲ受ケ爆発 興川丸直撃弾ヲ受ケ炎上沈没」
  189. ^ #S1904神威日誌(3)p.4「〇九一三|十節即時待機トナス| |秋津洲沈没」
  190. ^ #内令(秘)昭和19年11月(2)pp.21-22〔内令第一二四七號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年十一月十日 海軍大臣|軍艦、航空母艦大鷹型ノ項中「雲鷹、」ヲ、同水上機母艦ノ項中「、秋津洲」ヲ、同潜水母艦ノ項中「迅鯨、」ヲ、敷設艦ノ項中「、八重山」「、蒼鷹」ヲ削ル 驅逐艦、一等卯月型ノ項中「、皐月」ヲ削ル(略)〕
  191. ^ a b 昭和19年10月14日(発令10月6日付)海軍辞令公報(甲)第1619号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101500 
  192. ^ #戸村(201602)pp.26-29
  193. ^ #S1806二四航戦日誌(1)p.5「六月十五日附秋津洲第二十一空襲部隊ニ編入セラル」
  194. ^ a b 丸スペシャル(1979年)、p. 24。
  195. ^ 丸スペシャル(1979年)、p. 38。

関連項目

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