丹波 哲郎(たんば てつろう[1]、1922年〈大正11年〉7月17日[1][2] - 2006年〈平成18年〉9月24日[2])は、日本の俳優・声優・芸能プロモーター・心霊研究家。
東京府[1]豊多摩郡大久保町出身[3]。身長175cm。俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ名優[4][1]である。テレビ番組でも活躍し、映画製作にも携わった。丹波プロダクション[注釈 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけた。宮内洋は丹波の一番弟子である。
心霊学と霊界の研究、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎の大霊界』はベストセラーとなった[4]。
来歴
大久保町字百人町にて丹波家の三男として生誕。祖父は丹波敬三[3]、父はその二男で、東北薬専卒の陸軍薬務官で日本画家の丹波緑川(次郎)[5]、親戚には従弟で音楽学者の丹波明、元大審院院長の林頼三郎らがいる。哲郎の生家は祖父の別邸を父が譲り受けた屋敷[5]。家柄は系図を遡ると、天平の昔から伝わる薬師の名家で[3]、『医心方』を著した丹波康頼にたどり着く。
成城中学から陸軍幼年学校を受験するも落第し、仙台の二高を二度受験するも不合格。親戚の林頼三郎が総長を務める中央大学法学部英法科へ無試験で入学したという。在学中に第1回学徒出陣し佐倉の東部64部隊(近衛歩兵第5連隊)に入隊[3]、しかし態度が大きいという理由で普通の3倍程の体罰を受けることもあった[6]。立川陸軍航空整備学校で整備士官としての教育を受け、上官には川上哲治がいた(詳細は#人物を参照)。
航空隊に在籍していたために特攻隊員になる可能性もあったが[7]、なることなく立川で終戦を迎える。戦後の1945年大学に復学し[3]、学業の傍らGHQ通訳のアルバイトをしていたが[3]、実際には英語は半分程度しか理解できず[8]、トイレに逃げ込み、仕事の終わる時間を待っていたという。またダグラス・マッカーサーには2度ほどエレベーターの中で遭遇したと語っている[9]。
1948年に大学を卒業[3]。卒業後は団体(油糧砂糖配給公社)職員となるも俳優を志し[3]、1950年創芸小劇場主宰を経て劇団文化座に加入後、1951年春勧誘されていた新東宝に入社[3]。芸名はこの時に付けられ、「新東宝が勝手に(芸名を)決めていた」と語っている[10]。丹波の態度が大きいことが問題とされ[3]、1年以上役が付かないでいたが[3]、1952年に『殺人容疑者』に主演級の役でデビューする。もともとこの役は当時文化座に在籍していた山形勲にオファーがあったものだが、山形が骨折しており応じられないことを丹波が代わりに伝えに行ったところ、プロデューサーから「お前が良い。お前に決めた」と言われ決まったものであった[11]。
陰のある二枚目としておもに敵役・悪役で活躍し[4]、1956年公開の柳家金語楼の主演映画『金語楼の兵隊さん』の助演をきっかけに金語楼劇団へ誘われ舞台の客演もこなす多忙な状況だったが[12]1959年、丹波の「新東宝の作品のレベルが落ちている」との発言が記事となり、社長の大蔵貢は謝罪すれば許す考えでいたが[3]、丹波は所信を曲げず、映画『双竜あばれ雲』を最後に同6月新東宝を退社[3]。フリーランスとなり、五社英雄とコンビを組み[3]、1960年に放送された『トップ屋』、1961年にはニュー東映で映画『霧と影』、『白昼の無頼漢』に主演した。五社とは盟友となり、1969年の『御用金』にも出演している。
『豚と軍艦』(1961年)、『丹下左膳』(1963年)、『暗殺』(1964年)、1963年の時代劇『三匹の侍』などでスターとしての地位を確固たるものとし[4]、荒くれ者の漁師に扮した『ジャコ万と鉄』や、時代劇映画・ギャング映画・任侠映画など、幅広く出演している。早くから海外の映画作品にも出演しており、1961年にはキャロル・ベイカー主演のアメリカ映画『太陽にかける橋(英語版)』、イギリスでは『第七の暁』(1964年)と『007は二度死ぬ』(1967年)に出演。国際的に認知され、海外においても活躍した[4][注釈 2]。
