舛田 利雄(ますだ としお、1927年〈昭和2年〉10月5日[1][2] - )は、日本の映画監督、脚本家である。兵庫県神戸市出身[1]。
経歴・人物
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多感な青年期 - 映画界へ
1944年に兵庫県立第一神戸中学校(現:県立神戸高校)から、新居浜工業専門学校(現:愛媛大学工学部)に進学するも[1]、1945年7月に同学校が行う軍事教練に反発し[要出典]退学処分になる[1]。その1ヶ月後に終戦を終え、大阪外国語大学ロシア語学科(現:大阪大学外国語学部)。へ入り直す。当時の舛田は、大の軍人嫌いの少年だったという。
大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)ロシア語学科卒業。大学卒業後は教師になるつもりであったが、名作フランス映画の再上映を観て感動し映画に関心を持つ。映画監督を目指し、大学卒業後に上京。
上京後の1949年より新東宝シナリオ塾に入塾しシナリオ学を学ぶ。その翌年1950年8月に新東宝助監督部に入社。中川信夫、井上梅次といった監督の下で助監督として働きながら[1]、自分でもシナリオを書く。
新東宝・日活・助監督時代
1954年、舛田は新東宝に入社した時、井上梅次について助監督時代を過ごした。その後、同時期に製作活動を再開した日活に移籍[1]。助監督として井上、市川崑、久松静児らに師事する[1]。
1957年、石原裕次郎主演、井上梅次監督の『鷲と鷹』で助監督を務めたのち監督に昇進。翌年1958年に公開した『心と肉体の旅』で監督デビューを飾る[1]。脚本も兼任。監督昇進時、舛田はまだ29歳であり当時の映画界としては異例のスピードであった。
以後、『赤い波止場』、『今日に生きる』など充実した娯楽作を撮り続け、『錆びたナイフ』をはじめとする石原裕次郎主演作品を最も多く(計25作品)演出した監督として日活を支え、日活アクション映画全盛期に数々の作品のメガホンを執り「日活の舛田天皇」とも言われた。
助監督時代には井上梅次の邸宅に一時期、下宿していたこともある。井上の邸宅で下宿しながら、何本か映画のシナリオの「下書き」を書く。舛田の映画の脚本は、井上のシナリオの下書きをして身についたものが、後に役に立った。舛田は4歳年上の井上のことを「梅さん」と呼ぶ。
日本映画界のヒットメーカー
1969年に日活を退社し、フリーになる[1]。
1970年、黒澤明が諸事情で降板した20世紀フォックス制作の日米合作による戦争大作映画『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を深作欣二と共同で務める[1]。当時、ハリウッドから降板した黒澤に代わる日本側監督のオファーを日本映画界の名だたる名匠、巨匠らが断るなか舛田自身にもオファーがあり一度は断っていたが、しばらくして再び舛田のもとにオファーがあり「面白そうだから」という理由で日本側監督を引き受け話題となる。
以降は、池田大作原作の映画『人間革命』と『続・人間革命』(脚本家・橋本忍の推薦で参加している)、五島勉原作のパニック特撮『ノストラダムスの大予言』、戦争大作『二百三高地』、『大日本帝国』、『日本海大海戦 海ゆかば』、『零戦燃ゆ』など、大作映画を任される機会が増えていく。
さまざまなジャンルの作品でも常に安定した作風にまとめ上げる確かな演出の腕を買われ、さらに手がけた作品がどれも興行的にも成功したため日本映画界において実力派の映画監督として娯楽作品をコンスタントに手がけてきた。
また『大都会』などの石原プロ作品をはじめとしたテレビ映画の演出も数多く手掛けるほか、筒井康隆作品の初映画化である『俺の血は他人の血』以後、日本SF大賞を受賞した小松左京原作の映画化作『首都消失』など、SFや特撮映画の演出も多い。
劇場アニメの監督・監修
1970年代には既にジャンルを問わず数々の劇場大作映画の仕事を手掛け断固たる立場を築いていた舛田であるが、1974年から放送が開始されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』に監修としてクレジットされている。
本作の企画段階当時、企画・原案・プロデューサーを務めていた西崎義展が従来のアニメーション作品とは一線を画す高年齢層の鑑賞にも耐えうる劇場映画並のリアリティある作品作りを目指し、そういった製作体制の影響と当時の業界においては、アニメーション作品が格下と見られる時代であったため、市場への売り込みを考慮したセールスアップという双方の目的から劇場映画監督である舛田を制作に誘ったことがきっかけである。
