ホルローギーン・チョイバルサン (モンゴル語 :ᠬᠣᠷᠯᠤᠠ ᠶ᠋ᠢᠨ
ᠴᠣᠢᠢᠪᠠᠯᠰᠠᠩ 、Хорлоогийн Чойбалсан 、Khorloogiin Choibalsan、光緒 21年1月14日 (1895年 2月8日 ) - 1952年 1月26日 )は、モンゴル の革命家 、軍人 、政治家 。
生涯
生い立ち
遊牧民 の子として生まれ、幼くしてチベット仏教 の僧院に入るも脱走した。
クーロン(庫倫、現ウランバートル )のロシア 領事館付属学校に入学し、1914年 にロシアのイルクーツク に留学。
1918年 に帰国して独立運動に参加、1920年 にボドー、ダンザン、ドクソム、スフバートル らと共にソ連への使節団として派遣され、モンゴル人民党 (後のモンゴル人民革命党 )の結成に携わる。
権力の掌握
1924年 のモンゴル人民共和国 成立後は国家小会議議長に、1929年 に人民委員会主席に、1936年 に内相に、1937年 9月に全軍総司令官、同年12月、首相代理に任命され、1939年 から1952年 に没するまで首相兼外相を務めた。
1935年 から1938年 にかけて上級ラマ僧による多数の反乱が起こった。これに対し内務大臣だったチョイバルサンは2000人以上の上級ラマ僧を処刑した。また、1936年 から1938年 にかけて大規模な粛清を行い、「モンゴルのスターリン 」とも呼ばれた。多くの党や政府の幹部、知識人、党員などが「日本 のスパイ 」などの不当な罪を着せられて処刑され、革命以来親ソ派を貫いてきたチョイバルサンが権力を掌握するようになった[ 1] 。
1936年、ソ連 と相互援助議定書 を締結して赤軍 の駐留を認め、ソ連の衛星国 としてのモンゴルの立場を築くとともに同年に内務大臣として秘密警察 を創設、1937年に全軍総司令官に就いて自国軍の近代化を推し進めた。1939年 のハルハ河戦争 では赤軍の支援を得て満州国 との国境紛争で日本軍 (関東軍 )に勝利した。
また、第二次世界大戦 末期の1945年 8月9日 に始まったソ連の対日宣戦 では、条約にもとづき翌8月10日 に日本に宣戦布告をして満州や内モンゴルに侵攻し、ソ連軍の勝利に貢献するとともにモンゴル人民共和国の国際的認知の第一歩を記した。この布告書には「モンゴル人が統一国家となるため」とあり、同年8月10日 のラジオ放送では「本日政府の命令に基づいて、我が軍は越境し、内モンゴル地域に速やかに進攻した。これは血を分けた内モンゴルを解放し、自由を獲得するためである」と汎モンゴル主義 を訴える演説した[ 2] 。この呼びかけは満州国軍 (興安軍 )や内蒙軍の背反逃亡[ 3] 、内モンゴル人民共和国 や東モンゴル自治政府 などの樹立、後には蒙古聯合自治政府 の主席だったデムチュクドンロブ (徳王)の亡命[ 4] を満州や内モンゴルに引き起こすことになる。当初のチョイバルサンは外モンゴルをゴンチギン・ブムチェンド (英語版 ) 、内モンゴルをデムチュクドンロブに任せて自身は全モンゴルの統治者となることを考えていた[ 5] 。ソ連軍が内蒙古に投入した師団は1個だったのに対してモンゴル軍は4個もの師団を派遣して内蒙古東部から内蒙古西部まで進駐していたが[ 6] 、占領した内蒙古を放棄する代わりに中華民国 にモンゴル人民共和国の独立承認を迫ったスターリンによって内外モンゴル統一は実現せず、占領地のソニド右旗 を慰問で訪れたチョイバルサンは中国共産党 との連携を指示[ 7] したことでウランフ が内モンゴルを支配することになった。この際に得られた日本軍や民間人の捕虜はモンゴル国内での強制労働 にも使役され(シベリア抑留 )、多くの犠牲者を出した。
戦後の1945年10月20日には外モンゴル独立公民投票 を行ってほぼ100%の賛成率を演出し、1946年 には中華民国 にモンゴルの独立を認めさせるも翌年の1947年 の北塔山事件 では中華民国軍と新疆で武力衝突するなど摩擦が続き、中国との国交樹立は1949年 の中華人民共和国 成立まで待つことになる[ 8] (台湾 に逃亡した中華民国は独立の承認を撤回)。
