トッド・ラングレン
トッド・ハリー・ラングレン(Todd Harry Rundgren、1948年6月22日 - )は、アメリカ合衆国、フィラデルフィア出身のミュージシャンである。幅広い音楽活動を行い、グループ名義、ソロ名義の他、他のミュージシャンのプロデュースも含め、非常に多くの作品を発表している。ニュー・カーズにも参加した。 来歴美しく切ないメロディを作り出すメロディメーカーとしてだけでなく、XTCやバッドフィンガー、グランド・ファンク・レイルロード、ジェシ・ウィンチェスターやザ・バンド、他にもホール&オーツなど数々の有名バンド・アーティストのプロデュースを行ったプロデューサーとして、また1970年代という早い段階から、自分ですべての楽器を演奏しヴォーカルをとる自宅録音を行うなど、マルチプレイヤーとしても知られている。 1980年代後半から1990年代前半にかけて、レピッシュなど、日本のアーティストのプロデュースも手がけたこともある。ハワイに在住し、なお精力的に音楽活動を続けている。リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドのメンバーとしてワールドツアーも行っている。 Apple II時代からのApple Computerユーザであり、アップルのコマーシャル映像やイベントなどに登場したこともある。また、Amigaユーザとしても知られ、Video ToasterやLightWave 3Dを駆使して自ら「Change Myself」のPVを作り上げた[2]。 ペンシルヴェニア州アッパー・ダービー(フィラデルフィア近郊)にて、スウェーデン系移民の血を引く父親とオーストリア系(ドイツ系)移民の血を引く母親の間に生まれる。 17歳の時に、フィラデルフィアを中心とする、ポール・バターフィールド・ブルースバンドの影響を受けた、ウッディーズ・トラックストップなるバンドを振り出しに、1967年にベーシストのカーソン・ヴァン・オステン、ドラマーのトム・ムーニー、シンガー兼キーボードのロバート・アントニと共にナッズを結成。ここで「Open My Eyes」や「Hello, It's Me」といった曲を発表し、注目されることになる。 トッドが音楽的に影響を受けたミュージシャンは、イギリスのロック(ローリング・ストーンズ、ビートルズ、ザ・フー、ヤードバーズやザ・ムーヴなど)、そしてアメリカのヴェンチャーズ、ビーチ・ボーイズ、そしてローラ・ニーロなどだった。他にはギルバート・オサリバン、R&Bのギャンブル&ハフやデルフォニックス、オージェイズなども彼に影響を与えた。 この間にナッズとして、1968年に『ナッズ』、1969年に『ナッズ・セカンド』、1971年に『ナッズ・サード』と3枚のアルバムを発表したが、2枚目のアルバムでトッドとカーソンの2人がナッズを脱退。1970年にナッズは解散した。その後、ニューヨークへ渡ったトッドは、ボブ・ディランやジャニス・ジョプリンのマネージャーとして知られるアルバート・グロスマンに拾われ、レコーディング・エンジニアとしてスタジオワークをこなしていくようになる。1972年にはアルバム『サムシング・エニシング』を発表し、同アルバムからシングル「アイ・ソー・ザ・ライト」が全米16位まで上昇するヒットとなった[3]。後にニュー・カーズと共に活動した。
エピソード
日本公演
ディスコグラフィソロ・アルバム
コンピレーション・アルバム
代表曲
主なプロデュース作品
関連作品
書籍
脚注
https://arstechnica.com/gadgets/2016/03/a-history-of-the-amiga-part-9-the-video-toaster/ 関連項目
外部リンク |