アルボムッレ・スマナサーラ
アルボムッレ・スマナサーラ(シンハラ語: අලුබෝමුල්ලේ සුමනසාර Alubomulle Sumanasara、1945年4月 - )は、イギリス領セイロン(現・スリランカ)出身の僧侶[4]。スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老であり[注 1]、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老[注 2]、日本テーラワーダ仏教協会長老[注 3]、スリランカ・キリタラマヤ精舎住職[注 4]。日本において仏教伝道[注 5]、および瞑想指導を行う[13]。『怒らないこと』(サンガ新書)など多数の著書がある[4]。仏教とは今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであると説く[1]。 経歴1945年4月、イギリス領セイロン(現・スリランカ)のアルボ村に生まれた[7]。名前のアルボムッレは出身地に由来する[14]。13歳で沙弥出家、1965年に具足戒を受けて比丘となった[7]。 スリランカの国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭を執ったのち[15]、1980年に国費留学生として来日し[7]、大阪外国語大学語学コースを経て駒澤大学大学院人文科学研究科仏教学専攻博士後期課程に進学し[16]、駒澤大学教授奈良康明の下[17]、道元の思想を研究した[7]。その後、スリランカと日本両国での活動を経て、1991年に再来日し、上座仏教修道会にて仏教講演や瞑想指導を本格的に開始した[7]。 1994年11月に、初代会長を鈴木一生として、日本テーラワーダ協会(のちの宗教法人日本テーラワーダ仏教協会)を設立し、2001年5月に東京都渋谷区幡ヶ谷にゴータミー精舎幡ヶ谷テーラワーダ仏教センターを開山し、2005年8月にスリランカ上座仏教シャム派総本山アスギリヤ大精舎にて日本大サンガ主任長老(ナーヤカ長老)[注 2]に任命された[7][10]。 活動日本テーラワーダ仏教協会の長老(chief adviser)[注 3]、ならびにスリランカのベヤンゴダ町[18] にあるキリタラマヤ精舎住職を務める[注 4]。 日本テーラワーダ仏教協会や朝日カルチャーセンターでの講演、NHK教育テレビこころの時代への出演などを行い、仏教の伝道[注 5]、ならびにヴィパッサナー瞑想の指導に従事する[1]。23万部に達するベストセラーとなった『怒らないこと』(サンガ新書)[5] など100冊以上の著書があり、累計発行部数は100万部を超え[4]、内容としては、ダンマパダ(法句経)などのパーリ語経典の教えを現代向けに応用して話題にした法話集や、ラベリング[注 6]を重視するマハーシ系統のヴィパッサナー瞑想の解説書などがある[20][21]。 思想上座仏教に関して、スマナサーラは、日本の仏教とは共通点も多いが違う点もあり、日本の仏教は釈迦の死後かなりたってから編纂された大乗経典に基づくため、釈迦のアイデアが旨く伝わっていない部分があると述べる[22]。 上座仏教は神も信仰も無いことで他の宗教と異なると述べ、仏教は釈迦の「教え」であって「宗教」では無く、論理的で実践的な「心の科学」だと説き[23]、今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであると説く[1]。 「怒らないこと」に関しては、「世界」は自分の思い通りには変えられないため、「自分」の方が変われば良いと説く[24]。一切の物事は無常であり、無常が怒りの原因であり、人は怒らずにはいられないと説き[25]、我々は常に変化し、体は苦の感覚で出来ており不変の実体は無いことを説く[12]。人を不幸にしているのは怒り・欲望・執着などであり、理性によって捨て去ることができること、そのために重要なのは怒らないことであること、怒ることは「自分は正しい」という態度であり極限の無知であること、人が怒りを止められないのは自我が強いからであるが、自我とは錯覚に過ぎないことなどを説く[23]。「自分は偉い、自分を認めてくれないといけない」といった自我が怒りの元であり、その状態から逃れるには、怒りがわいたとき「これは怒りの感情だ」と、自分の精神状態を客観視するのが良く、それにより気持ちがよくなり元気になれると説く[26]。 自身の活動に関しては、釈迦の語った内容を分りやすく話すことを行っており、現実に生きる人々の役に立つことを教えており、現実の日本社会で問題を抱える人に、どんな問題を持っているのか尋ね、それに適した仏教の教えを紹介していると述べる[5]。現代は、釈迦の時代と比べ機械文明が進んだが本質は変わらず、現代人の悩みは、釈迦の教えで全部答えることが出来、来日後約30年経つが、答えられなかった質問はひとつも無いと述べる[5]。日本で活動する理由は、日本人が仏教を何も分っていないと思ったからであり、一方、駒澤大学時代における学生との交流から、日本人は躾がされていて性格的にはしっかりしており、納得のいくことを言われればきちんと実行するので、難しい仏教でも頑張れば出来る人々だと思ったからだと述べる[5]。 著書『怒らないこと』に関しては、本書は「怒りがあってうまくいかない」という相談への答えとして書いており、「怒ってはいけない」ではなく「怒りとは何か」「何で怒るのか」を論理的に分析してみせており、それが分ると自己管理が出来るようになると述べる[5]。日本人は決断や心のコントロールが失われてきていると思うが、仏教を学べば怖くないことが判ると述べ、怒りの問題が最も分りやすく、怒りと戦うと他の弱みは全部消えると述べる[5]。人間は弱いため、厳しく極限的に言う必要があり、それを計算して書いており、言葉が荒っぽい・乱暴だと指摘されるが、それは全部敢えて意図的に入れており、指摘されても「ほら当たったぞ」という感じであり直そうとは思わず、論理的・知識的に本質を批判できないことを知った上で書いていると述べる[5]。 道徳に関しては、仏教では、自分が他人にしてほしくないものが非道徳・してほしいものが道徳であり、一切の生命を慈しむことこそが全ての人間の問題の解決策だと説く[12]。 著書
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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