1968年から1973年まで放映されていた『キイハンター』では黒木鉄也で主演した。黒木のイメージは『007は二度死ぬ』で丹波が演じた、タイガー田中の人物像も反映させている。最盛期の『キイハンター』は視聴率30%を越える人気ドラマとなり、当初1年の予定が5年に延ばされた[14]。丹波プロダクション[注釈 1]・俳優養成所「丹波道場」を設立して後進の育成も手がけ、宮内洋は丹波の一番弟子である。『キイハンター』終了後も、丹波は同時間帯で『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』『Gメン'75』と出演して、TBS系土曜21:00の顔となる。
前後して1973年には『人間革命』で毎日映画コンクール男優演技賞受賞。1974年には『砂の器』の今西刑事役では、人情味のある重厚な演技が高く評価された[4]。1978年、原田雄一との連名で『砂の小舟』を製作(日本公開は1980年)、カンヌ国際映画祭にも出品された[15]。1973年、「丹波プロダクション」設立。
1980年の『二百三高地』で第23回ブルーリボン賞助演男優賞と第4回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をそれぞれ受賞した。
生涯の研究分野であった「死後の世界」を描いた映画を作成・出演し[4]、300万人以上の動員を得る。1994年11月には舞台で「大霊界」を表現し、映像では得ることのできない空間を表現し話題を呼ぶ。「霊界はすばらしいところ」と発言していた。
2000年、『十五才 学校IV』で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞し、『利家とまつ』(2002年)、『義経』(2005年)などで、渋みある演技をみせていた[4]。
2005年2月から約2か月間、インフルエンザと虫垂炎のために入院し、それが原因でひどく痩せ、健康が懸念されていた。2006年(平成18年)9月24日午後11時27分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。84歳没。幾度となく共演している千葉真一は「(亡くなる)1年ぐらい前に『キイハンター』をまたやりたいね、と話していた。お元気だったのに…」とTBSの電話インタビューに答え、その死を惜み哀悼の意を表した。
第44回ゴールデン・アロー賞の芸能功労賞が贈られ、9月30日に青山葬儀所で行われた告別式には、安部譲二、稲川淳二、岩田廣一、京本政樹、黒柳徹子、ケーシー高峰、紺野美沙子、せんだみつお、高井英幸、髙嶋政伸、谷隼人・松岡きっこ夫妻、司葉子、鶴見辰吾、長門裕之、夏木陽介、西田敏行、原田大二郎、藤田三保子、由美かおるの他、2,000人のファンが参列した。棺の中には、「ハードボイルドらしく送り出したい」と喪主を務める長男の丹波義隆の意向で、『キイハンター』、『Gメン'75』で被っていた黒のショートハットを東映東京撮影所から京本政樹が運んできた。通夜の開始では『Gメン'75』のテーマ曲が、告別式では『キイハンター』のテーマ曲や丹波が愛した「赤とんぼ」などの葬送曲が流れた。『Gメン'75』の関屋警部補を演じた原田大二郎とGメン'75スペシャルで結城警部補を演じた京本政樹、『HOTEL』の赤川一平を演じた高嶋政伸や鶴見辰吾らが、遺族と一緒に出棺した。義隆が「父はあの世とこの世は地続き。電車で隣町に行くようなものといってましたが、いざ、その日を迎えるとはっきり言って寂しいです」「おやじから見たらだらしない息子だと思われるかもしれないが、これから父の言う“電車の乗換駅”に父を見送りに行ってきます」と挨拶すると、弔問客からはすすり泣く声が漏れた。ファンから「丹波哲郎、日本一」「ありがとう!」の絶叫がこだまし、原田大二郎は目を真っ赤にして最敬礼のポーズで見送った。
