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愛川 欽也(あいかわ きんや、本名:井川 敏明[2](いかわ としあき)[3]、1934年〈昭和9年〉6月25日[1] - 2015年〈平成27年〉4月15日)は、日本の俳優・声優・タレント・司会者・ラジオパーソナリティ・エッセイスト。愛称はキンキン[4]。
東京府東京市豊島区巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)出身。俳優座、劇団三期会を経て、最終所属先は愛川企画室(個人事務所)。身長168cm、体重72.5kg。妻はタレントのうつみ宮土理[5]。「おまっとさんでした」の名ゼリフで著名。
生涯
生い立ち
1934年6月25日(月曜日)生まれ。巣鴨で生まれ育った後、中学時代に埼玉県大宮市(現:さいたま市)へ転居。埼玉県立浦和高等学校に入学。高校在学中に演劇にのめり込み、俳優を志すようになる。浦和高校を中退後、1954年俳優座養成所(3期生)に入所[6]。1956年、俳優座卒業と同時にホームドラマでドラマ初出演。この時の役が、最後には更生して真面目に生きていく不良少年の役で、その役名が「愛川欽也」だった。本人は「あの少年の役が好きだったし、何かピンと来るものがあった」ということで、この役名をそのまま自分の芸名としてもらうことにしたという[7]。
最初の結婚で、1958年に長男(俳優の井川晃一)、1960年に長女(佳村萠)をもうけている。
声優活動
1962年より、アメリカのテレビドラマ『ルート66』で主役のマーティン・ミルナーの吹き替えを行い、同ドラマは人気番組となる。役柄の設定から、当時の業界では「班長」というあだ名をつけられ[注 1]、声優業にも意欲的に活動し、ジャック・レモンの吹き替え[8] や『いなかっぺ大将』でのニャンコ先生役などは広く知られている。
1996年、宮内幸平の後任として映画『ドラゴンボール 最強への道』の亀仙人役を演じ、声優として17年ぶりの復帰となった。
司会者としてのブレイク以降
1971年より深夜番組『パックインミュージック』でパーソナリティとなり、若者を中心に人気を得る。このときより、「キンキン」の愛称が一般に定着した。深夜番組『11PM』の司会を大橋巨泉とともに1974年から1986年3月まで長年にわたり務め、司会者としての人気を確固たるものにした。
1972年、松下電器産業(現:パナソニック)のラジカセ「MAC」のCMにDJ役で出演、彼が発した「あんた、松下さん?」のフレーズは流行語になった。
1975年、満艦飾の長距離トラック運転手を主人公とした映画を企画し持ち込む。これが東映のドル箱シリーズとなった『トラック野郎』(監督:鈴木則文)。菅原文太と共演し、相棒・やもめのジョナサンこと松下金造役を演じ、空前の大ヒットとなり、1979年までに全10作が製作・公開された。
1976年、自らの企画でホームレスの男を演じた東映の喜劇映画『キンキンのルンペン大将』(監督:石井輝男)で映画単独初主演を果たした。
1976年、同じ昭和9年(1934年)生まれの長門裕之、坂上二郎、藤村俊二らと共に芸能人の親睦団体『昭和九年会』を結成。愛川は長門とともにその発起人となった。
うつみ宮土理との出会い、そして結婚
二人は、1972年10月から1974年6月までコンビDJをした『きんきんケロンパ歌謡曲』にて出会い、1975年に放送開始し、愛川の司会者としてのレギュラーの一つだった昼のバラエティ番組『シャボン玉こんにちは』でも共演し親交を深めた。
1978年には、前妻と離婚し、その翌日にうつみと再婚した。うつみとは生涯長くコンビを組んだ[6] が、二人の間に実の子供はもうけられなかった。
司会者としての更なる躍進
1981年に開始した『なるほど!ザ・ワールド』に司会に抜擢され、ここで愛川はまたも大ブレイクした。
その後1995年に『出没!アド街ック天国』が開始され、初代司会者となる[9]。以来不定期に放送される『土曜ワイド劇場 西村京太郎トラベルミステリー』と同じ時間に見られるようになった(2012年1月放送の第57作まで)。土曜ワイドでは『横溝正史の吸血蛾』(1977年)にて名探偵金田一耕助を演じるが、愛川金田一はこの1作となっている。
