グレゴリオ・マンサーノ
グレゴリオ・マンサーノ(Gregorio Manzano Ballesteros, 1956年8月5日 - )は、スペイン・アンダルシア州ハエン県出身のサッカー指導者。 心理学の学士号を所持し[2]、ロッカールームに貼ったメッセージで選手とコミュニケーションを取るなど独特な手法を用いることで知られる[3]。 経歴下部リーグの監督時代地元のハエン県で公立高校の教師として24歳の時に学校のクラブチームを率いたのが彼の指導者としての第一歩である[1]。ハエン市にあるさまざまなクラブを指導し、1990-91シーズンにはテルセーラ・ディビシオン(4部相当)のレアル・ハエンの監督に就任し、そのシーズンは4位で終えた。その後タラベラCFの監督に就任し、1996-97シーズンにはセグンダ・ディビシオンB(3部)で2位につけた。1997-98シーズンはプレーオフの最終日にセグンダ・ディビシオン昇格を逃した。1998年にはCDトレドの監督に就任し、セグンダ・ディビシオン(2部)で7位に到達した。 プリメーラの監督として中堅チームを率い、限られた戦力で最大限の結果を出すことを得意とする。1999-2000シーズンはプリメーラ・ディビシオンのレアル・バリャドリードを指揮し、サンティアゴ・ベルナベウでレアル・マドリードに勝利するなど、7位でシーズンを終えた。2000-01シーズンに指揮したラシン・サンタンデールでは、FCバルセロナを4-0で下した。2001-02シーズンはラーヨ・バジェカーノで11位になり、2002-03シーズンはRCDマヨルカの監督に就任した。レアル・マドリードに対して5-1で勝利し、コパ・デル・レイで優勝に導いた。2003-04シーズンはアトレティコ・マドリードから声がかかり、チームを7位に導いた。スペインサッカー協会は代表監督の座にマンサーノを招こうとしたが、彼はマラガCFの監督に就任した。しかしマラガでは不振を極め、2005年1月11日に解任された[4]。 2006年2月、エクトル・クーペル監督の後任としてRCDマヨルカの監督に復帰すると[4]、2007年夏にはアンゲロス・バシナスやボシュコ・ヤンコヴィッチ、2008年夏にはダニエル・グイサやアリエル・イバガサ、2009年夏にはフアン・アランゴやホセ・マヌエル・フラドなど、毎年のように主力選手数人を放出しながらも中位に導いた。2008-09シーズンは前半戦19位と低調な滑り出しだったが、後半戦はリーグ3位の勝ち点を積み重ね、最終的に9位で残留を決めた[5]。2009-10シーズンはホーム19戦で15勝1分3敗と優れた成績を残し、5位でシーズンを終えてUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得したが、クラブ側の厳しい財政事情により、契約を更新せずに退任した[6]。 2010年7月から8月にかけて、日本代表の新監督候補に挙げられていることが報道された[7][8]。2010年9月26日、成績不振により解任されたアントニオ・アルバレスの後任としてセビージャFC監督に就任した[9]。就任時から順位を2つ上げて5位でシーズンを終え、シーズン終了後に契約満了で退任した[10]。2011年6月8日、1年契約でアトレティコ・マドリード監督に復帰した[11]。しかし、12月22日に成績不振で解任された[12]。 2013年2月5日、RCDマヨルカの監督に就任[13]。同クラブを指揮するのは3度目である。 中国スーパーリーグ2014年、中国に渡り北京国安監督就任。ACLで決勝トーナメント進出、中国スーパーリーグでも優勝争いに絡んだ。 2016年に上海申花監督就任。デンバ・バ、フレディ・グアリン、ジオバンニ・モレーノ、オバフェミ・マルティンス、李帥といった選手を擁し4位でACL2017出場権を獲得した。しかし契約面で拗れ同年限りで退任。 2017年に貴州智誠監督就任。2部から初昇格したチームをリーグ8位に導いた。しかし翌2018年シーズンは11節を消化してわずか1勝しかできず、6月7日に解任された[14]。 指導者経歴
タイトル指導者クラブ
個人
脚注
外部リンク
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