興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。 南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。 歴史創建当寺は、藤原鎌足の妻である鏡王女が鎌足の病気平癒を願い、鎌足が大化元年(645年)頃に発願して造立させた釈迦三尊像を本尊として[1]、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が起源である。鎌足の死後、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)に山階寺は藤原京に移転し、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称する。なお、山階寺という寺名は鎌足を尊崇する意味において当寺の別称として以後も長く使わわれている[2]。 和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子藤原不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この和銅3年(710年)が実質的な興福寺の創建年といえ、中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。しかし、興福寺の寺地である左京三条七坊に及ぶ平城京の条坊整備が遅れたこともあって、興福寺の造営開始も遅れたと考えられている。和銅7年(714年)3月に金堂(後の中金堂)が供養されたとする史料があるが、この頃に金堂がようやく完成に近い姿であったと推測される[4]。 その後も天皇や皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)10月17日には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、養老5年(721年)8月3日に元明天皇・元正天皇が不比等の慰霊のために長屋王に命じて北円堂を建立させている[1]。また、同日には不比等の妻・県犬養三千代も不比等のために一具の弥勒浄土変像を造立して金堂に安置している。元来、藤原氏の私寺である興福寺だが、その造営は国家の手で進められるようになった。こうした官司による私寺の造営は異例である[4]。 神亀3年(726年)7月には聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈念して東金堂を建立し、天平2年(730年)秋には聖武天皇の妻・光明皇后が五重塔を建立している。天平6年(734年)1月11日には光明皇后が母・県犬養三千代の菩提を弔うために西金堂を建立し、現在も残る乾漆八部衆像や十大弟子像などの諸像が安置されている。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている[4]。また、唐から帰国してきた玄昉が当寺に入ると、当寺での法相宗の興隆に大きな影響を与えた[5]。 この頃には南大門、中門、回廊などの伽藍の中央部分も一部完成したか、あるいは施工にとりかかっていたと考えられている。その他、講堂、食堂、僧房なども含めて、おそらく天平16年(744年)までには完成したものと推定される。こうして現在の興福寺の伽藍がある西院は拡充された。続いて現在の興福寺本坊の東側に隣接する位置にあったと推定されている東院の伽藍も造営された[4]。天平勝宝元年(749年)5月20日に寺田百町が施入され、天平宝字元年(757年)12月8日には山階寺(興福寺)施薬院に越前国の水田百町が施入されている[1]。 東院については、天平宝字5年(761年)2月に藤原仲麻呂(恵美押勝)が聖武天皇と光明皇后の慰霊のために西桧皮葺堂(西堂)が建立され、藤原仲麻呂の乱後の天平宝字8年(764年)9月11日に称徳天皇の勅によって造られた百万小塔が分置されたという東瓦葺堂(東堂、小塔堂)が建立され、藤原永手のためにその夫人と子息の発願によって宝亀2年(771年)2月22日に桧皮葺後堂(地蔵堂)が建立された[1]。東院伽藍にはさらに僧房と小子房が附属していたという。このように元明太上天皇、元正天皇、聖武天皇や光明皇后をはじめ藤原氏が関わった興福寺の造営は奈良時代後期にほぼ完了したものと考えられている[4]。 弘仁4年(813年)に藤原冬嗣によって父の藤原内麻呂の追善供養のために南円堂が建立され[6]、中心伽藍はこの仏堂の建立をもって完成した[5]。 南都北嶺当寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。また、神護景雲2年(768年)に藤原氏によってその氏神として創建された春日社(現・春日大社)は、同じく藤原氏の氏寺である当寺と次第に神仏習合の関係を築き上げた。当寺は「春日明神は法相擁護の神」と唱えて天暦元年(974年)より春日社頭での読経を開始し、本地垂迹思想が進むにつれて当寺は春日社との一体を主張するに至った。そして、保延元年(1135年)に春日若宮を創設すると、それ以来当寺による春日社の支配は強まり、明治時代になるまで神仏習合の信仰形態が続けられた[5]。 こうした当寺と春日社との関係は、春日社の神威をかざしての神木動座・入洛強訴という手段に使われ、「山階道理」の言葉が生まれるほど朝廷・廟堂を悩ませた。例えば、寛治7年(1093年)の神木動座は、近江守高階為家に対するもので、近江国の春日社領の神人が凌打された報復として為家の流罪を強要し、土佐国に配流させた。このような神木動座・入洛はおよそ70回にも及んだ[5]。 さらに、当寺は大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)に隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた[5]。 しかし、当寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火、落雷により七度も焼失している[7]。元慶2年(878年)に最初の焼失を経験し、以後、延長3年(925年)、寛仁元年(1017年)、永承元年(1046年)、永承4年(1049年)、康平3年(1060年)、嘉保3年(1096年)と立て続けに大小の火災にあった。なかでも、永承元年(1046年)12月24日の大火では北円堂を残して全山が焼失している。また、治承4年(1181年)12月28日には治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による被害は実に甚大で、東大寺と共に大半の伽藍が焼失した[5]。 この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走し、朝廷や藤原氏との交渉の結果平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。