2000年10月、愛川の下に集まった後輩の俳優たちと共に「劇団キンキン塾」を結成。2001年11月に旗揚げ公演を行い、以降年1回のペースで本公演を上演する。以降、劇団をベースに舞台公演・自主映画製作を行い、プロデュース・脚本・演出・音楽を全て自ら手がける。
2009年6月、私財を投じて建設した小劇場「キンケロ・シアター」を東京都目黒区青葉台にオープンさせた。劇団キンキン塾の活動拠点となる他、自主製作の映画なども上映する。
2009年12月1日、全日本空輸がかつての塗装デザインであるモヒカン塗装を1機に復刻させて運航を開始した際に羽田空港での出発式にうつみと共に招かれた。
2012年3月6日、3月で放送終了する『パックインジャーナル』の後継番組を放送するために、愛川企画室の製作・管理によるウェブ放送局「kinkin.tv(キンキン・ドット・ティーヴィー)」を開局することを発表した[10]。
2014年、『出没!アド街ック天国』での司会が「世界最高齢の情報番組司会者」としてギネス世界記録に認定された。
晩年・死去
- 2015年3月に入り、長年出演してきた『出没!アド街ック天国』の司会を、放送1000回目となる2015年3月7日放送分(2月4日に収録)を以て急遽降板した[11]。当該放送分では愛川は降板についてコメントしなかった[12]。
- その次の放送回(2015年3月14日放送分)では、峰竜太が司会を代行。薬丸裕英らが「愛川さんはどうしたのか?」と質問すると、サブMCの須黒清華テレビ東京アナウンサーが「放送1000回を機に、愛川さんはバカンス中です。」と説明した。その後、3月28日放送分の終盤部分にてVTRで登場し、自身の降板に関して正式なコメントを発した[13]。そして正式な後任は20th Century・井ノ原快彦に決定した。
- また、「kinkin.tv」での自身のレギュラー出演番組においても、「愛川欽也パックインラジオTV」を2015年1月で終了させ[14]、「愛川欽也パックインジャーナル」の出演も、2015年3月21日付の配信では出演していたが、3月28日付の配信で「風邪をひき、大事を取って」という理由で欠席、4月3日も欠席した。4月6日には[11]、「kinkin.tv」の放送全体を「大変心苦しく申し訳ない気持ちで一杯ですが、諸事情のため、継続することができません」と同日の放送をもって終了することを発表、完全閉鎖となった。
- アド街ック天国の突然の降板以降、愛川の体調不安説のゴシップ報道が流れ始めるが、2015年3月30日のフジテレビの番組『ノンストップ!』にて、妻のうつみがVTR出演した。そのVTR中で、うつみはその場で愛川に電話をかけ、お互い何も変わった素振りも見せずに日常の会話を交わし一連の報道を否定してみせた。後日4月17日放送にて、このVTR収録が3月27日に行われたとの説明があった[15]。
- 2015年4月15日午前5時11分、肺がんのため東京都内の自宅で死去。満80歳没(享年82)。4月17日に所属事務所から正式に発表された。2014年冬に体調の不安を訴え検査したところ肺がんであることが判明したが、本人の希望で自宅療養を行い、最後まで仕事復帰する可能性に懸け病状を伏せていたという[3][16]。なお、死亡前は愛人宅に居住していたためスキャンダルとなったが、葬儀は妻であるうつみ主導で執り行われた。
- なお死去した4月15日は、奇しくも愛川が長年司会を務めた『出没!アド街ック天国』が20年前(1995年)に放送を開始した日でもあった。4月18日放送分の『出没!アド街ック天国』のスタッフロールが流れた後、右手を上げて笑顔の愛川の静止画と共に、「前宣伝本部長 愛川欽也さん 4月15日永眠」、「心よりご冥福をお祈りいたします。20年間ありがとうございました。」とテロップが表示された[17]。
- テレビ朝日では過去の愛川の追悼プログラムとして「三橋十津川・愛川カメさん」時代の土曜ワイド劇場版・西村京太郎トラベルミステリーシリーズを地上波で連続放映。また、同年7月からCS放送のテレ朝チャンネルで不定期・順不同で集中放映している。
