ケルン級フリゲート
ケルン級フリゲート (ドイツ語: Fregatte KÖLN-Klasse, 英: Köln-class frigate) は、ドイツ連邦海軍(西ドイツ海軍)のフリゲートの艦級。公称艦型は120型(Klasse 120)[1][2]。 来歴第二次世界大戦後、連合軍軍政期においてドイツは一旦は非武装化された。しかし冷戦構造の成立に伴い、1949年のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国後、1951年には連邦国境警備隊、1955年には連邦軍が設置され、翌1956年にはその海洋戦力として連邦海軍(Bundesmarine; 西ドイツ海軍)が建軍された[3]。 1956年5月、連邦議会は海軍のための最初の艦艇新造計画を認可したが、この計画には護衛艦(Geleitboot)6隻の建造が盛り込まれていた[4]。これによって建造されたのが本級である。設計そのものは「護衛艦55」として1955年より着手されており、1957年に発注された[1][2]。 ただし実際の竣工は数年後となることから、その間の空白を埋めるため、アメリカ海軍から119型駆逐艦(旧フレッチャー級駆逐艦)6隻、イギリス海軍からは138型教育フリゲート7隻(旧ハント級駆逐艦3隻、ブラックスワン級スループ1隻、改ブラックスワン級スループ3隻)の譲渡を受けることとなり、これらは1958年から1960年にかけて順次に編入された[3]。 設計本級は、第二次世界大戦後において、ドイツ海軍がはじめて建造した大型戦闘艦であり、世界で初めてCODAG(ディーゼル=ガスタービン複合機関)を搭載した艦でもある。本級の主機関は、4基のMAN社製V型16気筒ディーゼルエンジン(2,208 kW (2,961 hp))と2基のブラウン・ボベリ(BBC)社製ガスタービンエンジン(8,832 kW (11,844 hp))を組み合わせたものであり、また電力供給のため、550hp / 405kWのディーゼル発電機を3基搭載する。このガスタービンエンジンは舶用専用として設計されたものであり、また推進器にも可変ピッチプロペラ(CPP)を採用するなど多くの新機軸が盛り込まれた[2]。船型としては平甲板型を採用しており、船体は13個の水密区画に区分されている[5]。 装備本級は、対潜戦に重点をおいた装備が施されている。対潜兵器としては533mm短魚雷発射管のほか、対潜迫撃砲として、艦橋直前の甲板室上にM/50 375mm対潜ロケット発射機が搭載されている。センサとなるソナーとしては、CWE-10/PAE-1が搭載される。これは同一のソナードームを共用する複合ソナー・システムであり、前者は10.5/11kHz、後者は24kHzを使用するサーチライト・ソナーである。また、水中攻撃指揮装置(UBFCS)としてはM5(対潜ロケット砲用)およびM9(魚雷用)が用いられるが、これはアメリカのMk.105におおむね相当する[6]。 また本級は砲装型のフリゲートであり、防空・対水上火力に関しては砲熕兵器に依存している。主砲としてはフランス製の新しい両用砲システムである55口径100mm単装砲(Modèle 53)、高角機銃としては、やはり新型のボフォース 70口径40mm機関砲がブレーダ・メッカニカ・ブレシャーナ社製マウントと組み合わされて採用された[7]。 しかし船体は比較的小型で発展余地も少なかったことから、就役後に登場した新しいテクノロジーである個艦防空ミサイルや艦対艦ミサイル、C4Iシステムには対応できなかった。また対潜戦についても、就役後に登場した艦載ヘリコプターの運用設備(ヘリコプター甲板や格納庫)の設置には対応できなかった[5]。 同型艦一覧表
運用史1957年から1964年にかけて、西ドイツのストラッケン&ゾーン造船所において6隻が建造された。これらは1961年より順次に就役を開始し、続いて建造されたハンブルク級駆逐艦とともに、1970年代・1980年代において西ドイツ海軍の基幹兵力となった。しかし上記の通り発展余地が乏しく、性能が限定的であったことから、後継となるブレーメン級フリゲートの就役に伴って順次に運用を終了し、1989年までに全艦が退役した[1]。 退役後、本級のうち3隻はトルコ海軍に譲渡され、うち2隻が再就役したものの、これらも1994年までに運用を終了した。 脚注出典
参考文献
外部リンク |