しかし、建物が完成している一方で本尊が出来ていないことに業を煮やした東金堂の衆徒が、文治3年(1187年)3月9日に飛鳥の山田寺に押しかけて金銅丈六薬師三尊像(現・銅造仏頭)を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという行動を起こしている[8]。 当寺はその後も建治3年(1277年)、嘉暦2年(1327年)、文和5年(1356年)、応永18年(1411年)に罹災しているが、その都度復興を遂げている[8]。 鎌倉時代や室町時代には武士の時代になっても大和武士[注 2]と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。しかし、宝徳3年(1451年)10月14日には徳政一揆に襲われて大乗院などが焼失している[1]。 安土桃山時代になるとついに豊臣秀吉に屈することとなった。文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。また、江戸幕府からも寺領2万1,000石を認められている[8]。 江戸時代になると当寺は衰退の兆しを示すが、これに拍車をかけるような大火に見舞われた。享保2年(1717年)1月にまたしても大火災が発生し、中金堂、回廊、中門、西金堂、講堂、僧房、南円堂、南大門などが焼失する近世最大の災禍となった。しかし、時代背景の変化もあって再建資金を捻出できず、大規模な復興はなされなかった。再興は進まず、南円堂が寛保元年(1741年)4月にようやく立柱すると、その後、文政2年(1819年)9月に町屋の篤志家達の寄付によって仮堂ではあるがようやく中金堂が再建された[8]。 近現代慶応4年(1868年)3月に神仏分離令が出されると[1]、当寺は動揺した。すなわち、長年にわたる神仏習合の信仰形態を否定され、当寺と春日社は分離された。それに伴って興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。18か寺あった末寺とは本末関係を解消し、83か寺の子院、6つの坊が廃止され、僧は全員自主的に還俗し「新神司」として春日社に神職として仕えることとなった[8]。 1869年(明治2年)に東大寺が当寺の管理を行いたいと申し出たが、元僧らはそれを断って西大寺と唐招提寺に当寺の管理を任せている。1870年(明治3年)12月に上知令が出されると、当寺の広大な寺領は没収され、堂塔やその敷地のみが残されるという惨状となり、加えて宗名・寺号も名のれず、まさに廃寺同様の様相を呈した。神仏分離の施策は廃仏毀釈につながり、堂や仏像の破壊や撤去が押し進められた。当寺では築地塀、堂宇、庫蔵等の解体撤去、諸坊の退転が相次いだ[8]。1871年(明治4年)から一乗院は奈良県庁となり、中金堂は警察署や奈良県庁、郡役所として使用されたが、1883年(明治16年)に当寺に返還されている。1880年(明治13年)2月14日に旧興福寺境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった[1]。一乗院跡は現在は奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。 一時は廃寺同然となり、五重塔と三重塔も売りに出されていた。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手が付いたといわれ、当初買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうと考えていたというが、延焼を心配する近隣住民の反対で考えを変えたという。また延焼の心配だけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという[9]。しかし、五重塔売却の話自体が伝承の域を出ないという説もある[8]。 当寺は、1875年(明治8年)から西大寺住職佐伯泓澄によって管理されていたが、この間に当寺の再興が嘆願されて1881年(明治14年)2月9日に当寺の再興が許可された[1]。翌1882年(明治15年)には管理権が興福寺に返還された[8]。1884年(明治17年)3月には金堂基檀から奈良時代の鎮檀具が発掘された[1]。 1897年(明治30年)6月10日の古社寺保存法の発布で北円堂、三重塔、五重塔が特別保護建築物に指定された。1902年(明治35年)1月15日に五重塔が、1910年(明治43年)3月には三重塔の修理が完了した[1]。 1937年(昭和12年)10月30日の東金堂解体修理中に銅像仏頭(旧山田寺講堂本尊像)が発掘された[1]。 1959年(昭和34年)2月に食堂の跡地に宝物収蔵庫(国宝館)が建設された。1962年(昭和37年)10月31日に大湯屋の解体修理が完了、1965年(昭和40年)6月30日に北円堂の解体修理が完了し、1970年(昭和45年)3月31日には菩提院大御堂の改築があった[1]。 また、中金堂が老朽化してきたために不用になった薬師寺の旧金堂を譲り受け、1974年(昭和49年)11月23日に当寺に移築されて仮金堂(現・仮講堂)が建てられ、中金堂の諸仏が移された[1][10]。 1979年(昭和54年)8月31日に三重塔の修理が完了[1]。1996年(平成4年)3月31日には南円堂の修理が完了、同年4月12日には興福寺会館が竣工している[1]。 1992年(平成4年)10月には学識経験者からなる『興福寺境内整備委員会』が発足し、1997年(平成9年)6月に「興福寺境内整備構想」が策定された。そして1998年(平成10年)10月1日から第1期境内整備が着手された。また、同年12月2日に「古都奈良の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録された[1]。 翌1999年(平成11年)から国の史跡整備保存事業として中金堂、回廊、中門、南大門、北円堂回廊、西室、中室、鐘楼、経蔵の発掘調査が進められた[8]。 平城京での創建1300年を機に中金堂[11]と南大門の再建が計画されると、仮再建された中金堂は2000年(平成12年)8月に解体され[1]、再建工事が行われて2018年(平成30年)10月に落慶法要を迎えた(7日 - 11日)[12]。檜の大木が国内で入手困難なため、宮大工棟梁の提案で中心部の巨柱はカメルーン産欅を使用した[7]。 2023年(令和5年)に五重塔の大規模修理が開始された。屋根瓦の吹き替えや漆喰の塗り直しなどを2031年〈令和13年〉にかけて行う予定[13]。 建築物の年表