- 愛川の死は芸能界に大きな衝撃を与え、スポーツ新聞各紙は彼の訃報を大きく伝えた他、読売新聞、産経新聞は1面コラムで彼の業績を讃えた。また『アド街』で共演した峰竜太[18] と薬丸裕英[19] や公私ともに親交の深かった美川憲一、和田アキ子[20]、松方弘樹[21]、神田うの[21] らが追悼のコメントを寄せた。
- 愛川の死を受け、TBSラジオは5月10日23時より特別番組を放送した[22]。
- 四十九日が過ぎた6月4日、グランドプリンスホテル新高輪にて「愛川欽也を偲ぶ会」が開催された。親交の深かった約700人が参列し、大橋巨泉が弔辞を述べた[23]。
- また、一般のファンに対しては6月6日と7日に「中目黒キンケロ・シアター」にて「愛川欽也の思い出展示会」が開催された。一般向けの献花台の設置や各種思い出の品々が展示された他、愛川の第1回目監督映画「さよならモロッコ」の上映が行われた。
- 同年7月15日、東京都内の納骨堂に納骨された[24]。
- 一方、愛川が主宰していた「劇団キンキン塾」は、2月末のアトリエ公演以降休眠状態になっていたが、10月に追悼公演を行った。2016年現在も活動を続けている。
- 10月10日放送の『なるほど!ザ・ワールド2015秋』のラストに、「愛川欽也さん 1981年から15年間 なるほど!ザ・ワールド 司会を務める」、「心よりご冥福をお祈りいたします」と、追悼映像が放送された。
人物
- 自身が主宰する『劇団キンキン塾』所属の女優である任漢香(にん かんか)と長年にわたり愛人関係にあった[25]。愛川は任を「20年に1人の天才」と評価し、映画・テレビ・舞台で重用し続けた。2007年4月に愛川と任の不倫報道が出たが、妻のうつみは「あんたカッコいいじゃん」と擁護した[26]。晩年の愛川はうつみの元を離れ任と同居していたが、体調不良により入院。この際、うつみが強引に退院させ自宅に引き取った。愛川はそのまま自宅で死去したが、葬儀はうつみ主導で執り行われ、任は参列を拒絶された[27]。葬儀の後、任はキンキン塾を脱退し、同じキンキン塾の脱退者である岩澤亮司とともに「劇団415」を結成し女優業を続行している。
- 1983年、三波伸介の急死により『笑点』の新春特番の1コーナーで司会を務めそのまま正式に司会就任を要請されるが、「大勢の落語家さんを相手にとても司会なんかできない」と辞退し、5代目三遊亭圓楽が就任した。なお、この司会の時には手が震えていた、と、収録時に隣にいた桂歌丸が『笑点 大博覧会 DVD-BOX』内で話している。
- 同年には第13回参議院議員通常選挙出馬中の水野晴郎の代役として、彼の復帰まで短い間だったが、『水曜ロードショー』の解説を担当。「ようこそ僕の映画の部屋へ」というフレーズを使っていた。また『刑事コロンボ』を放送する際には、コロンボのトレードマークであるトレンチコートを着用したが、あまり評判はよくなかった。
- 1996年まで放送されていた『なるほど!ザ・ワールド』にて、コンビを組んだ楠田枝里子との身長差をカバーするために、楠田が椅子に掛け愛川が立ったまま、というスタイルが編み出される。
- 過去に3つのレストランを経営。しかし、たこ焼きをアレンジした「アメリカンボール」など、時代を先取りしすぎたのか全て3か月で倒産(業界用語では「1クール倒産」。他に天丼屋「天欽」といった普通の店も出していた)しており、多額の債務を背負ったがその後完済した。
- 『出没!アド街ック天国』での司会の経験からか、街づくりに対する愛川なりの想いがあり、『東京新聞』の「わが街わが友」と題する愛川の随筆では、画一的なニュータウンもよいが、街ごとの香りが感じられる街に愛着を抱く様子が書かれていた。また『出没!アド街ック天国』のスタッフには「街を作るのは、建物じゃなく人なんだ」と力説していたという[28]。
- 女優でタレントの榊原郁恵とはアイドル歌手時代から親交があり、1987年に俳優の渡辺徹との結婚式では仲人を務めた。
- タレントの神田うのとも親交があり、2007年10月8日の挙式にも夫婦で出席した。
- 『世界ビックリ大賞』で巨乳の女性が登場するコーナーの前振りとして「目の保養」という言葉を使用したことでも有名。
- 過去、革新自由連合結成大会の企画委員会に参加。政治討論番組で公明党に批判的な意見を発したこともある。
