ボブ・ミューゼルBob Meusel
ボブ・ミューゼル(1921年)
基本情報 国籍
アメリカ合衆国 出身地
カリフォルニア州 サンノゼ 生年月日
(1896-07-19 ) 1896年 7月19日 没年月日
(1977-11-28 ) 1977年 11月28日 (81歳没) 身長 体重
6' 3" =約190.5 cm 190 lb =約86.2 kg 選手情報 投球・打席
右投右打 ポジション
右翼手 、左翼手 プロ入り
1917年 初出場
1920年4月14日 最終出場
1930年9月26日 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
ロバート・ウィリアム 「ボブ」 ミューゼル (英語 : Robert William "Bob" Meusel , 1896年 7月19日 - 1977年 11月28日 )は、アメリカ合衆国 のプロ野球選手 (外野手 )。メジャーリーグベースボール (MLB)で1920年 から1930年 までプレーしたが、このうち最終シーズン を除く10シーズンはニューヨーク・ヤンキース に所属した。「殺人打線 (英語版 ) 」(マーダラーズ・ロウ)の異名をとる。
ミューゼルはストロングアーム(強肩 )の外野手として有名で、アメリカ野球殿堂 入りを果たしたベーブ・ルース とルー・ゲーリッグ に続く5番を打っていた[ 1] 。彼は1925年 に33本塁打 ・138打点 の成績を残し、ルースに続きヤンキース史上2人目となるアメリカンリーグの打撃二冠王を達成した。このシーズンは長打 数79もリーグトップであった。身長が6フィート 3インチ (191cm)であったことから、"Long Bob" (ロング・ボブ)の愛称 で親しまれた。キャリアの最初の8シーズンのうち7シーズンで打率 .313以上を記録しており、1920年代に記録した1005打点 はこの年代にプレーしたメジャーリーガーの中で4位に位置し、アメリカンリーグの右打者の中ではハリー・ハイルマン の1131打点に次ぐ。通算打撃成績は打率 .309・1067打点・156本塁打である。1930年はシンシナティ・レッズ でプレーし、このシーズン限りで現役を引退した。彼は史上2人目となるサイクル安打 3度の偉業も成し遂げている。
兄のアイリッシュ・ミューゼル (英語版 ) (エミル・ミューゼル)は同時期にナショナルリーグ 、おもにニューヨーク・ジャイアンツ でプレーした外野手である[ 1] 。この兄弟はワールドシリーズ で1921年 から3年連続で敵味方として対決した[ 2] 。
経歴
生い立ち
アメリカ合衆国 のカリフォルニア州 サンノゼ に父チャーリーと母メアリーの6人兄弟の末子として生まれた[ 3] 。兄のエミル・ミューゼルはその見た目から「アイリッシュ」の愛称 (アイリッシュ・ミューゼル (英語版 ) )で呼ばれたが、兄弟はアイルランド系アメリカ人 ではない。祖父母がドイツ 出身のドイツ系アメリカ人 である[ 4] 。
幼少期にロサンゼルス に引っ越し、ロサンゼルス高校 (英語版 ) に通った。ミューゼルは1917年 にパシフィックコーストリーグ のバーノン・タイガース (英語版 ) でプロ野球選手 としてのキャリアをスタートさせた。第一次世界大戦 中にアメリカ海軍 に従軍し、海軍野球チーム (英語版 ) にも所属していた[ 5] 。タイガースに復帰した1919年 には打率 .330を記録した。マイナーリーグ にいた時期は本職の外野手だけでなく、三塁手 でも出場していた[ 6] 。
1921年12月14日にイーディス・コーワンと結婚した[ 7] 。
現役時代
ミューゼルは1920年 初めにメジャーリーグベースボール (MLB)のニューヨーク・ヤンキース と契約を交わした[ 8] 。スプリングトレーニング が終わり、ミューゼルはのちにアメリカ野球殿堂 入りを果たす三塁手のフランク・ベーカー に取って代わった[ 9] 。1920年4月14日にMLBデビューを飾り、このシーズン は119試合に出場して打率.328・11本塁打 ・83打点 という成績を残した[ 10] 。
