三國連太郎
三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年〈大正12年〉1月20日 - 2013年〈平成25年〉4月14日[1])は、日本の俳優、映画監督。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。 息子は俳優の佐藤浩市、孫は俳優の寛一郎。群馬県太田市生まれ[2]。身長178cm、体重70kg[3]。 概要個性派俳優として日本映画界を牽引し、圧倒的存在感をスクリーンに残した、日本を代表する名優の一人。 デビュー以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演・助演を問わず幅広く出演、映画出演の本数は180本余りに及ぶ[2]。 その徹底的な役作りは真骨頂と評され、エピソードも残している[4]。 来歴生い立ち母親が16歳の時、一家離散により広島県呉市の海軍軍人の家に女中奉公に出され、ここで三國を身籠り追い出されて帰郷した[5][6]。帰郷の途であった静岡県の沼津駅で父親と出会い、1922年に父親の仕事先であった群馬県太田市にて結婚、翌年1923年1月に三國が生まれた[7]。この育ての父親は電気工事の渡り職人で、生後7か月のとき、一家で父親の故郷・静岡県西伊豆[要曖昧さ回避]へ戻った[2]。その後、旧制豆陽中学(その後の静岡県立下田北高等学校、2008年に静岡県立下田南高等学校と統合し、現在は静岡県立下田高等学校)を2年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った[8][9]。 中学時代は水泳部で活動したが、2年生で退学した。これより父親の怒りを買ってしまい、暴力から逃れるため下田港から密航を企て青島へ渡った。その後釜山で弁当売りをし、帰国後には大阪で皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工などさまざまな職に就く[2][10]。 徴兵、終戦まで1943年(昭和18年)12月、20歳のとき大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆へ戻り、甲種合格後、実家へ戻った[11]。すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。三國は、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え、同居していた女性とすぐに郷里の静岡県とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。逃亡4日目に列車を乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から朝鮮を経て中国へ行くことも書きそえた。数日後、佐賀県呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された[10][12]。 処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の歩兵第34連隊に入れられた[13]。 中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。家族が村八分になるのを恐れ涙を呑んでの決断だったという[10]。中国の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは20人から30人にすぎなかった。戦地へ向かう途中、身体を壊し熱病にかかる。10日間意識不明になり、死んだものだと思われ、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたが、焼き場に運ばれ、いざ焼く番になってむしろをはがしたら目を覚ましたという。漢口の兵器勤務課に配属され、この部隊で終戦を迎えた[2][14]。なお、三國自身は銃を一発も撃つことはなかったという[15]。 戦後1945年(昭和20年)の敗戦時、収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごした。中国からの復員の際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と1946年(昭和21年)4月に偽装結婚し、同年6月に引き揚げ[2]。復員時に長崎県佐世保市から鉄道で広島駅へ達した際には、駅から四国が望まれ、原子爆弾の脅威を知る[12][13][16][17]。その後は多種多様な職業につく[18]。宮崎県宮崎市の妻の実家に身を寄せて宮崎交通に入社、バスの整備士として2年勤務[2]。 1948年(昭和23年)、女児を身籠もっていた妻と離婚して鳥取県倉吉へ行く[2]。近くの三朝温泉へ行ったとき、戦争中に満蒙開拓団に関係していた人と知り合いになり、その紹介で県農業会(のちの農業協同組合)に入り[13][19]、組合長の秘書を務めながら農村工業課を新設[2]、サツマイモの澱粉からグルコースを採取する作業を指導する[19]。まもなく土地の資産家の娘と再婚[2]。 上京して映画界入り1950年(昭和25年)、単身上京して福島県福島市を拠点に闇商売を始め、一時は大儲けするが結果的に挫折する[2]。 同年12月[2]、東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入る[19]。