人力車人力車(じんりきしゃ、人力俥)とは、人の力で人を輸送するために設計された車。 日本では、主に明治・大正期に移動手段とし用いられた[1]。現在では「観光人力車」が観光地などで使われている[2]。 概要車軸の両側に1つずつ車輪を持ち、上に乗客が座る台座と雨避けとなる覆いを備え、台座とつながれた柄を俥夫(しゃふ)が曳いて進む。一部には手押し車のように後ろから押して進む車もあった。 日本語では、略して人力(じんりき)、力車(りきしゃ)。車夫はまた車力(しゃりき)とも言った。また英語のRickshaw(リクショー)は「リキシャ」を語源とする日本語由来の英単語。 人力車に関する車の文字は全て俥とも表記した。俥の字は本来はシャンチーの駒である「俥 (ヂィー)」に使われるだけの漢字であったが、明治以降の日本において中国にそのような漢字があることに気付かずに、人力車を表すために作られた国字の一種である(中国に元々あった漢字の字体に暗合したものであるので、正確には国字ではない)。そのため「俥」(くるま)一文字だけで人力車を表している。この他に、明治時代頃の表記では車編の右上に人を、その下に力を書いた合字を書く例もあった[3]。 人力車には乗客が一人乗りのものや二人乗りのものなどがあるが、日本で普及したのは一人乗りのものが圧倒的に多かった。また車夫は通常1人だが、特に急ぎの場合などは2人以上で引いたり、時には押したり、交代要員の車夫が併走したりすることもあった。 日本における人力車旅客輸送として1870年(明治3年)和泉要助が発明したと言われる。江戸時代以前には存在せず、代わりに輿や駕籠が使われていた。馬車や馬車鉄道、大砲や荷車を曳かせる軍馬のために街道の道路状況が整地・舗装など整備され普及した。その後、鉄道、自動車の普及により、都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底・燃料難という事情から僅かに復活したことがあるが、現在では一般的な交通・運送手段としての人力車は存在していない。 東京銀座7丁目に、日本で唯一という芸者送迎専用の人力車の車宿「日吉組」がある[4]。日吉組は旧地名の日吉町にちなんだ名で、所属の車夫・久は映画『あげまん』にも登場し、幌で覆われた一人用の人力車で芸者を送る場面が描かれた[5]。 また、車椅子に着脱式の持ち手を装着して人力車スタイルにし、障害者や高齢者の移動を助ける補助装置が開発されている[6]。 道路交通法後述「法令」も参照。軽車両となるため歩道上や自転車道上に駐停車はできない(東京浅草の車道上には人力車専用の駐車スペースがあり駐車禁止除外となっている)。 保存昭和初期までは一般的に存在した庶民的な車両であるため、交通博物館(2006年5月14日に移転の為閉鎖)をはじめ、各地の博物館や資料館などで保存されている。ただし、展示されている人力車には修復されたものや展示のために新たに製造されたものもある。 観光用として現在は主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。人力車を観光に最初に用いたのは1970年の飛騨高山のごくらく舎である。後に京都や鎌倉などでテレビ番組等で度々紹介されて、各地に普及した。当初は京都といった風雅な街並みが残る観光地、又は浅草などの人力車の似合う下町での営業が始まり、次第に伊東温泉、道後温泉といった温泉街や、大正時代風などレトロの街並みが残る門司港、有名観光地である中華街などに広がっていった。観光名所をコースで遊覧し、車夫が観光ガイドとして解説してくれるものが一般的である。車夫の服装は、腹掛けに股引き法被というのが多い。 現在、観光用人力車の営業が行われている地域は以下の通りである。
観光人力車の乗車料金は10分程度の移動時間中に観光案内を含めた初乗り運賃が1人当たり1000 - 2000円から15分・30分・60分・貸切など様々である。2人乗りのものに3人乗車することも可能であるが、相当な重さになることから、観光人力車では料金を割り増しとするものが多い。到着した後の観光客への観光案内時間中の駐輪場所の整備、客待ち時における待機場所の整備が遅れているといった課題がある。 観光人力車の他、結婚式や祭などでの演出や、歌舞伎役者の「お練り」などに使用されることがある。 人力車の製造観光人力車や博物館展示用の人力車製造が続けられている。製造台数の多いメーカーとしては静岡県伊東市の株式会社升屋製作所。
人力の車についてアジア各国へ輸出され、特にインドでは、明治40年代、年間1万台が日本から輸出され、リキシャなどの名前で地元に根付いていたものの、その後、多くはサイクルリクシャー、オートリクシャーに置き換えられた。 日本平安時代以降、貴族が乗る人力の輦車、手車がある。これは車輪がついた篭を前後の人間の力で移動させるものである。その他、肩に担ぐ駕籠、輿でも運ばれた。 朝鮮半島→詳細は「軺軒」を参照
