アワーラッシー
アワーラッシー (Our Lassie、1900年 - 1916年) は、イギリスの競走馬。主な勝ち鞍は1903年の英オークス。 産駒のレディブリリアントを通して20世紀の競走馬の血統に大きな影響を与え、その牝系は現在も続いている。 生い立ちアワーラッシーは、現役中のオーナーでもあるジャック・バーナート・ジョエルによって生産された。 父は1888年に2000ギニーステークスとエプソムダービー、1889年にエクリプスステークスで優勝したエアシャー[2]。母のユアーズはイギリスで一大牝系を築いたグランドダッチスの孫で、競走馬としては未勝利に終わったが、繁殖牝馬としてユアマジェスティ(アワーラッシーの半弟)などのステークス競走勝ち馬を輩出している[3]。 その後、バークシャーのウォンテージで、ジョエルの専属調教師であるチャールズ・モートンが調教を行った[4]。 競走馬時代1902年(2歳)4月24日にサンダウンパークプロデュースステークス(5ハロン以上、2000ポンド)でデビューし、勝利を挙げた[5]。他の3レースでは、リングフィールドパーク競馬場のグレートフォールプレートで2着、リヴァプールのグレートランカシャーブリーダーズプロデュースステークスで3着、ヨーク競馬場のプリンスオブウェールズプレートで2着の成績を収めた[6]。 1903年(3歳)クラシック競走に向けて、古馬も出走する3月27日のリンカーンハンデキャップでシーズン初出走。レース前の数日間は食欲不振に陥っていたが、馬主のジョエルはアワーラッシーの斤量がわずか84ポンドであること、すでにブックメーカーから10万ポンドの支援を受けていたことから、アワーラッシーの出走を決めた。しかし、やはり状態は悪く、優勝馬オーヴァーノートンの前に大敗した[7]。 次走は5月29日にエプソム競馬場で開催される第125回オークスステークスに出走。ハマーコップ(ジュライステークス勝ち馬)が、1000ギニーステークスでアンラッキーな形で敗北したサンローズに先んじて1番人気となった。他には、バルブ、ダズリング、スカイスクレイパー(プリンスオブウェールズプレートでアワーラッシーに勝利した後、チェヴァリーパークステークスで優勝)などの有力馬が出走した。レースは波乱の展開となり、タッテナムコーナーでダズリングがサンローズと衝突し転倒。その時点でレディースマイルが先頭を走り、アワーラッシーはハマーコップに次ぐ3番手の位置を取った。最後の直線でハマーコップが前に出たが、アワーラッシーはゴール手前400m地点でハマーコップを悠々交わし、3馬身差をつけて優勝。スカイスクレイパーが3着に入線した[8]。馬主のジャック・ジョエルは、エプソムダービーに勝利したロックサンドとのダブルベットで1万ポンドを獲得したと伝えられている[9]。 オークス勝利から1週間後、アワーラッシーはマンチェスターカップに出走したが、ジンファンデルの4着に終わった[10]。 9月はドンカスター競馬場で開催されるパークヒルステークスに出走したが、1000ギニーステークス勝ち馬であるクインテッセンスの6着に敗北[11]。10月にニューマーケット競馬場で開催されたデュークオブヨークステークスもセプターの6着に終わった[12]。 1904年(4歳)4歳になってからも現役を続け、6月にシーズン初戦のロイヤルハントカップに出走したが、チャールダーシュの前に大敗[13]。結局これ以降はレースに出走することは無く、年末に引退した[4]。 繁殖牝馬時代競走馬引退後、アワーラッシーは馬主のジョエルが経営する牧場で繁殖牝馬となった。1906年から1914年の間に少なくとも8頭の子馬を出産し、1916年に死亡した[14]。
産駒から活躍馬は出なかったが、Lady Brilliant産駒のBlack Rayが繁殖牝馬として牝系の拡大に貢献した。Black Ray産駒(アワーラッシーの曾孫)のうち、Eclairのラインからはブラッシンググルーム、アグネスデジタル、アイルトンシンボリ、キングカメハメハなどが、Dawn Rayのラインからはレディーズシークレット、ビリーヴ、ジャンダルム、サークルオブライフなどが、Infra Redのラインからはゴルディコヴァ、ミルリーフ、ダイナコスモス、フジキセキなどが出ている。 主なファミリーライン
牝系図の主要な部分(太字はG1級競走優勝馬)は以下の通り。*は日本に輸入された馬。
牝系図の出典:Galopp-Sieger 血統表
脚注
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