黄檗宗()は、日本の三禅宗のうち、江戸時代開府はじめの明朝復興の願いに始まった一宗派[注釈 1]。江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 - 1673年)を開祖とする[1][2]。本山は、隠元隆琦の開いた京都府宇治市の黄檗山()萬福寺[1]。
概要
黄檗宗の名は、中唐の僧の黄檗希運(? - 850年)の名に由来する[3][注釈 2]。
教義・修行・儀礼・布教は日本臨済宗と異ならないとされる[1]。黄檗宗の宗風の独自性は、日本臨済宗の各派が鎌倉時代から室町時代中期にかけて宋と元の中国禅を受け入れて日本化したのに比較して隠元の来日が新しいことと、明末清初の国粋化運動の下で意図的に中国禅の正統を自任して臨済正宗を名乗ったことによるとされる[1]。
黄檗僧が伝える近世の中国文化は、医学・社会福祉・文人趣味の展開とも関係する[1]。
歴史
時代背景
日本の江戸時代元和・寛永(1615年 - 1644年)のころ、明朝の動乱から逃れた多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住していた。とくに福州出身者たちによって興福寺(1624年)、福済寺(1628年)、崇福寺(1629年)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていた。
創始
承応3年(1654年)、中国臨済宗の僧の隠元隆琦により始まる。隠元隆琦の禅は、鎌倉時代の日本臨済宗の祖である円爾(1202年 - 1280年)や無学祖元(1226年 - 1286年)等の師でもある無準師範(1177年 - 1249年)の法系を嗣ぐ臨済禅であり、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。
隆盛
幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光(1630年 - 1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めた。また元文5年(1740年)に第14代住持として和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。こうした活動から次第に教勢が拡大し、萬福寺の塔頭は33カ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。
明治7年(1874年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、明治9年(1876年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。
現在も臨済宗とは共同で財団法人を運営しており、公式ウェブサイトも両者合同で設置されている。
鉄眼一切経
隠元隆琦の法孫に当たる鉄眼道光は艱難辛苦の末に、隠元隆琦のもたらした明版大蔵経を元版とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』といわれる大蔵経を開刻・刊行した。これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、了翁道覚(1630年 - 1707年)は錦袋円(きんたいえん)という漢方薬の販売により、収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。
黄檗唐音
黄檗宗に於ける読経は、現在も近世中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐韻(とういん)」と呼ぶ。
黄檗法系略譜
太字は渡来僧・<>は未顕法者・前置きの数字は萬福寺住持世代・イタリック体は渡来せず。
寺院
脚注
注釈
- ^ 三禅宗は他に臨済宗、曹洞宗。
- ^ 黄檗希運は唐の宣宗皇帝と臨済義玄(? - 867年)の師である。
出典
参考文献
- 図録『黄檗の美術 江戸時代の文化を変えたもの』 京都国立博物館、1993年
関連項目
外部リンク