香港の人力車1874年に日本から輸入された人力車が運用を開始した。広東語読みして「人力車 ヤンリッチェー」と呼んだ。1920年代には約2000台が運用されていた。 1980年代は、香港島、九龍半島のスターフェリー乗り場などに観光用の人力車があった。2013年の時点でライセンスは3名が持っていたが、乗車は電話予約が必要であった。しかし、2021年末に新型コロナと車夫の高齢化(70歳)による健康状態悪化を理由として、最後の一人が廃業した。本物の人力車に代わって、香港島のスターフェリー乗り場から市内観光路線(H1)で、オープントップの二階建てバスに人力車のデザインを取り入れた「人力車觀光巴士」[10]というものがあり、人力車と同じような幌が後方に付けられている。 インドの人力車
インドでは、しばしばリキシャはリクシャとも発音される。人力車の運転手をリクシャワーラーまたはリクシャプーラーと言う。 料金は1回の移動につき2、3ドルである。リクシャワーラーのほとんどは簡易な宿舎に住み、仕送りをするために節約している[11]。 2005年8月に西ベンガル共産政府は完全に人力車を締め出す計画を発表したが、リクシャワーラーの抗議とストライキに終始した[12]。 2009年現在、かなりの数の人力車がコルカタにまだ残っており、約8000台、2万人の車夫がいるとされる。リクシャワーラーの組合は、人力車の禁止に強く反対している。 歴史後述するように、人力車の発明は1869年(明治2年)に日本でなされたとする説がよく知られている。一方で、それ以前から人力で人を運搬する乗り物はあり、中にはのちの人力車に似たものもあった。 16世紀に中国で書かれた『三国志演義』では、椅子を備えた手押し車に乗った諸葛亮が描かれている。 オランダ人作家アルノルドゥス・モンタヌスによる1669年の著書には日本の「タイコーサマ」なる女性が諸葛亮同様の手押し車に乗る挿絵が載っている。それが当時の日本に実在したものかは不明だが、その頃までに欧州に手押し車のアイデアが伝わっていたことがわかる。 1707年にフランス人画家クロード・ジロー(Claude Gillot)が発表した「Les Deux Carrosses」(直訳:「二台の車」)には、後の人力車によく似た乗り物が描かれている。 ヨーロッパやアメリカでは富裕層が車椅子に乗り召使いに押させることがあった。 人力車の発明記録されている人力車の発明としては、日本の和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3名が発明者として明治政府から認定されている[13]。3名は東京で見た馬車から着想を得て1869年(明治2年)に人力車を完成させ、翌年1869年(明治3年)に日本橋で開業したとされる。 それ以前に人力車が発明されたとする説としては、1848年頃にアメリカ合衆国の鍛冶職人アルバート・トルマン(Albert Tolman)によって宣教師の乗り物としてウースターで作られたという説、1869年頃に来日アメリカ人宣教師ジョナサン・ゴーブル(またはジョナサン・スコビー(Jonathan Scobie))が病弱の妻の為に考案して横浜で使っていたという説がある。 人力車の発明者については当時から議論があった。1895年3月には都新聞論説において発明人に対する議論があがっている。1899年2月10日の第13回帝国議会(衆議院)では「人力車発明人ニ年金給与ノ建議案」が提出され、和泉らが発明者かどうかで議論となった。人力車の定義が争点になったこともあるが、山師も含めた自称者が多かったためでもあった。 様々な文献からの発明者と、それに対する意見を述べた文献、資料、事実を、次に記す。
日本での普及と発明の利益日本においては人力車はすぐに人気の交通手段になった。 当時西洋から馬車も輸入されていたが、日本では馬よりも人間を雇う方が安コストであり低運賃にできたこと、安全性が高いこと、玄関先まで届けられるという小回りの良さがあった[14]。 また、人力車はそれまで使われていた駕籠より速かった。そのため1872年までに、東京市内に1万台あった駕籠は完全に姿を消し、逆に人力車は4万台まで増加して、日本の代表的な公共輸送機関になった。これにより職を失った駕籠かき達は、多くが人力車の車夫に転職した。 1870年、東京府は発明者と見られる前記3名に人力車の製造と販売の許可を与えた。条件として人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨があった。この許可をもって「人力車総行司」と称した。