ビルマの初代マウントバッテン伯爵 ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン (Louis Francis Albert Victor Nicholas Mountbatten, 1st Earl Mountbatten of Burma、1900年 6月25日 - 1979年 8月27日 )は、イギリス の海軍軍人 、貴族 。最終階級は海軍元帥 。改名前の姓はバッテンバーグ (バッテンベルク、Battenberg)。
生涯
生い立ち
祖先はドイツ貴族バッテンベルク家 で、Battenbergを英語風に発音するとバッテンバーグとなる。1900年 6月25日 、初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン (バッテンバーグ)とヴィクトリア の子(次男)として、ウィンザー のフロッグモア・ハウス(en )で生まれた。幼少時には「ディッキー」もしくは「リチャード」と呼ばれていた。
軍歴
人力車 夫に扮したマウントバッテン(写真右。名入り法被 )、エドワード8世 (写真中央。髙島屋 呉服店配達部の法被/ 1922年)
1913年 にオズボーン海軍幼年学校 (英語版 ) に入校し、第一次世界大戦 勃発後の1916年 7月には16歳で「ライオン 」に配置された。その後8月には「クイーン・エリザベス 」に乗務している。なお1917年 には、ドイツ風のバッテンバーグ(Battenberg)から、イギリス風の「マウントバッテン」に改名している。
その後は「レナウン 」や「レパルス 」に乗務した。「レパルス」時代には、第一次世界大戦時に一緒に戦った同盟国 の日本 や、植民地のイギリス領インド帝国 などを訪れている。
中将
32歳の時、プリンス・オブ・ウェールズ (後のエドワード8世→ウィンザー公 )と同格の三軍中将 (格)に任ぜられた[疑問点 – ノート ] 。実際、戦闘の面では大いに不安があったが、マウントバッテンが発揮したのは、結果的には戦闘面よりもそれ以外の面であった。
第二次世界大戦
「HMSケルビン」に乗務するマウントバッテン(1939年)
1939年9月に第二次世界大戦 が勃発するや志願して現役 に復帰し [疑問点 – ノート ] 、海軍大佐 に任ぜられた。第5駆逐艦戦隊(5th Destroyer Flotilla)の司令(Captain (D))として駆逐艦 「HMSケリー 」に乗り、同艦が1941年のクレタ島の戦い で沈没するまで勤務した。この期間中、彼はマウントバッテンピンク という迷彩を考案している。イラストリアス (空母・初代) 修理のためアメリカに渡った際、真珠湾 を訪問。旅順口攻撃 とタラント空襲 を引用し、基地が航空機の攻撃に対して準備不足であると指摘している[ 1] 。
1942年8月19日にはノルマンディー上陸作戦 のリハーサルとも言うべきディエップ港奇襲作戦 を指揮。作戦そのものは大損害を蒙ったものの、後年「ディエップでひとりが戦死したために、Dデー では10人が助かった」と回想している。
バイティング作戦
イギリス はドイツの早期警戒レーダー「フライヤ 」と標定レーダー「ヴュルツブルク 」の2本立てのレーダー技術の情報をつかみドイツが自国よりレーダー技術が進んでいると考え(実際はイギリスの方が進んでいた)レーダー重要部分の強奪を考えた。
これによりバイティング作戦 (英語版 ) がルイス・マウントバッテンにより立案された。地上レーダーは持ち込まれることがないため困難であり敵地へ突入する必要があったが、1942年 2月27日 から28日に作戦は実行され、ヴュルツブルクの心臓部入手とヴュルツブルク操作員1名通信兵1名の捕虜を確保し、ドイツのレーダー技術の実情と詳細を把握できた[ 2] 。
戦時会議
「カイロ会議」に出席したマウントバッテン(後列右から2番目/ 1943年)
1943年 1月には、イギリスのウィンストン・チャーチル 首相 とアメリカ のフランクリン・ルーズベルト 大統領が、連合国軍のイタリア 上陸作戦についての戦略について会談する「カサブランカ会談 」に出席した。
