関時男 (1907年生)
関 時男(せき ときお、1907年6月26日 - 1945年2月26日[1])は、日本の俳優、元撮影技師である[2][3][4][5]。關 時男と表記されることもある。本名は關口 辰夫(せきぐち たつお)[2][3][4][5]。戦前・戦時中にかけて、鈴木傳明主演映画や斎藤寅次郎監督の松竹蒲田撮影所名物・蒲田ナンセンスコメディーを中心に多くの作品で活躍した[4][5]。息子は俳優・声優の関時男[6]。 来歴・人物1907年(明治40年)6月26日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[2][3][4][5]。 慶応義塾普通部を卒業後、1923年(大正12年)2月、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社する[2][4][5]。ところが、1927年(昭和2年)5月には諸事情により同所の俳優部に転向[2][3][4][5]。同年7月15日公開の牛原虚彦監督映画『村の人気者』で、当時同所の二枚目俳優だった鈴木傳明と共演したことから、関は当時所内で大きな権威を持っていた「傳明グループ」の一人となり、短身小躯で独特のユーモアと愛嬌を振りまいて、所内の名物男となった[2][3][4][5]。1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』(キネマ旬報社)では、映画『山の人気者』で鈴木傳明の助演をしたという旨が記されている[2]が、同作品は存在しないため誤りである。また、ちょび髭を生かした小柄な身体のコメディアンとして名物の松竹喜劇映画には欠かせない存在であり、1930年(昭和5年)末からは映画監督斎藤寅次郎のいわゆる「寅さん喜劇」にも起用された[2][3]。 1931年(昭和6年)9月、鈴木傳明のほか、岡田時彦、高田稔、渡辺篤、横尾泥海男、吉谷久雄、木村健児らが一斉に松竹蒲田を退社し、新たに不二映画社を創立するに伴い、関も同所に移籍する[2][3][5]。以降、同年12月31日に公開された鈴木重吉監督映画『栄冠涙あり』などに出演したが、1932年(昭和7年)11月に横尾泥海男、渡辺篤らと共に退社[2][3][5]。退社後は浅草公園劇場にて旗揚げした喜劇爆笑隊を経て、翌1933年(昭和8年)には古川緑波率いる軽演劇の劇団笑の王国に加入していた[2][3][5]。その後、同年11月9日に公開された太秦発声映画・J.O.スタヂオ共同製作の水島正雄監督映画『千鳥格子 恋の市丸』に特別出演したのち、日活多摩川撮影所へ移籍したが、もはや松竹蒲田撮影所・不二映画社時代の面影は無く、既に精彩を失っていた[2][3][5]。1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、身長は5尺1寸(約154.5センチメートル)、体重は12貫800匁(約48.0キログラム)[4][5]。 1935年(昭和10年)4月11日に公開された千葉泰樹監督映画『ジャック喧嘩帖』に出演したを最後に日活多摩川を退社する[2][3]。『日本映画俳優全集 男優篇』などでは、以降の動向については全く述べられていない[2][3]が、退社後は自ら喜劇レビューセキオヤ・ショウを組織した後、再び劇団笑の王国に戻ったとされ、1940年(昭和15年)1月時点では既に生駒雷遊、大竹保、田谷力三、横尾泥海男、カワベキミオ、中村是好、松宮照枝らと共に在籍していた事が確認出来る[7]。この間、1941年(昭和16年)2月8日に公開された中野英治監督映画『将軍』に脇役出演したが、同作が確認出来る最後の映画出演作品となった[2][3]。1942年(昭和17年)12月1日、田谷力三、横尾泥海男、松宮照枝らと国民喜劇座(関時男一座)を組織し、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)にあった江川劇場に出演[8]。ところが、同劇場は翌1943年(昭和18年)秋までに強制疎開で取り壊しとなり、以後の関の消息は不明とされていた[2][3]が、『朝日新聞』1945年(昭和20年)3月6日付の広告欄にて、去る2月26日に病気のため死去したと報じられている[1]。満37歳没。 日本映画データベース、キネマ旬報映画データベースにおいて、息子の関時男 (1944年生)との混同がみられる。 出演作品松竹蒲田撮影所全て製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹」、特筆以外は全てサイレント映画である。
不二映画社全て製作は「不二映画社」、配給は「新興キネマ」、全てサイレント映画である。
日活太秦撮影所特筆以外、全て製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、特筆以外は全てサイレント映画である。
日活京都撮影所全て製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」、全てサイレント映画である。
日活多摩川撮影所全て製作は「日活多摩川撮影所」、配給は「日活」、全てサイレント映画である。
フリーランス全てトーキーである。
脚注
外部リンク
|