野菊の墓『野菊の墓』(のぎくのはか)は、伊藤左千夫の小説。1906年1月、雑誌「ホトトギス」に発表。 15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・戸村民子との淡い恋を描く。夏目漱石が絶賛。左千夫の最初の小説である。 左千夫の出身地である千葉県山武市の1991年(平成3年)5月に完成した伊藤左千夫記念公園には、政夫と民子の銅像が建立された[1][広報 1]。 また、この作品の舞台となったのは、千葉県松戸市矢切付近であり、同地区には伊藤左千夫の門人である土屋文明の筆になる野菊の墓文学碑が1965年(昭和40年)5月に完成した[2]。また、矢切の渡しは、政夫と民子の最後の別れの場となった所である。 あらすじ矢切の渡しに近い旧家の息子・政夫(数え年15歳・満13歳)は、体調のすぐれない母と暮らしており、従姉の民子(数え年17歳・満15歳)が市川から看護や手伝いに来ていた。二人はたわいのない遊びで無邪気に接していたが、年頃の男女が親しすぎることから近所であらぬ噂が立ち、母親は民子にあまり政夫へ近寄らないよう注意を与える。以来、民子は政夫から距離を置き、改まった口の利き方をするようになった。しかし、今まで意識していなかったのが、会うのを制限されたことで、かえって互いに恋心の芽生えを感じるようになる。 あるとき、村祭の前日、家の者が総出で野に出ることになり、政夫と民子は山畑の綿を取りに行くよう言い付かった。道中、政夫が野菊の花を採り、田舎風であっても粗野ではなく 可憐で優しく品格のある民子を「野菊のような人だ」と言う。二人はまた、手を取り合って山越えで水を汲みに行き、民子は政夫を「竜胆(りんどう)のような人だ」と言った。二人が夜遅くに家へ戻ると、男女の関係を持ったと疑われて咎められ、政夫は民子と引き離されて予定の期日より繰り上げで中学校へ発つことになった。矢切の渡しへ見送りに来た民子は、やつれて痛々しかったが、薄化粧した美しさが引き立って見えた。これが生涯の別れになるとは思わず、二人は一言も言葉を交わすことなく別れた。 その後、冬休みに帰郷した際には、民子は市川の家へ帰されており姿が無かった。二つも年上の民子との結婚は、嫂(あによめ)らに強硬に反対されていた。さらに翌年、民子は嫁に行ったと聞かされた。そして、初夏に電報を受け取り、民子が流産から体調が回復せず死んだと知らされた。母は「私が殺したようなものだ」と泣いて政夫に詫び、裕福な家との縁談を乞われても民子本人は拒否していたこと、それに対し、剛情を通しても政夫との結婚は母である自分が承知しないと突き付けて諦めさせたことを告げた。民子の遺品には政夫の写真があり、ここまで想っていたとは知らずに縁談を進めたことを、民子の実家の家族は後悔していた。民子の墓に参った政夫は、不思議と周囲に野菊が繁っているのを見る。市川へ七日通って墓一面に野菊を植えた政夫は、決然として学校へ戻って行った。 コミカライズ ・映像・舞台作品漫画
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脚注注釈出典
広報資料・プレスリリースなど一次資料
関連項目外部リンク
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