1921年 はシーズン154試合のうち149試合におもに右翼手 として出場して打率.318・24本塁打(アメリカンリーグ 2位)・136打点(同3位)の成績でシーズンを終えた[ 10] [ 11] 。また、5月7日にはワシントン・セネタース に勝利した試合でサイクル安打 を達成し、9月5日のダブルヘッダー の2試合目では4補殺 というMLBタイ記録を達成した。さらに、セントルイス・ブラウンズ のジャック・トービン (英語版 ) の28補殺という外野手のリーグ記録に並び、リーグ最高のユーティリティプレーヤー の1人とされた[ 12] 。ミューゼルの兄のアイリッシュはフィラデルフィア・フィリーズ からニューヨーク・ジャイアンツ にシーズン中に移籍して優勝に貢献した。ボブとアイリッシュのミューゼル兄弟はジャイアンツが彼らの球場を借りているヤンキースと戦った1921年のワールドシリーズ で、敵味方に分かれて対戦した(当時のヤンキースはホームゲームをポロ・グラウンズ で行っていたが、この球場はジャイアンツが所有していた)。このシリーズの第3戦で、ボブ・ミューゼルは本塁への盗塁 を決めた[ 1] 。第5戦には二塁打 を放ちベーブ・ルース を生還させ、これが決勝打となりヤンキースは1つ勝ち越したが、その後3連敗を喫して敗退した(9戦5勝制の最後のワールドシリーズ であった)[ 11] 。ワールドシリーズ8試合の打率はわずか.200に終わった[ 10] 。
同じ時期に、ミューゼルとビル・ピアーシー (英語版 ) 、ベーブ・ルースは地方巡業 (英語版 ) に参加する契約を交わして試合にも出場したが、これは当時の野球規則に違反しており、さらにミューゼルとルースは前に参加しないように警告されていた。罰則として、初代MLBコミッショナー のケネソー・マウンテン・ランディス は1922年 の最初の5週間分の出場停止 処分を科し、彼らのワールドシリーズの賞金3,362ドル (今日では61,198ドルにあたる)をそれぞれの罰金として没収した[ 13] 。このシーズンはわずか121試合の出場にとどまり、打率.319・16本塁打・84打点の成績に終わった[ 10] 。ルースが右翼を守るために左翼手で出場することが多くなった。ヤンキースがロードで試合をする時には、太陽光 でルースの守備に影響が出るので、ときどきミューゼルは右翼手でプレーした[ 14] 。出場試合は減ったが、24補殺で再びリーグトップとなった。また、7月21日のデトロイト・タイガース に勝利した試合では2度目のサイクル安打を達成した。ヤンキースは何とか2年連続でのリーグ優勝を果たしたが、1922年のワールドシリーズ では5試合戦って再びジャイアンツに敗れた。シリーズでミューゼルはチームトップの打率.300を記録した[ 15] 。
1922年3月、ブラックソックス事件 後の球界をリードしたベーブ・ルース (左)、ケネソー・マウンテン・ランディス (中)と
1923年10月10日、兄のアイリッシュ・ミューゼル (英語版 ) (左)と
ヤンキースが新しい球場のヤンキー・スタジアム に本拠地を移した1923年 は打率.313・9本塁打・91打点という成績だった[ 10] 。このシーズンのミューゼルは3年連続となるジャイアンツとのワールドシリーズ で両チーム最多の8打点を挙げ、ヤンキース史上初のワールドシリーズ制覇に貢献した。ポロ・グラウンズで行われた第4戦では2回に2点三塁打 で勝利に貢献し、第5戦で5打点を挙げ、第6戦でもチームを勝利へ導く2点適時打 を放った[ 16] 。
1924年 のシーズン前には、ミューゼルの親友であるボストン・ブレーブス 所属の遊撃手 、トニー・ボーケル (英語版 ) がサンディエゴ で発生した、乗っていた自動車 が横転する事故で亡くなった。ミューゼルも同乗していたが、怪我は無かった[ 17] 。このシーズンは143試合に出場して打率.320・12本塁打・120打点という成績だった。6月13日の対タイガース戦で、野球史で最も悪名高い乱闘 の一つが発生した。ヤンキースが10-6でリードして迎えた9回表の攻撃で、タイガースのスター選手であり監督 でもあったタイ・カッブ が投手のバート・コール (英語版 ) に死球 をミューゼルに与えるようサインを出した。ルースはサインを見てミューゼルに警告したものの、ミューゼルの背中に死球が当たり、コールに走って詰め寄った。カッブとルースも含めた両チームはフィールドに駆け出して乱闘が始まった[ 18] 。1,000人以上のファンもフィールドに飛び出し暴動が起きた。警察は何とか暴動を収め数人のファンを逮捕した。この試合の主審であったビリー・エバンス は安全のためミューゼルとルースをネビン・フィールド の外に連れ出した[ 19] 。アメリカンリーグ会長のバン・ジョンソン はミューゼルとコールに罰金と10試合の出場停止処分を科した[ 20] 。
