ならまちならまちは、奈良県奈良市の中心市街地南東部に位置する、歴史的町並みを有する地域。狭い街路に、江戸時代以降の町屋が数多く建ち並ぶ。 なお、奈良町(ならまち)とは、江戸時代中期の『奈良町絵図』に描かれた奈良町の区域を指す現在の地名で、「ならまち」「きたまち」「京終(きょうばて)」のエリアからなる[1]。奈良市では、「奈良町」と「ならまち」とを使い分けている[1]。「ならまち」は、「奈良町」のうち国道369号よりも南の区域を指す[1]。 このうち、元興寺の旧境内を中心とする49.3ヘクタールが、奈良市により奈良町都市景観形成地区[2]に指定されている。 概要この地域には発掘作業により古墳も見つかっているが、都市としての発展は、710年(和銅3年)に遷都した奈良の都・平城京の外京として多くの社寺が置かれたことに始まる。784年(延暦3年)の長岡京遷都後も、東大寺や春日大社、興福寺のお膝元として都市機能を維持した。 中世以降、元興寺旧境内に様々な産業(筆、墨、蚊帳、晒、仏具、布団、刀、酒、醤油など)が発展し、江戸時代には有力商工業都市として町が形成された。慶長年間までは、田舎のような村里だったが、寛永年間以後、町人の家造りが豪華となり、今のような街並みになった(村井古道『南都年中行事』)[3]。奈良奉行による17世紀末の調査では、人口3万5千人を数えている。 第二次世界大戦の大規模空襲を免れ、街路と建築が残った。奈良市は比較的小さな都市のため空襲予定リストの下位にあり、都市空襲が実施される前に終戦を迎えた[4]。戦後は奈良市旧市街地として栄えた。 現在は、社寺、公共文化施設のほか、町屋の原型や外観を保ちつつ、現代風に改装された飲食店、雑貨店、ギャラリー、ゲストハウス等が域内各地に点在することから、奈良の新たな観光スポットとして注目を集め、細かく入り組んだ路地を歩きながら歴史的風情を楽しむ観光客で賑わっている。 一方で、伝統的な町屋がハウスメーカー製の近代的な住宅に建て替えられるなどの事例も散見され、景観形成上の課題となっている。また、賃貸アパート等が少ないことなどから高齢化が課題となっており、町としての活力をどう維持するか模索が続いている。 2014年2月にならまちを通る市道猿沢線の鶴福院商店街周辺を、観光バスの通行の便などを理由に拡幅する計画が奈良市から発表され[5]、景観を守りたい地元住民を中心に反対運動が起きた。 奈良町都市景観形成地区指定の経緯20世紀後半には地域住民等による町屋保存活動が活発化し、1984年には社団法人奈良まちづくりセンターが設立された。市民主体のまちづくりシンクタンク社団法人の設立は全国でも初めてのことで、各地のまちづくり運動の先鞭をつけた。奈良まちづくりセンターは奈良市のいくつかの審議会にも参加し、公益商工団体とも協力関係にあった。その市への提言に乗じて、西田栄三奈良市長が主導する形で、町屋建て替えに際し、外見の許可制限があり当時500万円の補助上限のあった伝統的建造物群保存地区へと指定しようとした。しかし、実際には戦後の住宅が5〜8割を占める地区が大半であり、町屋の外見形態への建て替えの持ち出し金が一戸当たり数千万円となることから「戦後に建てた普通の住宅を、新しく町屋に市民の莫大な負担で建てること」に多くの住民が理不尽だと反対した。きっかけをつくった奈良まちづくりセンターは、講演で「好ましくない」などと触れる程度であった。そのため、奈良町資料館長の南氏を中心とする有志が運動を起こし、撤回に至った。 奈良市は住民などと調整し、1990年4月、奈良市都市景観条例に基づく「奈良町都市景観形成地区」(面積約48.1ha)を指定した。これは、対象区域にある建造物の外観修景等に要する経費の一部を奈良市が補助するもので、規制は比較的緩い。 2010年には、奈良市都市景観条例が改正され、奈良町都市景観形成地区は「なら・まほろば景観まちづくり条例」に基づく形となった。 2014年には奈良町都市景観形成地区の範囲が約1ha拡大され(面積約49.3ha)、今御門町、元林院町、西寺林町、南市町についてはそれぞれ一部区域から全域となった[2][6]。 区域に含まれる町全域もしくは大部分が奈良町都市景観形成地区に含まれる町は、下記の通り(五十音順)。
一部が奈良町都市景観形成地区に含まれる町は、下記の通り(五十音順)。 主な施設寺社など
資料館・町屋・イベントスペースなど
商店街・商業施設
周辺情報交通アクセス脚注
関連項目外部リンク
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