無宗教であり、戒名はない。墓所は多磨霊園。
2007年7月17日、25年間交友のあった霊能者の稲川りよ子によれば、死後の丹波から、生前の約束通り霊界通信があり、「世のため、人のために尽くし明るい笑顔で人生を頑張ったのちには、それに見合った素晴らしい世界があります」との旨のメッセージが送られて来たという[16][17]。葬儀に参列した江原啓之は、丹波の霊が棺の上に座って、参列者をニコニコしながら眺めているのが見えて、笑いを堪えるのに必死だったなどという逸話もある。
人物
人柄
- 出演作を多く手がけた中島貞夫は「外見はバタくさいが義理堅い日本の男で、ワンシーンの友情出演だけなのに京都へ来てくれたこともあった。車代を渡そうとしたら『おれはそんなつもりで出たんじゃない』と泣いて怒られた」と語り[4]、石井輝男はもっとも信頼出来る俳優のひとりとして、文句をいわず、ひたすら言われたことを黙々と演じる丹波をいつもほめていた[18]。
- 『007は二度死ぬ』の撮影中、毎日遅刻してくる丹波にショーン・コネリーがしびれを切らし、撮影時刻を守るよう注意するため、丹波のホテルの部屋を訪れたが、丹波は「ショーン グッモーニン 主役のショーン自らが迎えに来てくれるんだから、すぐに現場に行かねば、すぐ用意をして行くから、待っていてくれ。」などと得意の調子でやりくるめ、皆が苦笑したという[19]。
- 裕福な家庭に育ち1949年に結婚した貞子夫人もテーラー(オーダーメイド紳士服店)を営み、自身も公団職と闇市卸副業から社会人演劇同好会を運営し、育ちの良さと素地から不義理や道理の通らない事を嫌い、監督など目上立場であっても反目する一方[注釈 3]、和解すると信頼には誠実をもって応えていた様子は、晩年の2004年に刊行した、ダーティ工藤のインタビューによる実質的自伝『大俳優 丹波哲郎』(ワイズ出版)に綴られている。前述した義理友情にまつわるもの、俳優養成所「丹波道場」の経営失敗とは一方で、俳優業経営は厳格で海外出演の経験から映画TVドラマプロデュースについても同様だった。
家族
- 息子に俳優の丹波義隆と森正樹。
- 妻は北一輝のいとこの娘にあたる[20]。公団職員時代の1949年に結婚。貞子夫人は1958年小児麻痺発症から車椅子生活を余儀なくされたが多忙を極めるなか哲郎が献身介護していた。しかし哲郎よりも先に逝去した[21]。
- 妻の兄の大蔵敏彦は弁護士で、四大死刑冤罪事件の一つ島田事件で被告人の無罪を勝ち取った人物である[22]。
- 杉並区西荻窪に永住したが、俳優として確固たる地位を築いた矢先、愛人と隠し子がいるとの騒動が勃発。しかし「こんなことはタクシーの運転手さんも知っているよ」とあっさり認めてしまった。葬儀が行われた際、愛人とその子供(元女優の江畑絢子と息子である森正樹)が弔問に訪れた。義隆は気遣って席を外し、二人に別れの一時を与えた。
エピソード等
- 丹波は基本的には自ら売り込みをせず、キャスティングされた時点で、演じる役は自分に合う役であるはずなので役作りは一度もしたことがなく、テレビの前の観客は意識せず、目の前に居る監督を喜ばせることのみを考えていると語っていた[23]。
- 『丹下左膳 (1963年の映画)』で隻眼隻腕の剣士、丹下左膳を演じることになったが、殺陣がやりにくいとの理由から、設定上右手、右眼が無いところを左手、左眼がないことにして刀を右で持つ、という提案をし、世間を驚かせた[4]。歴代の丹下左膳の中でも右手なのは丹波の作品のみである。
- 普段セリフを覚えてこなかったり、遅刻をすることで知られている丹波だが、『砂の器』で共演した森田健作によると、同作に出演時にはセリフもしっかり入っていて、遅刻をすることもなかったという、また森田は丹波から「もう少しセリフを覚えた方がいい」と注意されたという[24]。