1925年 はキャリアハイの成績を記録した。156試合に出場して33本塁打・138打点・長打 数79はリーグトップだった。本塁打王・打点王の二冠に輝いたにもかかわらず、アメリカンリーグの最優秀選手 投票では18位タイと、受賞した元ヤンキースでワシントン・セネタース 所属のロジャー・ペキンポー に遠く及ばなかった。ヤンキースにとっては1920年代最悪のシーズンとなり、69勝85敗のリーグ7位でシーズンを終えた。翌1926年 のミューゼルは108試合出場にとどまり、打率.315・12本塁打・81打点という成績だった[ 10] 。 セントルイス・カージナルス との1926年のワールドシリーズ では、ミューゼルは第7戦の4回に1アウト 満塁 で飛球 を落球し、カージナルスに1-1の同点に追いつかれ、次の打者に2点適時打を打たれた[ 21] 。ミューゼルにはその後に挽回するチャンスがあったものの、両打席とも2人の走者を置いた5回と7回に内野ゴロ でアウトとなった。ヤンキースが2-3で追う9回裏にはカージナルスの先発ピート・アレクサンダー が2人をアウトにすると、ルースに四球 を与え、ミューゼルが打席に立ったが、ルースが盗塁を試みて捕手のボブ・オファレル に刺され、試合終了と同時にシリーズも終わった。このシリーズをミューゼルは打率.238で終えた[ 22] 。
ミューゼルは史上最高の野球チームはどこかという議論で真っ先に挙がる1927年 のニューヨーク・ヤンキースの主力メンバーとして活躍した[ 23] 。このシーズンは135試合に出場して打率.337・8本塁打・103打点、リーグ2位の24盗塁という成績だった[ 10] 。5月16日には二盗、三盗、本盗を1試合で達成した。1927年のワールドシリーズ ではミューゼルは打率.118で、7戦4勝制における三振 記録を作ったが[ 24] 、ヤンキースはピッツバーグ・パイレーツ を4連勝で破り、ワールドチャンピオンに輝いた。1928年 のミューゼルは131試合に出場して打率.297・11本塁打・111打点という成績だった[ 10] 。彼は最多記録タイとなる3度目のサイクル安打を7月26日の対タイガース戦で達成した[ 25] 。ヤンキースは3年連続でワールドシリーズ に進出し、2年前と同じカージナルスと対戦した。ミューゼルは第1戦でワールドシリーズにおける自身唯一の本塁打を放ち、ヤンキースは昨年に続き4連勝でワールドチャンピオンに輝いた[ 26] 。
ミューゼルは1930年 のシーズン開始前にヤンキースからシンシナティ・レッズ に移籍。シーズンでは110試合に出場して打率.289・10本塁打・69打点という成績だった[ 10] 。シーズン後にレッズはミューゼルを放出し、彼はマイナーリーグAAA級にあたるアメリカン・アソシエーション (英語版 ) のミネアポリス・ミラーズ (英語版 ) で1931年 のシーズンを過ごし、打率.283を残した[ 27] 。1932年 にはパシフィックコーストリーグに戻り、ハリウッド・スターズ (英語版 ) で64試合に出場して打率.329・4本塁打の成績で現役を引退した[ 28] 。
ミューゼルのMLB通算成績は368二塁打・94三塁打・156本塁打・長打率 .497・1067打点・826得点 ・140盗塁である。彼の持つヤンキースの右打者球団記録の多くは1930年代中盤にトニー・ラゼリ によって破られたが、打率、長打率、二塁打数の記録はジョー・ディマジオ が1940年代後半に破った。
引退と死
野球選手を引退した後、ミューゼルはアメリカ海軍基地の警備員を15年務めた[ 3] 。
「この世(地球上)で最も幸せな男」のスピーチで有名な1939年 7月4日 のルー・ゲーリッグ の引退セレモニーに、元チームメイトの1人として出席した[ 29] 。また、1927年製作の映画『滑れケリー (英語版 ) 』、1942年 製作の映画『打撃王 』、1948年 製作の映画『ベーブ・ルース物語 (英語版 ) 』にいずれも自分自身の役でカメオ出演 している[ 30] 。『打撃王』で身なりのいい2人の選手が(他の人に続いて)突然歩き出す場面があるが、中折れ帽 を被り、タバコ を吸っている背の高い方がミューゼルである。ミューゼルはウォーリー・ピップ が複視のために試合を降りる時にも登場する。彼はこの時に、ダグアウト 内でベーブ・ルースの真後ろにいて身体を傾けている[ 7] 。
ボブ・ミューゼルは1977年 11月28日 にカリフォルニア州ダウニー にある自宅で自然死し、遺体は同州ウィッティア のローズヒルズ記念公園 (英語版 ) に埋葬 された[ 7] 。
後年の評価