こうして『宇宙戦艦ヤマト』のテレビシリーズへの参加を快諾した舛田は西崎から監督とストーリーの監修を依頼されたが、撮影が早まった映画『ノストラダムスの大予言』の撮影のため、企画会議に3度出席しただけで実際にはテレビシリーズには最終的には直接タッチはしなかった。
西崎プロデューサーら制作スタッフの熱意とは裏腹に1974年より放送されたテレビシリーズは商業的に失敗に終わったが、放送終了後に日本国外輸出向けにテレビシリーズを再編集し劇場版として公開する話が持ち上がる。西崎は当初これを最後にアニメから手を引き、ファン向けに1週間だけ限定で劇場公開するつもりだったという。
この劇場版の制作にあたり再び舛田に協力を仰ぎ1975年5月、劇場向けの再編集を開始。当初は5時間の長尺だったが、舛田の監督の下、ヤマトの艦長・沖田十三の物語に焦点を当てる方針で必要最低限の部分を除きそれ以外は丸ごと削除するなどして約2時間を短縮して完成。こうして1977年に公開された劇場版『宇宙戦艦ヤマト』は3時間と長尺ながら、周囲の予想を裏切りアニメーション映画の常識を破る大ヒットを記録する。
翌年1978年には完全新作として『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開され、前作を上回る大ヒットとなって「ヤマトブーム」と呼ばれる社会現象が巻き起こる。この作品で舛田は脚本・監督として積極的に制作に参加したため、舛田の意見が随所に反映されており、特にクライマックスの展開は舛田の日活時代の監督作である『零戦黒雲一家』(1962年)に酷似している。また、本作に登場する空間騎兵隊の斉藤始は舛田が発案したオリジナルキャラクターである。
その後、1980年には自身が手掛けた戦争大作『二百三高地』と同年同日に公開された「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」の劇場版第3作『ヤマトよ永遠に』でも脚本と監督を手掛け、両作品とも大ヒット。実写大作映画とアニメーション大作映画というジャンルの枠を超えた作品を同時に手掛け共にヒットに導くという前例のない偉業を成し遂げ、「明治から未来まで撮る男」として話題となる。
1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』と2009年公開の『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』では監督から「総監修」という立場に回り(『完結編』では従来通り脚本も手掛けている)、「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」を陰で支え続けた[3][出典無効]。
『宇宙戦艦ヤマト』以降もアニメーション映画に参加し、1979年公開の劇場版『海のトリトン』では監修を、1982年公開のSF戦争アニメーション映画『FUTURE WAR 198X年』で勝間田具治と共に監督。1985年公開のSFアニメーション映画『オーディーン 光子帆船スターライト』を総監督。1992年から1994年にかけて制作された「劇場版 三国志シリーズ」を監修し、1995年から発売されたOVA『YAMATO2520』でも監修を手掛けた。
湯布院映画祭
2008年、第33回湯布院映画祭にて「何だって面白くしてやる! 特集:舛田利雄のあくなき仕事」として『赤い波止場』『完全な遊戯』『二百三高地』など10本の監督作品が8月28日から8月30日の3日間で、特集上映される[4]。本人出席のシンポジウムも開催され元気な姿を見せた。
舛田が手掛けた作品への出演が多い俳優の丹波哲郎は自身の著書[要文献特定詳細情報]で「舛田はとにかく喧嘩が強い」と書いており、いつも出演するのが楽しみな監督の一人として挙げていた。
助監督時代
監督・監修作品
映画
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代以降
テレビドラマ
テレビアニメ
テレビドキュメンタリー
- 木曜スペシャル ペンタゴン 米ソ軍事戦略の全貌(NTV) - 構成・演出
教育ビデオ
- 実録、管理職。Do your best(1991年、社員教育研究所) - 監修
ビデオアニメ
コマーシャルフィルム
脚本
本節では舛田が監督等を兼任していないもののみを挙げる。
脚注
参考文献
外部リンク
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