建築儀式 番匠興福寺のような高貴な建物を建てる棟梁を「番匠」(ばんしょう)といい、2014年(平成26年)、興福寺において番匠棟上槌打という儀式が披露された[14]。この儀式を保存するため、1968年(昭和43年)、番匠保存会が設立された[14]。番匠は、建築の全てに携わるものに災いが起きぬよう邪気を祓い去る陰陽道の祭祀祭礼の儀法を持ち合わせ、戦国時代、陰陽師が迫害を受けても刀鍛冶と同様、高い地位に位置付けられた「番匠」が口述伝承し、のちに書物化した「木割書」(きわりしょ)から、家相は生み出されたものであると、名古屋工業大学名誉教授内藤昌は述べている[15]。 門跡興福寺には「興福寺両門跡」と呼ばれる2つの子院があった。一乗院と大乗院である。 一乗院門跡は、平安時代後期の第6代門主覚信が関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々摂関家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院の一つとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。足利義昭は、元々近衛尚通の猶子として法名「覚慶」を名乗り一乗院の門跡となっていた。兄である足利義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て室町幕府将軍となったのである。大和の国衆で後に戦国大名化した筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭であった。江戸時代に入って、後陽成天皇の皇子尊覚法親王が門主となったのをきっかけに親王が門主を務めるケースも増えた。たとえば、久邇宮朝彦親王は、元は一乗院の門主で、その後に青蓮院へ移ったのである。摂関家や親王家と同様に諸大夫以下の専属の家司もおり、摂関家・親王家と同格の立場を誇っていた。また奈良だけではなく、京都今出川の桂宮邸と御所の間に「里坊」と呼ばれる屋敷を持っていた。 大乗院門跡は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家・二条家・一条家)の子弟が門主を務めるところであった。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われた後と、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り、大乗院の門主となっている。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も古市氏を衆徒としている。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂関家・親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となった例はない。 興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任する習わしだった。ただし、平家による南都焼討直後の時期に第44代別当となった信円[注 3] に限っては、例外的に一乗院門跡と大乗院門跡の双方を、他の幾つかの院家と共に兼帯している。また、両門跡に属する門主以外の者が別当に就任した例もある。 また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職については諸説ある。別当が権限を有していた説、両院の門主が共同で権限を行使していたとする説、門主が別当の時は別当が全権を行使し、それ以外の者が別当の時は別当と両院が共同で権限を行使していたとする説である[16]。江戸時代には世俗的権力を失い、江戸幕府から一定の知行(一乗院が1,492石、大乗院が951石)を与えられた単なる寺院となった。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となった。 中金堂2018年(平成30年)10月再建[1]。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に藤原不比等によって造営が始められたと推定され、 和銅7年(714年)3月に建立されたとする[1]。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)に町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、1959年(昭和34年)の国宝館の開館までは、高さ5.2メートルの千手観音立像をはじめ、国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長期使用を想定しておらず、長年の使用に不向きである安価な松材が使用され、瓦も安物が使われており、経年による雨漏りは年々ひどくなっていった[17]。そこで、仏像への雨漏り被害を防ぐために1974年(昭和49年)11月23日に中金堂北側の講堂跡地に仮金堂(現・仮講堂)として薬師寺の旧金堂を移築し、本尊の釈迦如来坐像などがそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年(平成12年)に解体された。その後、中金堂解体後に発掘調査が行われ、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内各所の整備が始められた。創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2017年(平成29年)、翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を早くも中金堂に移し、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した[18]。
東金堂国宝。応永22年(1415年)再建[1]。5代目。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である[21]。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[22]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[23]。西国薬師四十九霊場第4番札所。東金堂は神亀3年(726年)に聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された[24]。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)に興福寺の僧兵・東金堂衆は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)にあった天武天皇14年(685年)に蘇我倉山田石川麻呂の冥福を祈って造立されたものと思われる講堂の本尊・薬師三尊像を強奪し、それを新たな東金堂の本尊として安置した[8]。東金堂はその後、応永18年(1411年)に五重塔と共に焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建となる室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置する。
