ハナ肇
ハナ 肇(ハナ はじめ、本名:野々山 定夫(ののやま さだお)、1930年〈昭和5年〉2月9日 - 1993年〈平成5年〉9月10日)は、日本のドラマー、コメディアン、俳優。コミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のリーダーであり、同バンドのドラマーでもある。 東京府北豊島郡(現在の東京都豊島区)長崎町生まれ。工学院土木科(後の工学院大学専門学校)を中退した。1990年10月13日、特選校友として学長より証書を授与され卒業を認められる。 妻は、結婚当時日活のスター女優だった島村葉子。かつて阪神タイガース、埼玉西武ライオンズに在籍した元プロ野球選手の桟原将司は又甥に当たる(ハナの兄が桟原の祖父という関係である)。 人物幼少・青春期長崎町要町東三丁目で水道局鉛管工の野々山錠太郎とツエの息子として生まれる。父の錠太郎は愛知県知多郡武豊町出身で、父母ともに再婚同士であった[1]。 長崎第二国民学校(現在の豊島区立要小学校)卒業後、家業を継ぐため旧制中学校の工学院土木科に通ったが1945年に戦災で学校が焼失した。このころ母の実家がある秋田県横手市に米を担ぎに行ったが、帰郷後に急性肺炎となって1945年12月から1946年2月頃まで入院生活を送る。 退院後、1946年から刀根勝美楽団でドラムを担当し、松井八郎に目をかけられる。 後の盟友・植木等はこの頃にハナ肇と知り合っていたことを、晩年に出演した『スーダラ伝説 植木等 夢を食べ続けた男』(NHKハイビジョン 2005年11月1日放送)のインタビューで明かしている。 クレージーキャッツ結成市村俊幸のバンド、南里文雄のバンド、萩原哲晶の「デューク・オクテット」、フランキー堺とシティ・スリッカーズのバンドボーイ、「浜口庫之助とアフロキューバノ」のジュニアバンドを経て、1955年に、自らがリーダーでありクレージーキャッツの前身である、「ハナ肇とキューバン・キャッツ」を結成した。後に、植木等、谷啓らが加わり、1957年に「ハナ肇とクレージーキャッツ」となった。芸名は、姓は興奮すると鼻の穴が大きく開くクセから、名はハナが敬愛したジャズピアニスト・和田肇(俳優・和田浩治の実父、歌手・淡谷のり子の元夫)に由来する。 コメディアンへ日本テレビ系『シャボン玉ホリデー』等のテレビのバラエティ番組や映画に数多く出演し、日本テレビ系『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』でハナがヒッピー姿で叫んだ「アッと驚く為五郎」は流行語にもなった。後年はフジテレビ系の正月番組『新春かくし芸大会』の名物であった銅像コントの銅像役としても知られた。志村けん以外のザ・ドリフターズの各メンバーの名づけ親でもある。 悪くいえば、非常にワンマン型のリーダーであったが、強力なリーダーシップを発揮したことで知られている。クレージーのみならず渡辺プロダクショングループ全体の大番頭的存在となり、創業者の渡辺晋・美佐夫妻もハナには全幅の信頼を寄せ、ハナも生涯渡辺夫妻を裏切ることなく尽くした。ただし渡辺プロダクション黎明期には、給料の前借りを繰り返すハナに美佐が手を焼いたこともあった。 植木等が人気絶頂のころは地方公演で「植木等とクレージーキャット」と誤記されることもあり、リーダーとして内心穏やかでなかったと伝えられるが、そんな扱いにも耐え(もっとも植木が人気に胡坐をかいて増長するような性格では無かったこともあるが)、グループのまとめ役としての役割を全うした。 俳優業俳優としては無骨で不器用なイメージがあるが、企画や才能への嗅覚は非常に鋭く、そのためもあって出演映画歴には初期の川島雄三、市川崑から晩年の市川準まで異才の傾向がある大物監督の名が並ぶ。特に松竹の若手監督だった山田洋次の才能をいち早く見抜き、『男はつらいよ』シリーズ開始以前、『馬鹿』シリーズなどで不動のコンビを組んでいた。