- 『仁義なき戦い 代理戦争』では写真だけの出演(モデルは田岡一雄)もあった。『人間革命』でシリアスな宗教家を演じた時期に、石井輝男が監督をした『ポルノ時代劇 忘八武士道』にも主演していたと著書で述べている。同作の監督・石井輝男とは新東宝時代の僚友だが、お互いに東映に移ってから協業が増えて親しくなり、石井晩年の低予算自主制作作品にも付き合っている。また、公式サイトでは、同じく『人間革命』の公開時期に降旗康男が監督する『色悪魔』(『色魔狼』の間違いと思われる)にも出演していたため、東宝に苦言を呈されたというエピソードを語っている[25]。
- 丹波は先輩、後輩、監督から仕出し(エキストラ)、社長から平社員まで、誰とでも平等に、分け隔てなく接することを徹底していた。そのため態度が大きくて偉そうだと言われることもあるが、それは「地のまま」だからだと語っている[25]。ただ、当時東映の大スターであり先輩でもあった鶴田浩二に対して丹波が「おーい、鶴田!」と呼んでいたことがたびたびあり、鶴田は丹波よりも年下ではあるが、役者としては丹波よりも先輩であったことからこの事に鶴田は苦手にしていたこともあった[26]。
- 義隆は丹波より「お前は現場に入って監督にどう挨拶するんだ?」と聞かれ、「おはようございます、と言います」と答えたところ、「じゃあ、監督だけじゃなく、エキストラや掃除の人にも、同じように挨拶をしろ」と教えられたという。「えこひいきはダメだ。あと、同じ監督と一緒に仕事をしようと思うな。こびへつらうな」と強く言い聞かされたという[27][信頼性要検証]。
- また、せんだみつおら曰く、お茶目な一面もあったという。『柳生一族の陰謀』で萬屋錦之介との立ち回りのシーンの撮影の時に丹波は予定の時間を1時間ほど遅刻し、現場に現れた時の丹波の第一声が「おう!錦ちゃん、遅れた、ワリい!」と軽いノリだったという[28]。また共演した女優らの尻を触ったり[28]、自分の台本を見て初めて入るスタジオを間違えたことに気付き、何も無かったようにその場を立ち去ったということもあった[28]。
- 遅刻は他にもあり、仲代達矢によれば「スターは遅く来るもんだ。9時に始まるなら10時に入ればいい」などと言って遅れて現場入りすることがあったという。しかし小林桂樹と東宝の作品で共演した際、同じように遅刻した時に小林に「東宝では時間通りに来い!」と怒られたという(当時の東宝では時間には厳しかった)[29]。
台本を覚えてこないということ
- 丹波は台本を読まないことで知られ[18][30]、この丹波の特異なスタイルのため、机の上や壁、共演者の背中あるいは小道具である手元のミカンにまでカンニングペーパーが準備されていた。『Gメン'75』の役の名前を覚えるのが面倒であると、大きなミカンに出演者の役柄の名前を書いていたが、蜜柑が食べられてしまったということや[31]、茶を飲む時のワンショット撮影の時に湯飲みの中にカンニングペーパーを入れ、その中のカンペを読みながら茶を飲む演技をしていたが、湯飲みの角度を上げすぎてカンペが落ち、撮り直しになったというエピソードもある[32]。その回の犯人が誰なのかわかっていなかったり、違う回の台本を間違えて持ってきたこともたびたびあったという(谷隼人の談)[33]。
- 上述『柳生一族の陰謀』の撮影の時にはちゃんと台本を持って来たが、その台本は郵送で届いたままでまだ未開封の状態だった。同作品の監督の深作欣二に「自分の台詞くらい家で覚えて来てよ」と言われると「俺は仕事を家に持ち込まない主義なんだよ」と返したという[28]。
- 台本を読まずに本番に臨むことで知られていた丹波だが、本人は「記憶力はいい」「俺はきちんと頭に入ってるんだよ」「俺は覚える、と自分に自信がある」と言って本番ではスラスラ台詞が出て来ていたと述懐していたが、一方で「終わった途端に忘れちゃう」とも話しており、これを「一種の自己催眠だね」としている。またこのようなことを自ら「面白おかしい伝説的なジョークに近いもの」だとも話している[34]。
- 仲代達矢によれば、台詞は「1ページ(の台本を)3秒で覚える。長い台詞は、ここで(ページを)めくるというのが頭に入ってる」自分独特の覚え方を話していたが、ある日台詞を間違えた時に「(台本)1枚めくるのを2枚めくっちゃった」と言われたという[29]。