人力車を新たに購入する場合にはこの3名の何れかから許可をもらうこととなったが、後述のとおり数年で有名無実となってしまった。同年、人力車の運転免許証の発行が開始された。 明治4年旧暦12月の時点で、人力車の数は、東京府下で4万台、京都数十台、静岡・草津1台[15]と記録されている。1876年には東京府内で2万5038台と記録されている[16]。19世紀末の日本には20万台を越す人力車があったという[17]。上述した元駕籠かきが人力車夫になった他、人力車夫は明治期都市に流民した下層社会の細民の主要な家業となった。また、人力車夫の中には女性もいたといわれている[14]。 初期の人力車は、箱に車輪を取り付けただけの単純な構造であったが、日進月歩で改良されて、凸凹道でも耐えうるスプリング付きの車輪が登場するようになり、木輪はゴム輪に変わり、その後空気入りのゴムタイヤへと改良されていった[14]。 また、1870年代半ばより中国を中心として東南アジアやインドに至るアジア各地への輸出が始まり、特に東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助はほろや泥除けのある現在見るような人力車を考案し、性能を高め贅を凝らした装飾的な人力車を制作し、その多くを輸出して大きな富を得た。他方、当初人力車の製造と使用を許可された和泉たちは激増する車夫たちすべてから使用料を取ることができず、また当時の特許制度(「専売略規則」)の不備・使いにくさもあいまってほとんど利益を上げることができなかった。この事実が、後に日本に本格的な特許制度の誕生をうながした。 明治20年代には東京市内に4万台に達した人力車であったが、その後の都市交通の発達により数を減少させていった[18]。1895年の京都電気鉄道開業を皮切りに、各都市で電車が導入された。首都圏でも1899年に大師電気鉄道(現京急大師線)が開業するが、人力車夫の反対により部分開業となった[19]。東京で1903年の市電開業時に4万3千人いた車夫は、2年後には2万6千人になり、人力車は急速に姿を消していった[20]。1903年6月12日、大阪の人力車夫は、巡航船の市内河川運航に反対して休業、土佐堀青年会館で集会を開き、一部は巡航船を襲撃した[21]。 大量失業に見舞われた車夫は、1905年の日比谷焼打事件など、この時期の都市騒擾で市電を焼くなどの敵意を見せた[20]。1908年4月上旬、警視庁の老車夫鑑札取上げに反対する東京老車夫救済会が結成された[22]。1909年、人力車の車輪がゴム車輪となり、賃借料が値上がりし、借車で営業している車夫の廃業がふえた[23]。1912年4-5月ころ、空気タイヤ人力車が登場し、10月24日、新車の高額賃借料をおそれた車夫300人が警視庁に使用制限を嘆願した[24]。 1914年、東京駅が竣工すると500台を有する組合が結成された。当時は駅から降りた人が使う唯一の乗り物が人力車であっただけに、1人で1ヶ月200円(約100年後の現代において80万円前後)ほどの収入があったことが伝わる[25]。 大正時代にはさらにタクシーが出現し、人力車の衰退に追い打ちをかけた。大正時代には人力車の姿はほとんど見えなくなった[14]。 その後は、観光地で明治時代の文化であった人力車を復活する動きが出て、観光客向けにサービスを提供するようになった[14]。 アジア各地への展開1880年頃、人力車はインドに導入される。最初はシムラー、20年ほど遅れてコルカタ(=カルカッタ)に現れた。インドでは、まず中国人の運搬装置の商人が使い始めた1914年にその中国人たちが人力車を乗物として使用できるように許可を申請した。 そのあとすぐに、人力車は東南アジアの多くの大都市で使用された。多くの場合、人力車の運転手は、都市に移住してきた地方労働者の最初にありつく仕事であった。 中国では日本製の人力車が爆発的に広まり、「黄包車」「洋車」の別名でも呼ばれていた。さらに国産の人力車工場が各地に建てられ、全土に人力車が広まった。上海には大小100を超える人力車工場があったとされる。 法令→詳細は「軽車両」を参照
動力→「軽車両 § 原動機を用いる軽車両」、および「原動機付自転車 § 電動の小型車両等に対する規制」も参照
ただし、電動機や内燃機関付きのものは、原則として原動機付自転車または自動車扱いとなる。 交通方法原則として車道を通行しなければならない。自転車や普通自転車扱いではないため、歩道の徐行ないし通行、自転車道の通行はできない。ただし路側帯(二重線の歩行者用路側帯を除く)、車道の自転車レーンについては普通自転車専用通行帯も含め、通行適用となる。 その他関連資料文学
映画
書籍
参考文献
脚注
関連項目
外部リンク |