ヴィクトリア・マウントバッテン (Victoria Alberta Elisabeth Mathilde Marie Mountbatten, Marchioness of Milford Haven, 1863年 4月5日 - 1950年 9月24日 )は、初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵 ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン の夫人。結婚前の名はヴィクトリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(Victoria von Hessen-Darmstadt)。[ 1]
生涯
1871年、ヴィクトリア
ヘッセン 大公ルートヴィヒ4世 と最初の妃であるイギリス 王女アリス の長女として、ウィンザー城 で生まれた。 名前であるヴィクトリア・アルベルタ・エリーザベト・マティルデ・マリーは、それぞれ伯父アルバート・エドワード(のちのエドワード7世 )と祖母エリーザベト (プロイセン王女)、大叔母のマリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)に因む。代父母の一人にフランス王妃マリー・アメリー がおり、ヴィクトリアは王妃からマリー・アントワネット が所有していたロケットを貰ったという。 [ 2]
3歳まではベッスンゲンで育ち、その後ダルムシュタット に家族で住んだ。彼女は妹エリーザベト(のちのロシア大公妃 エリザヴェータ・フョードロヴナ )と同じ部屋に生活し、良い教育を受けた。
1870年 冬、普仏戦争 の時に炊き出しが行われ、アリスはこれにヴィクトリアを同行させた。ヴィクトリアは、スープの入ったボールを運ぶ手伝いをした際に、ひどい火傷をしたと回想した。[ 2]
1874年 、弟のフリードリヒ が階段から転落して亡くなったことについて、ヴィクトリアは「母の心は折れそうになった」と述べている。[ 2]
左からヴィクトリア、イレーネ、アリックス、エリーザベト
1878年 、ダルムシュタットで大流行したジフテリア に大公一家が罹患し、末妹マリー と母アリスは助からなかった。ヴィクトリアは、幼い兄弟たちの母親代わり、父の秘書代わりとなった。
1884年 4月30日、ダルムシュタットでヴィクトリアは父の従弟ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルク(のちのルイス・アレグザンダー・マウントバッテン )と結婚した。[ 2] [ 3] 彼の父アレクサンダー は貴賤結婚 をしてロシア の軍人となっていたため、子供たちは下級貴族扱いであり、資産も少なかった。この結婚に父ルートヴィヒは不本意だった。[ 2] 夫ルイスがイギリス海軍 の軍人だったこともあり、ヴィクトリアはイギリスで生活するようになった。夫が地中海 へ航海に出ると、ヴィクトリアも同行してマルタ で一冬をすごしたことがあった。彼女は息子ルイス を10歳まで自分が家庭教師代わりに教育した才女だった。ルイスは1968年にヴィクトリアを評して、「母は歩く百科事典だったよ。」と言った。
1886年、左から祖母ヴィクトリア女王 、叔母ベアトリス王女 、ヴィクトリア、長女アリス
第一次世界大戦 が始まると、夫ルイスとヴィクトリアはワイト島 に引退した。国民感情を考え、敵国ドイツの姓を名乗るのに不都合となり、イギリス王家は「ウィンザー家 」と改名した。[ 4] それに倣い、ヴィクトリアたち一家は「バッテンベルク 」(バッテンバーグ、Battenberg)から、より英語的な「マウントバッテン」(Mountbatten)に改姓した。その3日後、夫はジョージ5世 よりミルフォード・ヘイヴン侯爵を授爵された。この戦争の後の1917年のロシア革命 で、ヴィクトリアは妹2人、エリーザベトとアリックス(ロシア皇后アレクサンドラ )を失った。[ 5]
1912年、左からエリーザベト、ヴィクトリア
ヴィクトリアは長女アリス の病に心を痛め、家庭の不和で行き場をなくした孫フィリッポス(のちのエディンバラ公フィリップ )を引き取り、イギリスで養育した。
夫と死別してからの彼女は第二次世界大戦 中に、ケンジントン宮殿 に住んでいた。宮殿が空襲に遭ったあと、ウィンザー城 に住まいを移した。戦後、息子ルイスがインド総督 の任務を受諾しようとしているのを知ると、危険だからという理由で最後まで賛成しなかった。1950年、ルイスの家に滞在中病にかかり、「ここは私が死ぬには良すぎる場所よ。」と言ってケンジントン宮殿に戻り、そこで没した。
子女
脚注