また、11月22日 からエジプト のカイロ で、チャーチル首相とアメリカのルーズベルト大統領、蔣介石 主席による、対日戦と戦後の方針を決めるための首脳会談 「カイロ会談 」に連合軍東南アジア軍司令官として出席した[ 3] 。12月1日 に発表された「カイロ宣言」における対日方針は、その後連合国 の基本方針となり、ポツダム宣言 に継承された。
ビルマの戦い
1943年8月に創設された東南アジア地域連合軍(SEAC)の総司令官に就任。補佐のヘンリー・パウノル 参謀長と共にビルマの戦い などで日本軍 との戦いの指揮を執った[ 4] 。この際に連絡将校としてマラヤ統一戦線との窓口になっていたのがマラヤ共産党 の指導者陳平 である。陳平はマウントバッテンとの交流から、大英帝国の敵でありながらイギリスから叙勲されている。
戦線は停滞していたが日本軍はインパール作戦 に失敗、1944年イラワジ会戦 を皮切りイギリス軍が攻勢に転じる。1945年5月アウンサン と会談し、ビルマ国民軍が連合軍の指揮下に入ることに合意した[ 5] 。
マレー とシンガポール の奪回へ向けて「ジッパー作戦 」を計画していたが、日本の降伏 によりマウントバッテンは全ての作戦の中止を命令した[ 6] 。
SEAC時代には情報戦 を駆使した戦術を多用し、戦闘を進める一方で、戦後処理の方策も同時に研究させていた。日本の降伏後、イギリスの手に戻ったシンガポール のシティ・ホールで第7方面軍 司令官板垣征四郎 を引見して降伏文書を交わしている。
1946年に帰国後、ガーター勲章 が授与され、8月にはビルマのマウントバッテン子爵 に叙せられた[ 7] 。
インド総督
ロンドン ・ケンジントン宮殿 のマレー人 の兵士を閲兵するマウントバッテン卿(1946年)
ネルーとジンナーと話すマウントバッテン(1947年)
晩年のマウントバッテン(1976年)
日本軍が速やかに撤退した東南アジア方面の処理が一段落した後、インド 副王兼総督 に転じる。第二次世界大戦において本土がドイツ軍の空襲にさらされ、マレー やシンガポール 、ビルマや香港 などの植民地を日本軍に奪われ、疲弊したイギリスは戦勝国となったものの、もはやかつてのように遠方の植民地 を統治する国力は残っていなかった。さらに1946年 にイギリス植民地政府が行った、インド国民軍 裁判に反発するインド人の暴動などを経て、すでにインド独立は確定していたものの、宗教 を理由とする民族対立が激化しつつあった。
マウントバッテンは本国から「インドの統一を保ち撤退せよ」との命を帯びてインドに赴任したが、マハトマ・ガンディー 、ジャワハルラール・ネルー 、ムハンマド・アリー・ジンナー ら指導者との会談を重ねていくうちに民族及び宗教 対立の現実を目の当たりにし、イスラム教徒 でパキスタン の分離を唱えるジンナーにやや押し切られる形で1947年 のインド・パキスタン分離独立 への道筋をつけた。分離独立後はインド連邦 総督に横滑りし、1948年 6月21日 にチャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー に座を譲るまで在任した[ 8] 。
インド総督としての役目を終えイギリスに帰国した後は、イギリス海軍の地中海艦隊 司令長官 や第一海軍卿 、国防参謀総長 (Chief of the Defence Staff[ 註釈 1] )などのイギリス軍の要職を歴任した。退役 後は維持費捻出のために自宅を一般公開した。
クーデター計画関与
元MI5 のピーター・ライト は1987年の著書『スパイキャッチャー』(Spycatcher )において、「1968年にデイリー・ミラー 紙社主のセシル・キング や30人に及ぶMI5職員らによる、ハロルド・ウィルソン 首相率いる労働党 内閣を倒す秘密会合が開かれ、マウントバッテンも出席した」と暴露した。「キングはマウントバッテンに救国内閣の指導者となることを求めたが、マウントバッテンの躊躇によりクーデターは未遂に終わった」と述べた[ 9] 。 一方で、アンドリュー・ロウニー は「女王(エリザベス2世 )がマウントバッテンを説得して思いとどまらせた」と示唆している[ 10] 。
