ゴードン・ソリー
ゴードン・ソリー(Gordon Solie、出生名:Francis Jonard Labiak、本名:Jonard Pierre Sjoblom、1929年1月26日 - 2000年7月27日)は、アメリカ合衆国のプロレス実況者。ミネソタ州ミネアポリス出身。 1960年代から1980年代にかけて、NWAの黄金テリトリーだったフロリダ(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)およびジョージア(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)などの南部において、プロレス中継の実況アナウンサーを務めた[1][2]。 その功績に敬意を表し、"The Dean of wrestling announcers" の称号が与えられている[1][3]。 来歴アメリカ空軍を除隊後の1950年代より、フロリダ州タンパのラジオ放送局にてディスクジョッキーとして活動[2][3]。プロレスを含むスポーツのリポーターも務め[3]、プロレスラーへのインタビューなども行っていた[4]。 その後、NWAフロリダ地区のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ(CWF)にて、リングアナウンサーを経て1960年より実況アナウンサーを担当[2][4]。以降、CWFのリード・アナウンサーとなって、ルー・テーズ、ジン・キニスキー、エディ・グラハム、ジョニー・バレンタイン、ヒロ・マツダ、ドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、テリー・ファンク、そして1970年代中盤より同地区のスーパーヒーローとなったダスティ・ローデスなど、数々のレジェンドの試合を実況した[2][4]。 1974年からはNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング(GCW)の中継にも携わるようになり、テッド・ターナーのTBSにおいて1985年まで実況およびインタビュアーを担当[3]。1980年代初頭には悪役コメンテーターのロディ・パイパーを相手に、後のゴリラ・モンスーン&ボビー・ヒーナンやジム・ロス&ジェリー・ローラーなどのコンビに通じる掛け合いを聴かせた。WWFのアナウンサーだったモンスーンは、ソリーの実況スタイルに影響を受けていたという[5]。 CWFの実況は、同団体がジム・クロケット・プロモーションズに吸収される1987年まで担当[2][4]。1989年からはテッド・ターナーのクロケット・プロ買収により誕生したアトランタのWCWに参加し、GCW以来となるTBSでの活動を再開。1995年にWCWを離れ、プロレス業界から引退した[2][4]。 1990年代後半、咽頭癌を患い声帯を除去、多くのプロレスファンに親しまれてきた声を失った[2]。その後も闘病を続けたが、2000年7月27日、フロリダ州ニューポート・リッチーの自宅にて死去[3]。71歳没。 1984年7月のブラック・サタデーなどを背景に、ビンス・マクマホンに対しては一貫して批判的な姿勢を取り続けていたが[4]、WWEは彼の功績をたたえ、2008年にWWE殿堂に迎え入れた[2]。インダクターを務めたジム・ロスは、顕彰セレモニーにおいて「ゴードン・ソリーこそが最高のレスリング・アナウンサーであり、我々は彼に次ぐナンバー2を争っているにすぎない」と賛辞を呈している[6]。 受賞
脚注
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