- 自身が司会を務める番組『パックインジャーナル』においては、時に戦時中の学童疎開の話も引き合いに出しながら、リベラルな立場からの発言を続けた。
- 愛川が司会をしていた『リブ・ヤング!』に出演し、TVデビューを果たしたロックバンド・キャロルだが、そのメンバーだった矢沢永吉を、愛川が機転と配慮でベスト・リーゼントに選んだことが、その後、バンド内ではっきりと決められていなかったリーダー=矢沢という認識を強める事になり、何かと注目されるきっかけを作ったという可能性を、同じくメンバーだったジョニー大倉が自身の著書で述べている[29]。
受賞
- 2000年度ナイス・カップル賞(夫妻で受賞)
- 2014年9月、「情報テレビ番組の最高齢の現役司会者」としてギネス世界記録に認定[30](『出没!アド街ック天国』番組内にて、ギネス公認委員立会の元で認定書贈呈)[31]
出演(俳優)
テレビドラマ
映画
出演(声優)
※太字は、メインキャラクター。
吹き替え
担当俳優
- オーディ・マーフィ
-
- ケネス・モア
-
- ジャック・レモン
-
- ジーン・ケリー
-
- レッド・バトンズ
-
- ロバート・ドライヴァス(英語版)
-
- 逃亡者 ※TBS版
- 第31話『再審への道』(1965年、リー・グールド)
- 第93話『病める鷹』(1966年、ロジャー・ローランド)
映画
- 時期不明
-
- 1964年
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- 1966年
-
- 1967年
-
- 1969年
-
- 1970年
-
- 1971年
-
- 1973年
-
- 1977年
-
- 1993年
-
- 1994年
-
ドラマ
- 時期不明
-
- 1962年
-
- 1964年
-
- 1965年
-
- 1966年
-
- 1967年
-
- スパイ大作戦 ※フジテレビ版
- 第2話『売国奴を粛清せよ』(モニター係、警官〈ジョン・マグナッソン〉)
- 第4、5話『刑務所突破大作戦』 (警備兵)
- 第10話『戦慄のスパイ養成所』(ロジャー・リー〈ジョージ・タケイ〉)
- FBIアメリカ連邦警察 ※TBS版
- 1968年
-
- 0011ナポレオン・ソロ ※日本テレビ版
- スパイ大作戦 ※フジテレビ版
- 奥さまは魔女 ※TBS版
- 1969年
-
- 1970年
-
- 1996年
-
アニメ
- 1964年
-
- 1967年
-
- 1969年
-
人形劇
- 1964年
-
- 1965年
-
- 1969年
-
テレビアニメ
- 1965年
-
- 1966年
-
- 1967年
-
- 1968年
-
- 1969年
-
- 1970年
-
- 1971年
-
- 2001年
-
劇場アニメ
- 1968年
-
- 1969年
-
- 1979年
-
- 1996年
-
人形劇
- 1963年
-
- 1964年
-
- 1967年
-
- 1969年
-
- 1970年
-
ゲーム
- 2005年
-
出演(司会者・CM)
インターネットテレビ
ニュース
ワイドショー
ラジオ
バラエティ
歌番組
CM
監督作品
全作、製作・脚本・音楽・監督・主演兼任
テレビドラマ
- 港古志郎警視シリーズ
- 連続映画 港古志郎警視(2011年、BSフジ) - 港古志郎 役
- 港古志郎警視(2012年、テレビ埼玉) - 港古志郎 役
- 連続ドラマ 港古志郎警視(2014年、BS11) - 港古志郎 役
映画
書籍
ディスコグラフィ
シングル
後任
愛川の死後、声優としての持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
アルバム
- 愛川欽也の一所懸命(1973年/JDX-7012)「村はずれ」収録
- 欽也一夜物語(1975年/SOLL-128)「死ね死ねブルース」収録
作詞のみ
タイアップ曲
脚注
注釈
出典
外部リンク
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| 行け!ゴッドマン& 行け!グリーンマン 登場怪獣 |
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