死去
1951年 の暮れ、再三断り続けていたスターリンの誕生日の式典に参加するようにとの招待を受けてモスクワ へ向かった。
翌年1月26日に同地で病死した。チョイバルサンの死は年老いたスターリンを心配させ、「シチェルバコフ (英語版 ) 、ジダーノフ 、ディミトロフ 、チョイバルサン…彼らはわずかの間に次々と亡くなっている。我々は古い医者を新しい医者と交換しなくてはならない[ 9] 」と発言した。医者の陰謀に対するソビエトの捜査で逮捕された者たちは、チョイバルサンや他にもスターリンが指摘した者たちをスターリン自身の主治医に率いられたクレムリンの医者が実際に暗殺したことを「証明する」ための「証拠」を、拷問 によって作り出すことが強制された[ 10] [要校閲 ] 。
なお、チョイバルサンの妻はロシア人 であり、チョイバルサンの死後早々にロシアに帰国した。
歴史的評価
モンゴル国立大学のチョイバルサン像
社会主義 政権崩壊後の現在でも、チョイバルサンに対する評価はスターリンの大粛清 に加担して自らの個人崇拝 も強いた独裁者 であるも[ 11] [ 12] 、戦争に勝利し独立を維持してからの諸外国からの国家承認と国際連合 加盟の基礎を築き、モンゴル国立大学 の創設と識字率の向上に代表される教育政策やモンゴル縦貫鉄道 建設のようなインフラ整備など国内の近代化を推し進めた点で必ずしも低くないという[ 13] 。モンゴル国立大学には今も彼の銅像が建っている。
モンゴル東部にある生誕地のドルノド県 バヤン・トゥメンは、彼の名を冠して首府チョイバルサン市 に改称された。
脚注
^ 小貫雅男『モンゴル現代史』山川出版社、1993年9月20日、217,220,225,226頁。ISBN 4-634-42040-6 。
^ Arad-un sonin, No.1, Vang-un süm-e, 1945.11. 13.
^ 佐々木健悦『徳王の見果てぬ夢 南北モンゴル統一独立運動』183-185頁、2013年、社会評論社 ISBN 978-4-7845-1349-9
^ 佐々木[2013:154]
^ ビレクト・ブレンバヤル『脱南者が語るモンゴルの戦中戦後1930〜1950』社会評論社、201頁
^ 二木博史等訳・田中克彦監修「モンゴル史」2、恒文社、1988年「日本帝国主義へのモンゴル人民共和国の参加(1945年)」〔地図11〕
^ 札奇斯欽「我所知道的徳王和當時的内蒙古」(1993年)138頁
^ China-Mongolia Boundary (PDF). International Boundary Study (The Geographer, Bureau of Intelligence and Research ). August 1984, (173): 2–6 [2008-06-16] .
^ サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ , Stalin: The Court of the Red Tsar , Orion Books Ltd, London, 2004, 634頁
^ 同書 636頁
^ Baabar (1999). History of Mongolia. Cambridge: Monsudar Publishing. p. 348. ISBN 99929-0-038-5 .
^ Lattimore, Owen (1962). Nomads and Commissars: Mongolia Revisited. Oxford University Press. p. 148. ISBN 1-258-08610-7 .
^ Atwood, Christopher P. (2004). Encyclopedia of Mongolia and the Mongol Empire. New York: Facts on File inc. p. 103. ISBN 0-8160-4671-9 .
関連項目