- NHKの大河ドラマ『春日局』に出演した際には、数ページにも及んだ橋田壽賀子のセリフを見た丹波は、橋田が自分に挑んできたと考え、セリフを完璧に覚えてきたという[35]。
- 恵俊彰は『時空警察』で丹波と共演しているが、伝説そのままに、丹波が本当にセリフを覚えてこない事にびっくりしたが、それを感じさせない丹波独特のセリフの間合いの絶妙さに、感服したという。
- 初の外国映画作品となる『太陽にかける橋』(1961)に出演した際には、セリフ(日本語と英語)は「丸暗記だったね」と述べている[36]。『ザ・ヤクザ』(1974)には高倉健演ずる主人公の義兄の田中五郎役で出演し、撮影が行われたが、高を括って一夜漬けで撮影に臨んだことと、当日の撮影が事前に知らされていたのとは別のシーンだったことなどでスラスラとセリフが出ず、撮影が中断。丹波は降板となり、『太陽にかける橋』で丹波の同僚役だったジェームス・シゲタが急遽代役に立てられて来日し撮影された。ただ、撮影スケジュールが逼迫していたために当初より田中の登場シーンが少なくなっており、完成した作品を見た丹波は、あのくらいの台詞の量なら覚えてもよかった、と述べている[37][38]。
『Gメン'75』
- 夏木陽介の著書によれば「丹波ちゃんとは、同じ警視役で対等に付き合っていた[39]、また丹波の性格を余りにも大らか過ぎたと回想し、全く台詞を覚えてこないことを夏木が注意すると、「俺は家庭に仕事を持ち込まない主義だ。」と返答されたと回想した[40]。
- ある日Gメン本部の屋上での夏木とのシーンの撮影に際し、丹波がいくら待てど現場に現れず、夏木が怒って帰ってしまい、次の日同じシーンの撮影では、丹波が現場に着いたら連絡をと、わざと夏木が遅れて現場に現れると、夏木を待っていた丹波が「よく来てくれた、俺は人を待たせるのも、待つのも平気なんだ。」と言ったという[41]。
- 若林豪は丹波について、「言われているようにセリフをまったく覚えてこない。なんていいかげんだと皆さんが思うけど、それでも映像になると、誰よりも絵になる。天才でしたよね。」とコメント[42]、また最終回のパリでのロケの際に、丹波に誘われルーヴル美術館へ行ったが、丹波があっという間に外に出てきて「ここは絵ばっかりだ、帰るぞ」と言ったエピソードを明かしている[42]。
- 岡本富士太は、丹波が『Gメン75』の放送開始後しばらくの間番組を見ていなかったらしく、何話も放送された頃になり、「今度のオープニングはお洒落でいいじゃないか。」と話し今まで放映を見ていなかったのか驚いたと話した[43]。
- 丹波の乗った車が交通違反で停められた際、丹波は警察官に「Gメンの丹波だが」と対応した。この時の違反はスピード違反と語られることが多いが、丹波は一方通行の逆走だったと、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した際に語っている[44]。
池波作品
『鬼平犯科帳』の初映像化の際には、原作を読んで是非とも長谷川平蔵役を演じたいと、自ら名乗り出たが、既に長谷川役が松本幸四郎に決定していたため実現しなかった [35]。
『鬼平犯科帳』では舞台化の話が出たが、丹波はこれを断り[45]、『真田太平記』の舞台化の話の際には丹波の方から真田昌幸役での出演を希望したが、鬼平の舞台への出演を断ったため、池波から丹波の出演が拒否されたと話していた[45]。
丹波は池波作品の真田昌幸について、「真田昌幸は喜劇的で助平さがにじみ出ている部分が自分に合っていた。」とコメントしていた[23]。
『真田太平記』で真田昌幸を演じた丹波について、共演した草刈正雄は、丹波がこの役にかなり入れ上げており、今までにないほど、真剣に役に挑み[46]、長台詞も含めて台詞を完全に覚えていたと語っている[47]。
また自分から売り込みをしないことで有名な丹波だが、『真田太平記』のテレビ化の際には、自ら池波に直訴し役を得たとの噂があった、そして丹波は共演にあたり、渡瀬恒彦と草刈に刀をプレゼントしたなどのエピソードを、共演の草刈が明かしている[46]。
