ハリカルナッソス(Ἁλικαρνασσός )
カリアの古代都市(トルコ)
ハリカルナッソス (エーゲ海)
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(Bodrum )
ハリカルナッソス (古希 : Ἁλικαρνᾱσσός 、Halikarnassos )は、アナトリア半島 (小アジア)のカリア の南西海岸にあった古代ギリシア都市。現在のトルコのボドルム にあたる。世界の七不思議 のひとつマウソロス霊廟 (紀元前353年から350年に建設)があることで有名だった。アレクサンドロス3世 がアケメネス朝 ペルシアと戦った場所でもある。海岸のすぐ近くに小さな島があり、1404年、ロードス騎士団 がその島にボドルム城 (聖ペテロ城)を建設。その後市街地の拡張による埋め立てなどで島と本土が繋がった。
歴史
建設
ヘロドトス の生誕地がハリカルナッソスであることから、ボドルム に立てられた記念碑
ハリカルナッソス建設については様々な議論があるが、ドーリア人 の植民都市であることはほぼ定説になっており、硬貨にメドゥーサ の頭やアテーナー やポセイドーン や三又の槍が描かれていることから、母都市はトロイゼーン およびアルゴス だとされている。ストラボン によれば、住民は伝説上の建設者を Anthes だとし、Antheadae という呼称を使っていたという。カリア語 碑文に見られる Alos-δ karnos-δ がハリカルナッソスの古代名ではないかとも言われている[ 1] 。
初期のハリカルナッソスは、コス 、クニドス 、リンドス 、カメイロス 、イアリソス と共にドーリア人のヘクサポリス (en ) の1つだった。しかし、ヘクサポリスの競技会で優勝したハリカルナッソス市民 Agasicles が賞品である三脚台をアポローン神殿に奉納せずに家に持ち返ったことから、ハリカルナッソスがその同盟から離脱することになった。紀元前5世紀前半にはカリアのアルテミシア1世 が統治していた。彼女はサラミスの海戦 でアケメネス朝側の指揮官として戦ったことで知られている。その息子で後継者の Pisindalis についてはよく分かっていない。その後ハリカルナッソスを支配したリグダミス は、詩人パニュアッシス を死においやり、ヘロドトス が生まれ故郷のハリカルナッソスを離れる原因を作った(紀元前457年ごろ)。
マケドニアの影響
ハリカルナッソスの紀元前4世紀の要塞の遺跡
その後ハリカルナッソスを支配したピクソダロス は力を強めてきたマケドニア王国 との同盟を目論み、若きアレクサンドロス3世 の嫁として自身の娘を差し出す約束をしたと言われている。しかし、アレクサンドロスの父ピリッポス2世 が反対し、結婚は成立しなかった。アレクサンドロス3世の東征初期の紀元前334年、マケドニア軍はハリカルナッソスでメムノン 率いるペルシア軍と対峙した。要塞を攻略するため掘に細い橋をかけたが、その橋が壊れたため多数の死者が出たという。要塞を攻略できないアレクサンドロス3世は、それを包囲し続けるしかなかった(最終的にマケドニア側が勝利している)。この要塞と掘の遺跡は、今ではボドルムの観光名所となっている。
アレクサンドロス3世はハリカルナッソスの統治をサトラップ を務めていたマウソロス 一家、特にマウソロスの妹アダに任せた。その後間もなく、プトレマイオス1世 がこの地にギュムナシオン を建てており、市民がプトレマイオス1世を称えて柱廊 またはポルチコ を建てた例も見つかっている。ハリカルナッソスはアレクサンドロス3世による包囲攻撃の痛手から完全には回復せず、キケロ はその地をほとんど廃墟だと記している。
発掘と復元
マウソロス像
遺跡はボドルム市内で一部発掘されているが、多くは市街地の下に埋まっている。市壁、神殿、劇場などの位置はほぼ判明している。
マウソロス霊廟 は1857年、C・T・ニュートンが発掘し、その設計がほぼ明らかになっている。おおよそ 35m×28m の大きさで、石壇、周柱、ピラミッド型屋根、クアドリガ などからなり、表面は彫刻を施された大理石で覆われていた。周囲には一連の彫像が並んでいたと見られている。大プリニウス によれば、周柱は36本のイオニア式 の柱が使われていた。柱と柱の間にも彫像が配置されていたと見られている。一部復元された部分には、ギリシア人とアマゾーン の戦いの場面が浮き彫りされている。また等身大の動物や飼育係なども描かれている。周柱と中央の部屋には下から24段の階段で登る。その上にはピラミッド型の屋根がある。
屋根の頂上にはクアドリガ があった。また、マウソロスの像も見つかっており、大英博物館 にある。マウソロス霊廟の復元図は様々なものが提案されている。チャールズ・トーマス・ニュートン らの最初の復元図には各所に間違いがあるとされている。七不思議の1つとして古代から「空中で分断されている」と言われたことを考慮した E. Oldfield の復元図も遺構とは一致しない。現在最も正しいとされているのは、ドイツの考古学者 F. Adler が1900年に発表した復元図だが、その後も研究は続いている。
主な著名人
脚注
^ Adiego, Ignacio J (2007). The Carian Language . Brill. ISBN 9004152814 (228、244、351ページほか。279、319ページによると-δは奪格 語尾かという)
参考文献
CT Newton and RP Pullan, History of Discoveries at Halicarnassus (1862—1863)
J Fergusson, The Mausoleum at Halicarnassus restored (1862)
E Oldfield, "The Mausoleum," in Archaeologia (1895)
F. Adler, Mausoleum zu Halikarnass (1900)
JP Six in Journ. Hell. Studies (1905)
WB Dinsmoor in Amer. Journ. of Arch. (1908)
JJ Stevenson, A Restoration of the Mausoleum of Halicarnassus (1909)
JBK Preedy, "The Chariot Group of the Mausoleum," in Journ. hell. Stud. , 1910.
外部リンク
座標 : 北緯37度02分16秒 東経27度25分27秒 / 北緯37.03778度 東経27.42417度 / 37.03778; 27.42417