ジョシュ・フィールズ
ジョシュア・ディーン・フィールズ(Joshua Dean "Josh" Fields , 1982年12月14日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の元プロ野球選手(内野手)。右投げ右打ち。現在は読売ジャイアンツ駐米スカウト。 経歴ホワイトソックス時代2004年にシカゴ・ホワイトソックスからドラフト1巡目(全体18番目)で指名され契約。 2006年はAAA級シャーロットで打率.305、19本塁打、70打点、OPS.894、28盗塁の成績を残し、オールスター・フューチャーズゲームにも出場。9月13日のロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム戦の9回からレフトの守備につきメジャーデビュー。9月18日、デトロイト・タイガース戦の9回に代打で出場し、ホワイトソックス史上3人目のメジャー初打席初本塁打を記録した。 2007年は、腰を故障したジョー・クリーディに代わり、6月から三塁手としてメジャーに定着。100試合に出場し、打率.244、OPS.788と低調だったものの、リーグのルーキー最多の23本塁打を放ち67打点をマーク。特に9月の第3週目には、21日のミネソタ・ツインズ戦でヨハン・サンタナから2本塁打を放つなど打率.525、長打率1.190と打棒が爆発し、週間MVPを獲得した。また、クリーディが復帰する来期以降に備え、左翼手としても21試合に出場した。 2008年は、故障から復帰するクリーディと共に正三塁手候補、また前年オフにトレードで獲得したカルロス・クエンティンと共に正左翼手候補としても期待された。しかし開幕から膝の故障に悩まされ、メジャーでは14試合の出場で打率.156、OPS.416。AAA級シャーロットでも75試合の出場で打率.246、OPS.772と期待を大きく裏切る成績に終わり、9月には膝の内視鏡手術を受けた。 2009年は三塁手のほか、一塁手としても17試合に出場。7月23日にチームメイトのマーク・バーリーが完全試合を達成した試合では一塁を守り、2回に先制満塁本塁打を打ち、最終回には27個目のアウトとなるアレクセイ・ラミレスからの送球を捕球した。このシーズンは79試合の出場で7本塁打を放ったが、打率は.222に留まり、マイナー降格も経験した。 ロイヤルズ時代2009年11月6日、クリス・ゲッツと共にマーク・ティーエンの交換要員としてカンザスシティ・ロイヤルズに移籍した。 2010年は開幕から股関節を痛めDL入りし、9月3日のデトロイト・タイガース戦で復帰し、13試合出場。打率.306、OPS.810を記録した。12月20日にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結んだ。 2011年はスプリングトレーニングで21試合に出場し打率.172、OPS.512の成績に終わった。 ロッキーズ傘下時代2011年3月28日にコロラド・ロッキーズへ移籍し、傘下のAAA級コロラドスプリングスで開幕を迎えた。6月下旬までに50試合に出場し、打率.365、11本塁打、OPS1.103、7盗塁の成績を挙げていた。6月23日に読売ジャイアンツが獲得に動いていることが報じられた[1]。6月28日に放出された。 巨人時代2011年7月1日に読売ジャイアンツとシーズン終了までの契約を結んだことを発表[2]。年俸など総額50万ドル(約4000万円)[3]。7月14日に入団会見をした。入団後は打撃不振に陥り8月5日に2軍落ちするも、ラスティ・ライアルが不振や試合放棄で2軍降格したために9月6日に再昇格。9月18日、中日ドラゴンズ戦でエンジェルベルト・ソトからようやく来日初本塁打を放った。その後は左投手相手にスタメンで起用され好成績を残すも、右投手相手には全く打てず10月7日に再び2軍落ち、そのままシーズンを終えた。結局シーズントータルでの成績は打率.202、2本塁打、OPS.553と低調に終わり、契約は更新されず退団となった。 巨人退団後2012年1月4日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。この年はAAA級アルバカーキ・アイソトープスで133試合に出場して打率.322、13本塁打を放った。11月3日にFAとなり、11月16日にフィラデルフィア・フィリーズと契約。 2013年はAAA級リーハイバレー・アイアンピッグスで109試合に出場。11月5日にFAとなった。 2014年はメキシカンリーグのカンペチェ・パイレーツに所属。 2015年もカンペチェ・パイレーツと契約したが、5月6日に解雇となる。 選手としての特徴広角に打球を打ち分け、ポール・コネルコに勝るとも劣らないと評価された長打力を持ち味とする[4]。左投手に強く、2010年までのメジャー通算で右投手には打率.209・OPS.623だが、左投手には打率.293・OPS.957を残している。速球に強いが変化球に弱く[5]、三振の多さとDRSとUZR共に平均を大きく下回る三塁守備を課題としている[6]。左翼手として起用できるか試されたこともあるが、不合格とされた[4]。巨人時代はチーム事情で一塁手を守ることもあった。日本では守備は無難にこなしており、2011年の失策は一塁三塁共に0だった。 大学時代はアメリカンフットボールのクォーターバックとしても活躍した[7]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
|