さまざまな交友
- ワンマン社長としてその名を知られた松竹の城戸四郎を、影でシロウちゃんと呼んでおり、不在の本社を訪ねては「シロウちゃん、いるかい」とふざけていたら、偶然本人がいたことで、城戸と言い争いになったこともある(キネマ旬報「大放言」より)。ただ、城戸を偏屈だが愛すべき人物として敬愛してもいた。
- 著書で「軍隊時代に上官だった川上哲治からリンチを受けていた。終戦後に川上が『あのときは仕方なかった』と頭を下げて廻り、巧みな処世術をするのを見たとき、川上の本性がわかった」と述べている[48]。
- 丹波プロダクションに所属し、『キイハンター』『鬼平犯科帳』などで共演した野際陽子を妹のように可愛がっていた[18]。佐野史郎はドラマ『ずっとあなたが好きだった』で野際と共演していた時に、丹波から「陽子をヨロシク!」と声をかけられている[18]。
- 黒柳徹子は丹波曰く芸能界で一番古い友達で黒柳司会の徹子の部屋には10回以上出演し[49]、10月16日、17日の2日間丹波が出演した回を振り返り追悼特集が行われた[50]。
心霊研究など
- 心霊学と霊界に造詣を持ち、霊界の存在を確信していた[4]。千葉真一の話によると、『キイハンター』の撮影中にも雑談の中でしょっちゅう霊界の話をしていたという[51]。多数の著作をものし、年間20回以上の講演を行っていた。本人もロンドンのホテルで中国人女性の複数の霊に遭遇しており[52]、これが死後の確信に変わる出来事だったと話す。「あの世が本当の世で、この世は仮の世に過ぎない。だから死んだら『誕生日おめでとう』みたいにケーキにろうそく立てて拍手してやらなければいけない」ということを言っていたほどである[7]。子供の頃には、腐ったまんじゅうを食べて死にかけた時に、母親が自分の傍で自分の名を叫び続けているのをすぐ真上で見ていたことがあったと話していた[33]。なお、本人の公式サイトも霊界についてまとめたサイトになっている。
- 霊界の世界に興味を持ち始めたのは、ある俳優仲間の死であった。ある俳優仲間がガン宣告され、毎日のように「死ぬのが怖い」と連呼していたことから、彼の不安を和らげるために死後の世界について徹底的に調べようと思ったことがきっかけであった[53][54]。
- 丹波のマネージャーを務めた東島邦子を「会長」、丹波自身を「先生」または「霊界の宣伝使」、正会員を「天使」として1986年1月に教育団体『来世研究会』を設立。丹波曰く「霊界の実在を知り、霊界の実相を深く学ぶことで現世での正しい生き方を見出し、人のために尽くし、自己の人格および霊級を高めることでより良い来世への進歩を目的とする団体」であり、霊界研究の成果発表として書籍出版、講演活動、映像化、月刊情報誌発行を精力的に展開した。霊視や交霊、心霊治療など、いわゆる霊能力の存在を全面的に公認し、数多の不思議体験を持つ美輪明宏や稲川淳二などと深い交流を育んだ一方、団体発足当初から宗教との結び付きを徹底的に否定していた。
- その他、催眠術への造詣も深く、自ら催眠術を操れたという。しかし『Gメン'75』などで共演の夏木によれば、実際に丹波の催眠術に掛かった人は見たことがない、丹波に気を遣い、催眠に掛かったふりをしていたのかもしれないとしている[55]。また自ら「催眠術は馬鹿と子供には掛からない」と話していたという(丹波義隆の談)[33]。
- 『人間革命』出演後、創価学会の大会に招待された際、創価学会の活動をさかんに顕揚する講演をした後で「南無妙法蓮華経」とすべきところを「南無阿弥陀仏」としめくくり、場内を騒然とさせた。丹波は著書に、自分のオッチョコチョイな性格を示す逸話として、この失敗談を載せている。
- 息子の義隆にアメリカ映画の『ゴースト/ニューヨークの幻』を勧められたところ、観に行き「本当はああいう映画を作りたかったんだ」と話したという[7]。