スカウト時には、プロデューサーの「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと述懐している[20]。またこの映画界入りの背景は偶然ではなく、東銀座でのスカウトの際、松竹の「あなたの推薦するスター募集」に、倉吉時代に出入りしていた写真館の主人が三國の写真を送っていたことを知る[2]。 1951年(昭和26年)、木下恵介の監督映画『善魔』に、レッドパージで出演取り止めとなった岡田英次の代役として松山善三の推薦により抜擢されデビュー[1]、役名の「三國連太郎」を芸名にする[2]。この演技により第2回ブルーリボン新人賞を受賞する。デビュー当時、松竹が紹介した経歴は、本名、生年月日、身長、体重を除いてほとんどが嘘だらけだったが、それもまた役者の象徴として平然と聞き流すのに対して、木下は俳優としての本質的な良さを認め、三國もその資質を活かすことにつとめる[2]。また、木下の勧めで3か月ほど俳優座に通った。 1952年(昭和27年)1月、東宝が稲垣浩の監督作品『戦国無頼』への出演を希望し松竹に出演許可を求めるが、三國がまだ演技研究生で松竹社員であることを理由に拒否される[2]。しかし東宝は松竹の間に正式契約がないことを確認して本人と交渉を進め、三國を巡る松竹・東宝の争奪戦がマスコミの話題となる[2]。三國が自ら『戦国無頼』のクランクインに参加したため、松竹は3月19日、正式に解雇する[2]。三國は出演ののち、東宝と年間4本の出演契約を結んだ[2]。これらの一件を通じて、義理人情を欠く「アプレ・スター」と叩かれた[2]。 この間に2度目の離婚。翌1953年(昭和28年)に3度目の結婚をしている[2]。 1954年(昭和29年)、稲垣監督『宮本武蔵』出演中に映画製作を再開した日活の『泥だらけの青春』に出演すると発表、東宝が折れ出演を果たす[2]。その直後、「五社協定違反者第1号」に指定される[2]。松竹大船撮影所の門扉に「犬・猫・三國、入るべからず」との看板が取り付けられたという[21]。 1955年(昭和30年)、日活と専属契約を結び、1956年(昭和31年)10月末、契約切れとともにフリーとなる[2]。 1959年(昭和34年)9月、他社出演の自由を条件に東映と専属契約、1965年(昭和40年)4月、東映を離れてフリーとなる[2]。 専属契約とフリーを繰り返す傍ら、1963年10月、映画会社「日本プロ」を設立[2]。第1作として『台風』を企画・監督するが、東映が「専属俳優に独立プロ活動は許さない」と反対し配給が叶わず公開中止となる[2]。その後1969年8月、プロダクション「APC」を設立[2]。テレビ映画やCM制作を行い、1972年3月には自主製作映画『岸辺なき河』の撮影に入るが未完となった[2]。 1984年(昭和59年)、紫綬褒章を受章。1986年(昭和61年)には映画『親鸞・白い道』[注 1]を製作・監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。その後は『釣りバカ日誌』シリーズ(1988年 - 2009年)の「鈴木社長」役で活躍。『釣りバカ日誌』シリーズで第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞。 晩年2012年(平成24年)9月、同年春から首都圏近郊の療養型病院に入院していることが報じられた[23]。また2012年9月13日号の『週刊文春』では、老人ホームで暮らしていることが報じられた。 2013年(平成25年)4月14日(日曜日)午前9時18分、東京都稲城市の病院で急性呼吸不全により死去。90歳没。生前、「戒名はいらない。三國連太郎のままでいく」と話していたという[24]。 ギャラリー人物・エピソード撮影所では「連ちゃん」の愛称で親しまれた。1951年の阪東妻三郎主演の『稲妻草子』(稲垣浩監督)に三國を抜擢したのは、松竹が何とかして三國をスターとして売り出そうと考えてのことだった。当時、三國のサラリーは2万円ほどで、大食漢の三國は懐が寂しく、いつも木暮実千代に「何か食べさせてよ」と甘えていた。稲垣浩は三國を「そんなかわいい青年だった」と述懐している。その試写の席で三國の演技がまずかったと阪東から笑われたのを機に、三國は空いた時間は京都へ通い、時代劇のスターや監督の家を訪ね、教えを乞うていった[25]。 この『稲妻草子』のあと、稲垣は東宝で『戦国無頼』を撮ることが決まっていたが、突然三國が「速見十郎太の役は僕がやります」と立候補してきた。三國は映画界に入ってまだ日も浅く、映画界の仕組みをよく知らなかったため、純粋に「いい映画に出たい、好きな役を演じたい、信頼できる監督と仕事をしたい」と、自由奔放に振る舞って松竹を抜け出したのだが、このために大騒動を巻き起こした。とうとう三國は松竹を飛び出して稲垣の下に来てしまい、松竹としてはせっかく育てた新人が逃げ出したので追いまわした。東宝は三國が捕まらないようあちこちにかくし歩いて対抗した。 三國のこの事件の後、映画各社間で、「新人が勝手に行動した場合、2年間は映画への出演を禁止する、大手会社は使うことができない」などの罰則が協約されることとなった。三國はその頃から問題児であり、東宝で十数本の映画に出演した後、やはり何らかの不満があって飛び出し、ついに東宝パージとなった。 三國は「会社は僕を商品だと思っているようですけれど、僕は息をしている人間なのですから、好きなものは好きで、いやなものは嫌だと言いたい」と稲垣によく言ったという。稲垣は三國について、「見方によってはとても子供っぽいところがあるが、その子供っぽさのなかには、ほかの俳優が持っていないような筋金が通っているようでもある、つまりサラリーマンではない役者、それは三國連太郎なのである」とし、「クセのある俳優といえば三國連太郎にとどめを刺すだろう」と語っている[26]。 いわゆる役者馬鹿であり、怪優・奇人とも称される。家城巳代治監督『異母兄弟』(1957年)において、老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたことで、顔を腫らしたエピソードはよく知られている(しかも、他の出演シーンの都合をつけるために、治りを早くするために麻酔抜きでやった)。これについては、「夫婦役の田中絹代とどう見ても夫婦に見えないことに悩んだ末のことだ」と三國本人が述懐している(腫れた三國の顔を見て「おやまぁ」と田中が一言、その日は撮影しなかったという)[21]。また三國が坊主頭になった際には弟子に役を与えるために、自らがバリカンを持ち、その弟子の頭を丸刈りにした。それに居合わせた全ての弟子と密着取材(写真展「三国連太郎との120日」1957年)を行なっていた写真家の山本善之助までが坊主頭となった[27]。今村昌平監督『神々の深き欲望』(1968年)では、南大東島での長期ロケで破傷風にかかり、脚一本を危うく失うところだったが、懲りずに治療を終えギャラももらわずに自費でまたロケに参加していた、と嵐寛寿郎は発言している[28]。特に、粗暴な人物役を抱えた時期の三國はプライベートでも役にハマりこんでしまい、他人が近づきがたい状態になっていることがたびたびであった。
結婚を4度経験。俳優の佐藤浩市は3番目の妻との間にできた息子である。その他にも太地喜和子とのロマンスが取り沙汰され、奔放な女性関係で知られた。太地と出会った時は19歳と41歳という22歳の年の差にもかかわらず大恋愛に発展。太地の実家にあいさつに行き「10年経ったらせがれが自立できるようになるので、結婚させてほしい」と申し出、そのまま実家で同棲を開始するも3か月目に「疲れた」という置き手紙を残して太地の元を去った。別れの10年後、太地との誌上対談にて、太地の「三國さんはどうしてあのとき、喜和子から逃げ出したんですか」という問いに対し、「10年目にして率直に言うけど…あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです」と答えている[30]。また、その後、1981年6月の『週刊読売』のインタビューでは「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。太地喜和子さんだけです。ぼくは、男に影響を与える女の人が好きです」と答えている。 映画界入りに際して「旧制静岡高等学校理科を経て大阪帝国大学工学部応用化学科卒[31][信頼性要検証](もしくは東京帝国大学卒)」と詐称。のちに芸能ジャーナリズムにそのことを暴かれたことがある [信頼性要検証] [32][33][34]。『日本放送年鑑'68』p.733では最終学歴を「大阪工大」としている。デビュー当時のキャッチフレーズは「大阪大工学部卒業で、知性美を持つ有望な新人スター」であったが、これは「私の提出した引揚証明書に阪大工学部卒と戦没者の学歴が書いてあった」ためである、と三國は説明していた[35]。 電気職人だった養父が被差別部落の出身であることを公表しており、差別問題に関する著作、講演活動等も行っている。養父との関係は良く、母親よりも養父のことが好きだとインタビューで述べている[36]。 戦争体験の話でよく話している、「戦後すぐ故郷静岡に帰る途中に、広島で途中下車し、原爆で焼け野原になった広島の街の光景を見た」という話だが[12][13][16]、何故、広島で途中下車したかについては公の場では話さない。戦争中、全国の大半の兵隊は広島の宇品港から外地へ送られたが、三國も出征の前日、死地へおもむく前に、女性を一度でいいから抱いてみたいと広島市内の遊廓で筆下ろしをした。三國はこの遊女が忘れられず、「どんな卑怯なふるまいをしてもいい、どんな恥をうけても生きて還りたい。もう一度あの女を抱きたい」と心の中で誓い、帰還して実はこの女を探すため、まっすぐ広島へ向かったのである。この話は三國の著書『わが煩悩の火はもえて 親鸞へいたる道』や『生きざま 死にざま』にも書かれているほか、かつて『中国新聞』の原爆特集で話したことがある[37][38]。 徴兵忌避中に同行した女性の実家が岡山にあり、広島で下車後、岡山に立ち寄った。彼女には既に子供がいたため、三國は声をかけずに立ち去ったという[39]。 静岡県沼津市在住だったことがあり、沼津市の観光大使(キャンペーン隊)である「燦々ぬまづ大使」に通算6回に渡り選ばれている。 『人間の約束』で息子・佐藤とワンシーンのみの初共演を果たした後、『美味しんぼ』で本格的に親子の役を演じる。 『釣りバカ日誌』シリーズでは「スーさん」の愛称で親しまれた。自身としても、同一人物の役を最も長い期間演じた作品シリーズとなり、名実共に晩年の代表作品となった。シリーズ最終作となった『釣りバカ日誌20 ファイナル』の会見では「混迷の映画界の中で暗中模索した冒険ともいえる作品[40]」「スタッフの作品作りに対する情熱は日本映画史に永遠に残る[40]」「僕にとっては生涯の仕事。俳優生活の名誉[41]」と総じて肯定的に評価した。 受賞
出演映画
テレビドラマ
ゲーム
ドキュメンタリー
CM
著書
写真集展覧会評伝
監督作品
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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