アレシャンドレ・ロドリゲス・ダ・シウヴァ
パト(Pato)こと、アレシャンドレ・ロドリゲス・ダ・シウヴァ(Alexandre Rodrigues da Silva, 1989年9月2日 - )は、ブラジル・パラナ州パト・ブランコ出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。 元ブラジル代表。 登録名はアレシャンドレ・パト (Alexandre Pato) 。「パト」は、出身地に由来する[2]。 経歴クラブインテルナシオナル4歳の時にはじめたフットサルで基本技術を身につけ[2]、12歳でSCインテルナシオナルの下部組織に入団した[3]。16歳のときにU-20の州選手権で得点王を獲得し、「クラブ史上最高の素材」と評判になった。当時は他クラブの引き抜きを恐れ、あえて下部組織で教育を続けられた[3]。2006年11月末のSEパルメイラス戦でデビューすると、開始わずか1分でプロ入り初ゴールを決め、さらに3得点に絡むというドラマチックなデビューを飾った[2]。17歳でFIFAクラブワールドカップ2006に出場、得点を上げるなどの実績を残している。アル・アハリ戦では肩でリフティングをするドリブルを披露するなどし、メディアの注目を集めた[2]。 2007年7月、カナダで行われたFIFA U-20ワールドカップでの活躍により、ACミラン、インテル・ミラノ、レアル・マドリード、チェルシーFCなどが獲得オファーを出した。 ACミラン2007年8月、セリエAのACミランへ移籍[4]。移籍金は推定2200万ユーロ(約36億円)。しかし、FIGCのEU圏外選手登録年齢制限が解ける18歳にならないと試合出場ができないため、公式戦に出場するのは翌2008年初頭からとなり、1月4日にレガ・カルチョから登録を完了したことが発表された。背番号は7番。 2008年1月13日、セリエA第18節のSSCナポリ戦にてセリエAデビューを果たし、この試合でセリエA初ゴール記録。シーズン通算で20試合に出場し、チーム3位となる9得点を挙げた。 2008-09シーズンはレギュラーに定着し36試合に出場。チーム2位でセリエA全体でも6位となる15得点を挙げ、セリエA年間最優秀若手選手賞を受賞。なお、イタリア人選手以外での受賞は、前年度のマレク・ハムシークに続き2人目。 2009-10シーズンはレオナルド監督の下、ロナウジーニョ、マルコ・ボリエッロとともに3トップを形成し好パフォーマンスを披露。2010年1月にはブラジル人選手として初めて、オスカル・デル・カルチョの年間最優秀若手選手賞を受賞した。一方で、2010年1月に肉離れを起こして以降、負傷を繰り返すようになり、2年間で8度の筋肉の怪我を負っている[5]。 2010年12月にはアメリカのデューク大学で精密検査を受けた[6]。 2011-12シーズンはさらに負傷離脱が続き、リーグ戦11試合出場でわずか1得点に終わった。2012年1月には、パリ・サンジェルマン移籍の噂が出るも残留。 2012-13シーズンから7番に代わってフィリッポ・インザーギの引退で欠番となった背番号9番を背負うも度重なる負傷癖は変わらず。冬の移籍市場で移籍を志願した[7]。 ブラジル時代2013年1月、母国のコリンチャンスに完全移籍した[8]。契約は4年間で移籍金は1500万ユーロ(約17億円)[9]。 チェルシー2016年1月30日、チェルシーFCに半年間のレンタル移籍が決定[11]。背番号はかつてディディエ・ドログバやオスカルの着用した11番[12]。コンディション不良[13]などで、移籍後およそ3カ月間は出場機会が無かったが、2016年4月2日のアストン・ヴィラ戦でデビューし、ゴールを記録した。しかし、リーグ戦2試合の出場に留まり、シーズン終了後退団した[14]。 ビジャレアル2016年7月27日、スペインのビジャレアルCFと4年の完全移籍で合意したことを発表した[15]。 天津権建2017年1月30日、中国超級・天津権建に移籍した[16]。移籍金は1800万ユーロ。2017年シーズンはリーグ戦24試合に出場し、15得点を記録した[17]。2018年10月27日、広州富力戦では芸術的なミドルシュートで2ゴールを挙げ、さらにその試合でハットトリックを記録した[18]。 2019年3月、契約解除により退団[19]。 サンパウロ2019年3月27日、サンパウロに2022年までの契約で加入した[20]。 2020年8月、サンパウロから退団すると発表した[21]。 オーランド・シティ2021年2月13日、オーランド・シティSCと契約した[22]。 ブラジル代表2008年3月26日、ロンドンで行われた国際親善試合、スウェーデン戦でA代表デビュー。決勝点となるゴールを決め、華々しいデビューを飾った。五輪には飛び級で選出された北京大会と、ロンドン大会[23]の2大会に出場し、A代表でもコパ・アメリカやコンフェデレーションズカップに出場するも、W杯だけは縁がなく、度重なる怪我の影響もあり外された2010 FIFAワールドカップをはじめ、1度も本大会メンバーには選出されていない。 人物2009年7月に結婚し[24]、その後はゴールを決めたあとに妻に向け両手でハートマークを作るパフォーマンスを度々していたが[3]、2010年に離婚した[25][26]。2011年からはミランのシルヴィオ・ベルルスコーニ名誉会長の娘であるバルバラ・ベルルスコーニと交際していた[27][28]。 個人成績
タイトル代表クラブ
個人
代表出場大会
試合数
代表での得点
脚注
外部リンク |