- しかしその義隆は父について、本当は誰よりも臆病で、死を怖がっていたんじゃないかと思うと話している。丹波の母親が亡くなった時には母の遺体にすがり付いて嗚咽しており、「おめでとう」と言う余裕は無かったという[7]。そして1997年に自分の妻が亡くなった時には母親が亡くなった時以上に号泣し、更にこの時を境に霊界への言及も止まったとしている[56]。
その他
- オロナミンCの初代CMキャラクターは、当初大村崑ではなく丹波になるはずだった。事実、丹波が侍姿で製品を持った宣材ポスターが大村の資料館に残されている。
- 嘉門達夫は丹波の発言やキャラクターをもとにした楽曲『タンバでルンバ』を発表し、それが機縁となりTBSドラマ『結婚してシマッタ!』で丹波の秘書役として共演した。
受賞
出演
映画
テレビ作品
舞台
劇場アニメ
ゲーム
バラエティ
CM
ディスコグラフィ
- 「トップ屋」(作詞:白鳥朝詠、補作詞:五社英雄、作曲:沢田駿吾、東芝レコード、1960年12月発売)
- 「俺がやらなきゃ」(作詞:東逸平、作曲:植村亨、東芝レコード、1960年12月発売)
- 「元気健康一等賞」(作詞:丹波哲郎、作曲:ラッキーボーイズ、BMGビクター、1995年2月発売)
著書
- 以下は丹波の訳・解説
研究・評伝
-
ゲーム
脚注
注釈
- ^ a b 同社はその後、ラヴァンスと社名を代えた。
- ^ 三船敏郎が同時期にオファーされていた『グラン・プリ』への出演で『007は二度死ぬ』を断ったため、そのタイガー田中役を丹波が演じることになった[13]。
- ^ ときには不遜な態度や大言壮語な放言を嫌われ、丹波とは距離を置いていた俳優仲間もいたことを土屋嘉男らが映画作品の回想インタビューなどで示唆している[要出典]。
- ^ 当初月光役が決定していたが、丹波のスケジュールが空けられず、一度降板した(月光は成田三樹夫が演じた)。しかし田沼役を演じる予定であった石原慎太郎のスケジュールが合わず、急遽丹波が田沼役で出演した[59]。
- ^ 写真のみ。
- ^ 『Gメン'75』メンバーとして友情出演。
- ^ このほか製作・企画・原案・脚本(溝田佳奈と共同)・総監督。
- ^ このほか脚本・製作総指揮。
- ^ オリジナルビデオ作品。
- ^ 写真での友情出演。
- ^ ※欠番
第31話「男と女のいる特急便」
第162話「女子大生と警官の異常な関係」
第163話「首のない女の人形」
第173話「大空からの脱出」
第336話「エレベーター連続女性殺人事件」
Gメン75(第336回)エレベーター連続女性殺人事件
出典
- ^ a b c d e f g 東宝特撮映画全史 1983, pp. 531–532, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
- ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「7月17日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、193頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本映画人名事典』 男優篇 下巻、キネマ旬報社、1996年、151頁。全国書誌番号:97020371。
- ^ a b c d e f g h i j k “俳優丹波哲郎さん死去 国際的活躍、死後の世界にも関心”. Asahi.com. (2006年9月25日). オリジナルの2018年8月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180829072047/http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200609250336.html 2013年3月13日閲覧。
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参考文献
外部リンク
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