五重塔国宝。応永33年(1426年)再建[1]。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である[21]。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当))に指定[22]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[23]。創建は天平2年(730年)で光明皇后の発願によるものである[25]。現存の塔は、応永33年(1426年)の再建であるが、高さは50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高いものである。 明治初期、廃仏毀釈政策に基き、奈良県令四条隆平より塔撤去の命令が出て、頂上に網をかけて引き倒そうとしたが、叶わず、焼却のため周りに柴が積まれたが、類焼を恐れた近隣住民の反対により中止された[26]。 1905年(明治38年)7月には三重目の東北隅肘木に落雷が命中し黒煙をはくが、大事には至らなかった。これにより、1907年(明治40年)8月に避雷針を設置している。 1902年(明治35年)に修理を終えて以来、2024年(令和5年)7月からおよそ120年ぶりに本格修理が始まっている。 北円堂国宝。承元4年(1210年)再建[1]。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である[21]。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[22]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[23]。北円堂は養老5年(721年)8月に藤原不比等の一周忌に際して元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させたものである[27]。現在の建物は承元4年(1210年)の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。かつては回廊の復元を計画されたこともあり、現在はその基壇が復元されている。
南円堂重要文化財。寛保元年(1741年)4月立柱、寛政元年(1789年)再建[1]。4代目。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する[21]。1986年(昭和61年)12月20日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている[28]。西国三十三所第9番札所。南円堂は藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂の追善のために弘仁4年(813年)に創建した八角堂である[6]。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。堂は西国三十三所第9番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである(2002年(平成14年)秋、2008年(平成20年)秋、2013年(平成25年)春に特別開扉が行われた)。堂内には本尊である不空羂索観音坐像の他、四天王立像と法相六祖像を安置する。堂の前に生える「南円堂藤」は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。
国宝館文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、1959年(昭和34年)に食堂及び細殿の跡地に建てられた[31]。鉄筋コンクリート構造であるが、外観は創建時の食堂と細殿、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。2010年(平成22年)3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えた。文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになった。その後、2017年(平成29年)1月から12月までの1年間休館して耐震改修工事を施工、2018年(平成30年)1月に再度リニューアルした[32]。館長には小西正文や金子啓明が歴任し、現在は当山貫首が兼務している。詳細は興福寺の仏像を参照。
伽藍かつての興福寺には、中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)という3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像を安置していた。寺の中心部には、南から北に、南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には、南から、五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には、南から、南円堂(なんえんどう)、西金堂、北円堂(ほくえんどう)が建っていた。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は創建以来火災に度々見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治時代以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。「興福寺の仏像」も参照。
文化財現在の境内と合わせて奈良公園の一部にまたがる旧境内が国の史跡に指定されている。所有する国宝は27件になる。 国宝
※ 阿修羅像は「乾漆八部衆立像 8躯」のうちの1躯である。 重要文化財
(参考)広島県尾道市(生口島)の耕三寺所蔵の木造釈迦如来坐像(1901年重文指定)はもと興福寺にあり、第二次世界大戦後に耕三寺に移ったものである。
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。 国の史跡
奈良県指定有形文化財
奈良市指定無形民俗文化財
主な行事
上記の他、春と秋の一定期間 (約2週間)、北円堂が特別開扉される。また、通常非公開となっている諸堂の特別公開が行われる。 近代以降の住職・貫首
前後の札所
真言・御詠歌
拝観
所在地
アクセス近隣施設その他ドキュメンタリー脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク |