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火宅の人

火宅の人
著者 檀一雄
発行日 1975年
発行元 新潮社
日本の旗 日本
言語 日本語
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火宅の人』(かたくのひと)は、檀一雄長編小説で遺作。『新潮1955年11月号より20年にわたり断続的に連載された[1][注 1]1975年新潮社で単行本が刊行(現:新潮文庫(上下)、改版2003年)。没後に第27回読売文学賞(小説部門)と、第8回日本文学大賞を受賞した。全集を含めると150万部を超す檀の最大のヒット作[2]

1977年日本テレビ山田信夫脚本テレビドラマ化の準備を進めていたが[3]、遺族の反対で急遽製作中止になり[3]1979年になって同じ日本テレビが山田脚本でテレビドラマ化した。1986年には東映で映画化。1987年4月6日放送の『NHK特集 命もえつきる時 作家檀一雄の最期』(語り草野大悟)では、作品完成に向け苦闘する作者の姿が口述筆記の録音テープと共に紹介された。

「火宅」とは、仏教説話(正確には「法華経 譬喩品」より)の用語で、「燃え盛る家のように危うさと苦悩に包まれつつも、少しも気づかずに遊びにのめりこんでいる状態」を指す。

檀一雄の私小説とされるが[2][4][5][6][7]檀太郎は「小説は小説、事実とは違います」と述べている[2]

あらすじ

作家・桂一雄は、妻のほか、日本脳炎による麻痺を持つ息子のほか4人の子を持ちながら、女優を愛人として、通俗小説を量産しながら、自宅をよそに放浪を続けている[8][9]

発表順

  • 第一章「微笑」
    • 「誕生」『新潮』1955年11月
    • 「微笑」『新潮』1961年9月 
  • 「火宅」『新潮』1963年2月
  • 「我が枕」同3月 
  • 「灼かれる人」同4月
  • 「吹雪の地図」同5月
  • 「蝋涙」同6月
  • 「寂光」同7月 
  • 「白夜」同9月
  • 「帰巣者」同10月 
  • 「有頂天」『新潮』1966年8月
  • 「黄なる涙」『新潮』1969年1月 
  • 「きぬぎぬ・骨」『新潮』1971年11月
  • 「キリギリスー「火宅の人」最終章」『新潮』1975年10月 

テレビドラマ

火宅の人
原作 檀一雄
『火宅の人』
企画 山本時雄
脚本 山田信夫
出演者
音楽 内藤孝敏
国・地域 日本の旗 日本
言語 日本語
製作
プロデューサー 川原康彦
松岡明(ユニオン映画
放送
放送チャンネル日本テレビ系列
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1979年7月24日 - 10月9日
放送時間火曜22:00 - 22:54
放送枠火曜劇場
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放送時間

  • 火曜22:00 - 22:54

スタッフ

キャスト

日本テレビ 火曜劇場
前番組 番組名 次番組
火宅の人

映画

火宅の人
House on Fire
監督 深作欣二
脚本 深作欣二
神波史男
製作 豊島泉
中山正久
製作総指揮 高岩淡
佐藤雅夫
出演者 緒形拳
松坂慶子
原田美枝子
真田広之
岡田裕介
檀ふみ
いしだあゆみ
音楽 井上堯之
撮影 木村大作
編集 市田勇
製作会社 東映京都
配給 東映
公開 日本の旗 1986年4月12日
上映時間 132分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 10億1000万円[10]
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1986年4月12日公開の日本映画。企画の高岩淡は檀一雄の異父弟、「桂一雄の母親」を演じている檀ふみは檀一雄の実の娘。

スタッフ

キャスト

製作

企画

断続的に小説連載中の1960年代半ば、当時の東映京都撮影所(以下、東映京都)所長・岡田茂(のち、同社社長)が檀一雄の異母兄弟である高岩淡に「これは東宝向けやから、うちは映画にせんとこうよ」と言い、高岩も「いいですよ」という話で終わっていた[2][11][12]。岡田は檀の東大経済学部の後輩にあたり、檀の無二の親友である坪井与(與)と3人で戦後すぐからよく飲み歩いていた仲だった[12][13][14]。その後1982年の『鬼龍院花子の生涯』の大ヒットで、東映でも文芸作品の企画が通りやすい状況になり[13]1983年になって深作欣二が『人生劇場』を正月跨ぎで東映京都で撮影していた時、「おせち料理が食べたい」と深作が言うので高岩が自宅に深作と松坂慶子を一緒に招待した[2][11]。すると深作が「檀一雄の資料を見せてくれ」と言うので高岩が「何で?」と聞くと「『火宅の人』をやりたい」「東映がダメなら松竹東宝でやる」と言って檀の資料を持って帰った[11][13]。深作は小説の出版以来、繰り返し『火宅の人』を読んでいたという[2]1985年渡辺淳一原作『ひとひらの雪』の監督を深作が事情で降板したとき[13]、深作と高岩が相談して何かやってると聞きつけた岡田社長が高岩に「何をやるんだ」と問い詰め、高岩が「社長は反対するかもしれませんけど『火宅の人』を深作とやりたいんです」と言ったら、岡田が膝をたたいて「いまの東映ならもってこいや、やれ!」と製作OKが出た[2][11][12][13][15]

岡田社長は1986年始めのインタビューで「『火宅の人』については前から色んな監督がやらせろって来てたんですよ。とくに深作が熱心でしつこくやらせろっていい続けていたもんだから。まあつくり手が何ものにも変えて情熱傾けるものは、ある程度の見通しが立ったら、やらせんとな。アダルト映画(大人向きの落ち着いた映画)は最初から二けた(配収10億円)取ろうと思ったら間違いだよ。とにかく損せんようにな、ということは7億円ぐらいで線引きしてやらんと、この手のものは怪我するよ。この種のアダルト狙いの作品は、よっぽどの強烈なインパクトを持ったモノでないと(お客は)来ないんですよ。だいたいアダルト層は茶の間でテレビにかじりついている連中だからね、よほどの宣伝力を作品自体が秘めてないと来ないよ。よく言うだろ、モノはよく出来ているが、なぜ来ないのかとな。アダルト映画はそうなり易いから難しいよ。アニメはまあお客が入っているけど、ジャリ向きの映画ばかりやっとったんでは、東映の存在価値はないわね。やっぱりアダルトもので思い切って勝負せにゃあね。東西の撮影所に染み込んでいる東映独自の体質、体臭をうまく生かしながら、収益を着実に出してゆく体制を作ってゆく、これが課題です。いま東西で年4~6本映画を作っているけど、まあその内の2本は当てろと言っているいるんだけどな」などと製作を決めた理由を述べている[16]

深作は1986年当時、自身の企画は本作と『軍旗はためく下に』ぐらいで、スタイルとして提案したのは『現代やくざ 人斬り与太』とか何本かある」と話していた[14]。深作はこの10年前から『火宅の人』映画化の希望を持っており、東映にその頃企画を提出したが、当時は実録路線の尻尾を引きずっていた頃で実現できず[15]、深作はフリーになっていたため松竹に企画を持ち込んだが、中年男の不格好な情事を描いたドラマは、当時の興行常識からは外れていて取り上げてもらえなかった[15]。また愛人役や耐え続ける妻役もきれいごとでは済まない役で、深作も当時の女優では誰も見当がつかず、仕方なく見送っていた[15]。10年経って女優たちが違う展開を見せ始めて、東映京都の中にも女優を受け入れる下地が出てきていたことから、深作が再び企画を提出した[15]

檀の自宅は東映東京撮影所近くの石神井にあり[6]、檀は夕方になると大泉の撮影所に坪井与をよく訪ねて来て、よく飲んでいたという[17]。東映東京の助監督は、坪井に誘われてよく檀の自宅に遊びに行っていたが、深作は行ったことがなく、檀に会ったことがなく、「こんなことだったら、ぜひ会いたかった」と悔しがっていたという[13]

檀原作の映画

檀一雄原作の映画化は1951年の『真説 石川五右衛門』を皮切りに本作が5作目で全て東映が映画化している[12]。これはいつも金が無かった檀のために坪井与が無理して原作を買い映画化したもので、井川比佐志演じる壷野は坪井がモデル[12]。檀の女性絡みのトラブルは作家仲間ではなく、坪井がトラブルの解決にあたったという[12]

脚本

シナリオは深作と深作の懐刀・神波史男[18][19]。神波の脚本代は300万円[20]。東映から脚本オファーを受けた神波は、深作から「お前もソウトウな火宅らしいから丁度よかろう」と言われ[18][19]、「いえいえオレなどほんのボヤですから」と答えた[19]。岡田社長からは「流行の浮気ドラマとしてまとめてくれよ」と指示を受けた[15]。神波と深作は、檀一雄をよく描いてはダメだろうとグズグズ言い合って脚本を書いた[18]。ストーリーや設定は原作とは異なり[2]、後半部分の桂一雄(緒形拳)が、ホステスの葉子(松坂慶子)と放浪するシークエンスは深作の完全な創作(島の女は原作に出るが一緒に放浪はしない)[2][12][15][21]。『火宅の人』をベースに檀一雄の半生を描く形にした[12]。脚本段階では上手くまとまらず、岡田社長も心配したが、深作と撮影の木村大作で上手く絵にした[12]

キャスティング

桂一雄こと檀一雄を演じる緒形拳は坪井与の推薦[12]。深作も緒形をイメージしながら脚本を書いていたが[12]、緒方は映画もテレビドラマもオファーがひっきりなし状態で、東宝の『春の鐘』にキャスティングされていて厳しい状況だった[15]。また妻役として深作が希望するいしだあゆみも『春の鐘』にキャスティングされていたが[15]、幸いどちらもキャスティングの変更があり[15]、深作の希望通りのキャスティングが実現した[12][15]

自身の祖母役を演じる檀ふみは、自分の家庭の話に神経質になり、記者に家庭に関する質問されるのが嫌で、1985年10月にあった製作発表会見を欠席した[22]。檀ふみは本作出演まで父の本をちゃんと読んでいなかったが[2]、これを機に父を強く意識するようになったという[2]原田美枝子は1979年20歳のときのテレビドラマと同じ新劇女優を演じる[23]

製作が最初に報じられたときは、松坂慶子が新劇の女優つまり[6]、原田美枝子が演じた恵子役だった[24]。事情は分からないが、その後松坂は島の女としてチョイ役予定に変更された[21][25]。ところがいざ撮影に入ると深作はまるで松坂の葉子が主役かのように艶技指導にも熱を入れた[21]。松坂に入れ上げる深作に東映京都で撮影中、檀ふみが「なんでケイコがいいの、なんでケイコなのよ」と口走ってしまいスタジオ内が静まり返った[21][25]。後半の見せ場である絵馬堂での緒形と松坂の濡れ場シーンは1985年12月31日撮了予定が、深作の熱意と松坂のかつてないノリで、松の内が明けてからも続行され撮影に30時間、延べ3日間を要した[26][27]。松坂と深作のコンビは「深作さんは、私をはじめて本当の女優にしてくれた人です」と松坂が話した[21]青春の門』(1981年、東映)以降、『道頓堀川』(1982年、松竹)『蒲田行進曲』(1982年、松竹)『人生劇場』(1983年、東映)『上海バンスキング』(1984年、松竹)に続いてのものだが、所属する映画会社が異なる女優と監督がほとんど間を置かずコンビを組むのは極めて異例のこと[21]。松坂はそれまでも数々の男と浮名を流し[28]、「いい意味で男を喰って成長する最後の女優。いまの若い女優たちの多くはそうすることを知らない」と評された[28]。松坂は2006年のインタビューで、深作映画を「どれも思い出深いです」と話している[29]

深作は『敦煌』の監督が決まっていた1985年11月から本作を撮影した[11][30][31]。1985年の秋には『敦煌』は1986年3月から撮影に入り『火宅の人』は1986年6月公開と報道されていた[24]。『敦煌』は製作が不透明で仕方のない面はあったが、迷惑を被ったのが松竹[24]。松坂は1985年のNHK大河ドラマ春の波涛』の主役で大河の撮影が終了する11月まで体が空かない状態で[31]、松竹は1985年が創立九十周年にあたり、看板女優・松坂慶子の主演作として『足にさわった女』のリメイク[31]山本周五郎作品などを企画していたが[31]、松坂が『火宅の人』の出演を選び、記念の年に看板女優の出演作なしという事態になった[24]奥山融松竹社長は「よその作品にあれだけ夢中になられるとウチも困る」と不満を述べた[24]

太宰治を演じる岡田裕介は出演に気が進まなかったが[11]、深作に「どうしても出てくれ」と頼まれ、「サクさんならいいか」と出演を承諾した[11]

撮影

撮影の木村大作は1980年の『復活の日』で深作と揉め、その後は疎遠となっていたが、深作から「今度は演出に徹する。キャメラに関しては木村に任せる」というオファーを受け、初めて東映京都に就いた[27]。『復活の日』では深作と上手くいかなかったが、本作ではアイデアのキャッチボールをするようになった[27]。木村は「深作さんは詩情があまり得意じゃないと自分で思っていたから、それを必要とする映画に俺のキャメラが欲しかったんだと思う」と話している[27]。木村はこの後、東映からオファーを受けることが増えた[27]。深作は本作を「文芸アクションドラマ」と言っていたという[29]。 1985年10月9日クランクイン[26]

冒頭の回想シーンで色を抜く処理をしているが、当時はデジタル処理もない時代で、木村が提案してフィルムを三色分解した[27]。テストフィルムを見た深作がえらく気に入り、回想シーンだけじゃなく全部これでやりたいと訴えたが、金がかかり過ぎるため却下された[27]。また木村が冒頭の回想シーンの前に出る有名な「荒磯に波」の東映三角マークが飛びだすシーンが、冒頭の繋ぎに合わないと、木村が一人で日本海で撮影した新しいオープニングを使おうとしたら、岡田社長から「会社の顔を変えるとは何事だ!」と一喝されて、没になった[27]

スタジオ撮影は東映京都[5]。原田の浅草のアパートの内部など[5]。そのアパートで緒形と原田の諍いのシーンは、緒方が本気で原田を投げ飛ばし、原田が顔にケガを負い、撮影が10日間中断した[2]。深作は『復活の日』で草刈正雄オリヴィア・ハッセーラブシーンで84回リテイクし、やればやるほど良くなるという考えを持つ人で[27]リハーサルも本番も何度も粘る[27]。また女優に酷い言葉を浴びせ、厳しい演技指導をするため、濡れ場を演じる女優は全裸でずっとスタッフみんなに見られている状態で深作の説教を受け、頭がおかしくなる[27]。原田が泣き出しセットから出て行き帰って来なくなったことがあり、木村が原田の説得に行き「僕たちはいつまででも待ちますが、今やめたら別の日に撮り直しになりますよ。それだったら今日のうちに撮ってしまった方がいいと思いますけど」と説得し、原田が「分かりました。30分時間を下さい」と答え、何とか朝までかかり撮り切った[27]。松坂も怒って原田と同じくやはり突然セットから出て行ったが、このときは深作が松坂を説得に行き、30分くらいで二人がニコニコして現場に戻って来たという[27]。木村大作は「当時の日本映画は女優が不自然に裸になる場面が多く、特に東映はその傾向が強かったが、観客に対するサービスということだと思うけど、オレは何か違うと思っていた」と話している[27]

日本脳炎後遺症で全身マヒになった次男の次郎が亡くなるシーンでは、自ら"火宅の人"だった深作がカメラに突っ伏して嗚咽を漏らした[2]

原田のケガもあったが、映像にかなり凝り、本来は1985年末で撮了予定だったが[27]、1986年1月23日クランクアップ[26][27]。撮影実日数は70数日[15]。映画の完成は予定より一ヵ月遅れた[12]

ロケ地

全国縦断ロケを敢行[32]京都府亀岡市[12]青森県蔦温泉[23]十和田湖[2]東京都浅草石神井公園(石神井池)、鳥取県[32]長崎県五島列島野崎島[2]小値賀島[33]、雪の熊本県阿蘇山[12]紅葉五木村[12]鹿児島県霧島など[32]

製作費

全国ロケと撮影期間が長くなった影響で、当初予定より1億円高くつき、製作費4億5,000万円、営業費3億円で計7億5,000万円[12]

興行

1986年のゴールデンウィーク興行ということで宣伝に力を入れ、松坂慶子と原田美枝子の濡れ場をメディア展開させた後、文芸作としての内容を全面に出した戦略に転換、硬軟完備の万全な体制を敷いた[34]。試写会では檀の遺族から親戚から作家仲間らがべた褒めで、あまりの評判の良さにかえって心配が出る程だった[12]。内容から観客層はかなり高くなることが予想されたが、この年のゴールデンウィークは、邦画他社、洋画もこれといった強力作品もなく『火宅の人』が強いのではないかと予想された[34]。邦画は若者向け映画が多く[12]東宝が前半『テイク・イット・イージー』『タッチ 背番号のないエース』、後半『彼のオートバイ、彼女の島』『キャバレー』、松竹が『ジャズ大名』『犬死にせしもの[34]、洋画は『ナイルの宝石』『デモンズ』『霊幻道士』『ナインハーフ』『アイアン・イーグル』『ホワイトナイツ/白夜』『スパイ・ライク・アス』『死霊のえじき』『カイロの紫のバラ』『ストレンジャー・ザン・パラダイス』などが同時期公開された[34]

正月の『玄海つれづれ節』でつまずいたが[35]春のまんがまつりで盛り返し、続いての大ヒット[35]。女性客も大勢動員し[2]配給収入10億円を突破した[2]。映画の宣伝が始まると原作も売れ、相乗効果が大きかった[35]。岡田社長は「例年、春と夏休みはヤング路線になるのは仕方がないが、大人向けの映画は当たると大きい。テレビに高く売れるし、ビデオソフトもかなり出る」と話した[35]

受賞歴

影響

深作は本作の後、『敦煌』を撮ることになっていたが[36]、撮影開始がズレ込んでいるうちにヤル気をなくし[36]、1986年夏に『未完の対局』で日中合作の経験がある佐藤純彌に監督を交代した[36]。一転、失業状態になった深作は松坂慶子にドップリ浸かって"映画界の火宅の人"になり、見るに見かねた岡田社長から「あまり派手にやるなよ。たまには家に帰ったらどうだ」などと釘を刺された[36]週刊誌誌上で深作監督夫人の中原早苗が松坂を「声が悪いし、うまい女優になれないから脱ぐしかない人。夫の趣味も悪い。夫は松坂慶子にあふれる才能を食われているんです」などと名指しで非難し、スキャンダルとしてマスメディアに大きく取り上げられる事態となり[21][25][28]、親父が大好きな一人息子の健太は学校でイジメに遭い登校拒否するなど、映画を地で行く"火宅の人"状態になった[25][28]

深作健太は2010年のインタビューで「中学生のとき、親父のスキャンダル全盛の頃、『火宅の人』を母親と一緒に新宿東映に見に行った時はひっくり返っちゃって。とんでもない映画観ちゃったなっていう。父の赤裸々な自己告白と、無頼と、居直りに溢れていた。自分の魔界を全部さらけ出してる。僕もいつかそんなふうになりたいです」などと話した[37][38]

脚注

注釈

  1. ^ 編集担当者による回想記に小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』(構想社、1980年)がある。

出典

  1. ^ 火宅の人(かたくのひと)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2021年2月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 大嶋辰男 (2013年10月26日). “映画の旅人 『火宅の人』(1986年) 『愛するという煩悩』”. 朝日新聞be (朝日新聞社): p. e1-2 
  3. ^ a b 「シナリオメモランダム」、『月刊シナリオ』 1977年5月号、p. 99
  4. ^ 檀ふみ、「火宅の人」の内実を明かす「ドメスティックバイオレンスですよね」”. デイリースポーツ. 神戸新聞社 (2017年10月14日). 2017年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月10日閲覧。
  5. ^ a b c 「CINEMA NEWS 深作欣二、10年来の念願 『火宅の人』映画化 撮影ルポ」『プレイガイドジャーナル』1986年3月号、プレイガイドジャーナル社、44頁。 
  6. ^ a b c “『火宅の人』での放浪作家のイメージが強い檀一雄。晩年の生活は…/文豪春秋(4”. ダ・ヴィンチニュース (KADOKAWA). (2020年7月6日). オリジナルの2021年2月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201031131122/https://ddnavi.com/serial/641265/a/ 2021年2月10日閲覧。 
  7. ^ 人と作品モデルがつづる”もう一つの『火宅の人』” – 有鄰堂
  8. ^ “檀一雄『火宅の人』〔上〕”. 新潮社書籍詳細 (新潮社). オリジナルの2021年2月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210210045008/https://www.shinchosha.co.jp/book/106403/ 2021年2月10日閲覧。 
  9. ^ 火宅の人 – ぴあ
  10. ^ 1986年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  11. ^ a b c d e f g 立松和平『映画主義者 深作欣二』文藝春秋、2003年、127頁。ISBN 4-89036-181-2 
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 高岩淡(東映常務取締役)・鈴木常承(東映・取締役営業部長)・小野田啓 (東映・宣伝部長)、聞き手・北浦馨「本誌・特別座談会 ―話題・最前線― 東映『火宅の人』を語る 檀一雄没後十年、深作監督の執念実る」『映画時報』1986年4月号、映画時報社、4-17頁。 
  13. ^ a b c d e f 「火宅の人 特集2:高岩淡に聞く」、『キネマ旬報』 1986年4月上旬号、pp. 46-49
  14. ^ a b 「火宅の人 特集1:深作欣二監督に聞く」、『キネマ旬報』 1986年4月上旬号、pp. 42-45
  15. ^ a b c d e f g h i j k l 「CLOSE UP 十年目に実現した『火宅の人』深作欣二/『ひとりの男の内面をいちど突っ込んで描いてみたかった』 深作欣二監督『火宅の人』の演出を語る」『シネ・フロント』1986年4月号 No.114、シネ・フロント社、2、4–9頁。 
  16. ^ 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、204-205頁。ISBN 978-4-636-88519-4 
  17. ^ 荒井晴彦責任編集「この悔しさに生きてゆくべし ぼうふら脚本家 神波史男の光芒 神波史男全映画 『自作を語る』 構成・原田聡明」『映画芸術2012年12月増刊号』、編集プロダクション映芸、351-352頁。 
  18. ^ a b c 荒井晴彦「神波史男インタビュー 作さんとの五十年を語る」『映画芸術』1986年4月号 No.403、編集プロダクション映芸、12、20頁。 
  19. ^ a b c 荒井晴彦責任編集「この悔しさに生きてゆくべし ぼうふら脚本家 神波史男の光芒 遺文4 自作諸々 『火宅の人』 火宅に、ボヤの反撥」『映画芸術2012年12月増刊号』、編集プロダクション映芸、221-222頁。 
  20. ^ 荒井晴彦桂千穂神波史男斎藤博高田純・来川均「〈座談会〉 シナリオライターの在り方を考える」『シナリオ』1986年7月号、日本シナリオ作家協会、26頁。 
  21. ^ a b c d e f g 「ドキュメント・シリーズ 妻たちの闘い 『MKさんのことでは主人を含め、家中で悩みました』 深作欣二監督夫人 中原早苗さん」『週刊平凡』1986年3月7日号、平凡出版、35-39頁。 
  22. ^ 「カラーフォーラム『火宅の人』製作発表」『週刊平凡』1985年11月1日号、平凡出版、130頁。 
  23. ^ a b 「原田美枝子の圧巻!デカパイ濡れ場!」『週刊ポスト』1986年3月7日号、小学館、223–225頁。 
  24. ^ a b c d e 「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1985年10月下旬号、p.171
  25. ^ a b c d 「醜聞追撃 『松坂慶子に夫を食われた深作欣二監督夫人中原早苗 衝撃告白の三つ巴』」『週刊ポスト』1986年3月14日号、小学館、50–52頁。 
  26. ^ a b c 「またまた深作監督作品で披露! 松坂慶子が炎のスッポンポン不倫ヌード!」『週刊ポスト』1986年2月14日号、小学館、7–9頁。 
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 金澤誠『誰かが行かねば、道はできない 木村大作と映画の映像』キネマ旬報社、2009年、152-208頁。ISBN 978-4873763132 
  28. ^ a b c d 「松坂慶子『最後の醜聞』」『週刊新潮』1986年11月20日号、新潮社、46-47頁。 
  29. ^ a b 「大女優、降臨! 松坂慶子インタビュー」『映画秘宝』2003年3月号、pp. 82-83
  30. ^ 深作欣二、山根貞男『映画監督 深作欣二』ワイズ出版、2003年、418-420頁。ISBN 978-4898301555 
  31. ^ a b c d 「新作情報」『キネマ旬報』1985年10月上旬号、p.104
  32. ^ a b c 火宅の人|東映ビデオ株式会社
  33. ^ 「松坂慶子『火宅の人』ロケ密着インタビュー 長崎県五島列島にて 『こんど、大人になって初めて肌を焼くんです。キョーフね。』」『週刊明星』1985年12月5日号、集英社、27-29頁。 
  34. ^ a b c d 「興行価値」、『キネマ旬報』 1986年4月上旬号、pp. 172-173
  35. ^ a b c d “東映社長岡田茂氏―ことしは行ける(談話室)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 7. (1986年5月24日) 
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  37. ^ 荒井晴彦責任編集「この悔しさに生きてゆくべし ぼうふら脚本家 神波史男の光芒 神波史男に寄せて 『脚本家の背中』 文・深作健太」『映画芸術2012年12月増刊号』、編集プロダクション映芸、379-380頁。 
  38. ^ 「必見ファンタスティック映画カタログ 2010年、映画祭はコレを観ろ!予告編 『クロネズミ』深作健太INTERVIEW」『映画秘宝』2010年4月号、洋泉社、73頁。 

外部リンク

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