ボブ・ミューゼルは1927年にベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、トニー・ラゼリ、アール・コームス (いずれもアメリカ野球殿堂入り)らとともに、伝説の強力打線 「殺人打線 (英語版 ) 」(マーダラーズ・ロウ)を形成した[ 7] 。また、ロング・ジョン・ライリー (英語版 ) (1890年)、ベーブ・ハーマン (1933年)、エイドリアン・ベルトレ (2015年)と並ぶMLBタイ記録のサイクル安打3度を記録している[ 31] 。
カール・フリーロ (英語版 ) 、ウィリー・メイズ 、ロベルト・クレメンテ 、イチロー と並び称されるほどの歴代屈指のストロングアーム(強肩 )の持ち主でもあった[ 7] 。『ニューヨーク・タイムズ 』は訃報記事において、彼の送球 は「百発百中」の精度だったと評した[ 1] 。1921年から1923年までニューヨーク・ジャイアンツを率いたケーシー・ステンゲル は彼以上の素晴らしい送球をする者にはお目にかかれていないと話していた[ 1] 。
ハーヴェイ・フロンメルはその著書の中でミューゼルはチームメイトとの仲が悪く、酒豪で女たらしだったと説明している。監督のミラー・ハギンス は「無関心」と形容していた[ 32] 。しかしながら、ベーブ・ルースとはその対照的な性格にもかかわらず、仲が良かったという[ 7] 。静かで控えめな性格の彼は選手生活の終わり近くまで、新聞のインタビューにもめったに応じなかった[ 33] 。ゴロを打った後に全力疾走することを拒否するなど、怠惰な態度を取ることでも有名だった[ 34] 。
1982年 にベテランズ委員会 によってアメリカ野球殿堂入り候補者の1人に指名されたが、元コミッショナーのハッピー・チャンドラー と元ジャイアンツ遊撃手 のトラビス・ジャクソン が投票で選ばれた[ 35] 。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
1920
NYY
119
494
460
75
151
40
7
11
238
83
4
4
12
--
20
--
2
72
--
.328
.359
.517
.876
1921
149
647
598
104
190
40
16
24
334
138
17
6
12
--
34
--
2
88
--
.318
.356
.559
.915
1922
121
524
473
61
151
26
11
16
247
88
13
8
11
--
40
--
3
58
--
.319
.376
.522
.898
1923
132
503
460
59
144
29
10
9
220
91
13
15
10
--
31
--
2
52
--
.313
.359
.478
.837
1924
143
630
579
93
188
40
11
12
286
124
26
14
14
--
32
--
5
43
--
.325
.365
.494
.859
1925
156
697
624
101
181
34
12
33
338
134
13
14
17
--
54
--
1
55
--
.290
.348
.542
.889
1926
108
474
413
73
130
22
3
12
194
78
16
17
23
--
37
--
1
32
--
.315
.373
.470
.842
1927
135
582
516
75
174
47
9
8
263
103
24
10
21
--
45
--
2
58
--
.337
.393
.510
.902
1928
131
577
518
77
154
45
5
11
242
113
6
9
18
--
39
--
2
56
--
.297
.349
.467
.816
1929
100
414
391
46
102
15
3
10
153
57
2
5
5
--
17
--
0
42
--
.261
.292
.391
.683
1930
CIN
113
484
443
62
128
30
8
10
204
62
9
--
14
--
26
--
1
63
--
.289
.330
.460
.790
通算11年
1407
6026
5475
826
1693
368
95
156
2719
1071
143
102
157
--
375
--
21
619
--
.309
.356
.497
.852
タイトル
記録
サイクル安打 :3回(1921年5月7日、1922年7月3日、1928年7月26日) - MLB最多タイ記録
背番号
出典
関連項目
参考文献
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外部リンク
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