2006年のBBC(英国放送協会 )のドキュメンタリー番組「The Plot Against Harold Wilson 」では、「1974から1976年の第2次ウィルソン内閣期にも、マウントバッテンを含んだ別のクーデターの計画があった」と報じた。軍とMI5内の同調者がウィルソンをマウントバッテンに代える計画であった[ 11] 。
MI5の最初の公式の局史である「The Defence of the Realm 」(2009年)は実際にウィルソンに対する計画が存在し、そのファイルがMI5に存在していたことを示している。同時に同書は「計画が局公式のものではなく、少数の職員により立案されたものだ」と明言している[ 12] 。
IRA暫定派による暗殺
ロムジー修道院 にあるマウントバッテン卿の墓所
1979年 8月27日 に、休暇中のアイルランド 北西部のドネゴール湾 において、ヨット で出航直後、IRA暫定派 の仕掛けた爆弾が爆発し、孫たちと共に死亡した。79歳没。
実行犯は終身刑となった。生存者の証言によると爆弾はエンジンに仕掛けられており、操船していたマウントバッテンは即死状態だった。マウントバッテンは「私のような年寄りに何をするというのかね?」とIRA暫定派からの攻撃が自分らには及ぶまいと高を括っていたのか、大した護衛もつけていなかったという。
なお、このマウントバッテンの死に最もショックを受けたのが、幼少時から慕っていた上に、当時イギリス海軍士官 であったチャールズ皇太子 だった。マウントバッテンの死の翌年に知り合い、生前のマウントバッテンの事について語り合った相手がダイアナ・スペンサー で、2人はその翌年の1981年 に結婚している(1996年 離婚、1997年 ダイアナ妃は交通事故により死亡、2005年 チャールズはカミラ・シャンド と再婚)。
葬儀にはオランダ やベルギー 、デンマーク など、第二次世界大戦でともに戦ったヨーロッパ 諸国の王族や、ビルマ、インド、米国、フランス、カナダの代表者が参加したが[ 13] 、本人の遺言により、かつて戦った日本人 への招待はなかった[ 14] 。
逸話
家系
初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵 ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン の子(次男)で、ヴィクトリア女王 の曾孫(祖母アリス がヴィクトリア女王の次女)。ドイツ のバッテンベルク家 出身。
姉の一人にアリス・オブ・バッテンバーグ がおり、エディンバラ公フィリップ (エリザベス2世 の夫でチャールズ3世 の父)の叔父にあたり、イギリス王室 とも縁戚関係にある。
栄典
ガーター勲章 勲爵士(KG)、バス勲章 ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCB)、メリット勲章 勲爵士(OM)、インドの星勲章 ナイト・グランド・コマンダー勲爵士(GCSI)、ロイヤル・ヴィクトリア勲章 ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCVO)、殊功勲章 受勲者(DSM)、枢密顧問官 (PC)、王立協会フェロー (FRS)など[ 20] 。
登場する作品
映画
テレビドラマ
脚注
註釈
^ イギリスにおいて (Chief of the General Staff (United Kingdom) ) は、陸軍総参謀長を指す。
^ 彼の肩書を含んだ正式名は、『初代ビルマのマウントバッテン伯爵 ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン,KG GCB OM GCSI GCIE GCVO DSO FRS PC LLD DSC AMIEE (英語版 ) AMRINA (英語版 ) 』。
^ エドウィナ・マウントバッテン#インド総督夫人 を参照。
出典
参考文献
アーイシャ・ジャラール 著、井上あえか 訳『パキスタン独立』勁草書房 、1999年9月。ISBN 4-326-39897-3 。
リチャード・オルドリッチ"Intelligence and the War against Japan"2000
関連項目
外部リンク