ただし、山田はハナがライバル視していた渥美清とのコンビへとパートナーチェンジし、ハナは山田の師匠筋にあたる野村芳太郎監督(それ以前は渥美主演作を多く撮っていた)で何本かに主演したものの、まもなく松竹映画の主役スターの座から脇役専門へとシフトしていく。 山田の『なつかしい風来坊』、市川準の『会社物語 MEMORIES OF YOU』の2作品でブルーリボン主演男優賞などの賞を獲得している。作家の小林信彦は、ジャズ喫茶時代からクレージーキャッツを雑誌で取り上げ、面識ができてからは映画のブレーンもつとめた関係だが、ハナが批判的な文章をしっかりチェックしていて、初対面でいきなり詰問してきたエピソードを著書『日本の喜劇人』に記している。その後も、新作主演の後で顔を合わせると感想を迫り、言葉を選んで褒めると嬉しそうにしていたという。猪突猛進気味だが勉強熱心で要所では社会人としての礼儀はわきまえ、没後は「迷惑だが懐かしい人柄であった」と振り返っている。 晩年晩年には「ハナが渡辺プロの社長になるのではないか」との噂もあった[2]が、これは実現しなかった。 1985年にバンド「ハナ肇&オーバー・ザ・レインボー」を結成し、死去の1か月前まで活動していた(ドラム:ハナ、トロンボーン:谷啓、ピアノ:宮川泰、トランペット:中川善弘、ベース:江藤勲、テナーサックス:稲垣次郎)。晩年のハナはドラムの修練に意を注いでいたと伝えられ、安田伸はハナの通夜の席で「ハナは技量という点では、晩年になって真のドラマーになった」という主旨の発言をした。 1991年4月29日、紫綬褒章を受章した。 1993年2月、肝細胞癌に侵されている事が判明し、肝臓の1/3におよぶ摘出手術を受ける。その後順調に回復して退院するが、8月13日、自宅で吐血し食道静脈瘤破裂の診断を受け入院した。9月8日夜から容態が急変し、9月10日午前7時3分、肝不全と肺炎により、家族、谷啓夫妻、犬塚弘らクレージーのメンバーに見守られ、東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。63歳没[3][4]。最後までハナは自分が癌だということを知らされなかった。最後の入院の際は、日中には家族が付き添い、夜になると弟子であるなべおさみや元ザ・ピーナッツの2人が交代で看病し、そのたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。葬儀・告別式は東京都新宿区南元町の千日谷会堂で営まれ、弔辞は森繁久彌と植木等が読んだ。弔辞の最後を森繁は「あばよ!」、植木は「ハナ…さよなら…」でそれぞれ締めた。通夜の際に、植木がグループの解散を宣言した。この発言は翌日には撤回され谷啓も否定し、名目上は2023年10月の犬塚の死去にともないメンバー全員が死去するまでクレージーは存続していたが、実態としてクレージーとしてのメンバーの活動はハナの死と共に幕を降ろす形となった。墓所は板橋区総泉寺。 死去する数か月前まで、1994年に放映されたフジテレビのドラマ『夏子の酒』の収録に参加しており、1993年7月27日(火曜日)には『徹子の部屋』の収録に臨んでいる(ハナの没後、1993年9月13日に追悼番組として放送)。『夏子の酒』は収録途中で亡くなったことから、ハナの代役に山谷初男が立てられ全面的に撮り直された。なお、収録された映像の一部は総集編やハナの追悼特別番組などで紹介されており、ハナにとってはこの映像が事実上の遺作となった。 ギャグ
逸話・エピソード
出演作品映画主演作品
東宝クレージー映画
その他
テレビドラマ主演作品
その他
テレビアニメ
吹き替え
ラジオバラエティ
CM
ドキュメンタリー演じた俳優
エピソード朝日新聞出版「朝日新聞の用語の手引 新版」(2015年3月刊行)には「肇」の字解き(文字を言葉で説明すること)の例として「肇国のチョウ」とともに「ハナ肇のハジメ」が掲載されている[7][8]。 脚注出典
外部リンク
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