『第14回NHK紅白歌合戦』(だいじゅうよんかいエヌエイチケイこうはくうたがっせん)は、1963年(昭和38年)12月31日(JST)に東京宝塚劇場で行われた14回目のNHK紅白歌合戦。21時05分から23時45分(JST)に総合テレビ・ラジオ第1放送で生放送された。
概要
全編の映像がNHKに現存する最古の回である。生放送の映像をキネコに録画することで保存されたもので、1989年・2001年に放送された『思い出の紅白歌合戦』で、全編が再放送された。現在は横浜市の放送ライブラリーで視聴できる。この回で記録した視聴率81.4パーセント(ビデオリサーチ調べ、関東地区)は、ビデオリサーチによる視聴率調査が始まって以来の最も高い視聴率となった[注釈 1]。なお、同時期に視聴率調査を行っていたニールセンの調査では、89.8パーセント(関東地区)を記録している。
この年から、当時の芸能局内に「紅白歌合戦実施委員会」を設置。今回より毎年秋になると同時に実施の準備が始まることになる。
翌1964年に開催される東京オリンピックにちなんで、五輪のマークと聖火台を模した舞台セットが特徴となった。
出演者
司会者
- 紅組司会:江利チエミ - 歌手
- 白組司会:宮田輝 - NHKアナウンサー
- 総合司会:石井鐘三郎 - NHKアナウンサー
- テレビ・ラジオ実況:土門正夫 - NHKアナウンサー
当初、両組司会は前回に引き続き森光子・宮田輝に内定していたが、発表2日前の12月10日夜になってから森が辞退。森は翌年1月2日に芸術座で「越前竹人形」の主演を務めることになっており、12月30日に舞台稽古の予定だったが、台本の遅延でこれが翌31日にずれ込む可能性が発生したためである。慌てたNHKは直ちに「紅白実施委員会」を開き、代わってこの1年舞台・映画・ミュージカル・放送に大活躍しこれまで紅白11回連続出場の実績を持つ江利チエミを起用することを決める。チエミは12月11日夜に1度断りを入れるが再度の交渉に12月12日朝、ようやく了解し同日出場歌手と共に司会が発表された。それまでは出場歌手の中から司会が選ばれることはなかったが、今回はチエミの登板が緊急であったこともあり初めての掛け持ちとなった[注釈 2]。
大会委員長
出場歌手
選考を巡って
演奏
審査員
他のゲスト
当日のステージ・エピソード
- 江利は後に「出演する方を目立たせるために、地味な格好を自分はしたり、夢中で頑張った」と語っている。また、江利の出番での曲紹介は宮田が行った。
- のちに史上最多の出演50回を誇る北島三郎が初出場。
- 坂本九は、本番直前に衣装全てが盗まれたため家から持ってきた私物で本番に臨んだ。
- 第9回におけるグループの出場解禁後、前回までグループは全てグループ同士で対戦していたが、今回以降はグループ対ソロ歌手の組み合わせが行われるようになる。
- 19対8で紅組が優勝(通算7勝7敗)。
- この年は翌年に控えた東京オリンピックを意識し、オープニングでは聖火ランナーに扮した渥美清が登場し、オリンピック開会式風の演出が行われた。エンディングでは例年の『蛍の光』ではなく『東京五輪音頭』が合唱された。『蛍の光』が歌われなかったのは紅白史上この年だけである。
- 今回使用したマイクロホンは、歌手・司会者用共にAIWA VM-17S(BTS呼称、RV2-2)とされている(翌年の第15回にも同じタイプのものが使われているが、マイク自体を支える両脇のアームが無い試作品)。雪村いづみ、三波春夫はワイヤレスマイクを衣装に付けてセット中央の階段から歌い始めた。
後日譚
- 江利・宮田の両軍司会は好評となり、第15回もこのコンビが続投することとなった。ただ前者は当初「『1回でやめておけば良かったのに』、などと言われたら・・・」という気持ちに苛まれ再三断っていた。「私のPRをしてくれない」「自分ばかり売り込んで」という周囲の声にも悩まされ、憂欝になったという。本人曰く「ダーリン(高倉健)もあんな疲れる仕事はもうしない方がいいって言っていたんです」とのことだが、結果的に熱心なNHKのラブコールに折れる格好で続投を決意した。
脚注
注釈
- ^ ビデオリサーチ調べ、関東地区では、直前に放送されたニュース(21時から21時05分)も66.7パーセントの視聴率を記録し、この年の視聴率ランキングでは2位(5分以上の番組が対象)となっている[1]。
- ^ 翌1964年・第15回もチエミが掛け持ちした。その後、ペギー葉山(1966年・第17回)や九重佑三子(1967年・第18回)が掛け持ちを回避したのを挟み、水前寺清子と坂本九が起用された第19回・1968年より事実上の「掛け持ち解禁」となった。
- ^ 歌唱中、谷啓が舞台に登場し、芦野宏と共に踊った。
- ^ 番組のテロップでは、「見あげてごらん夜の星を」と表記されていた。
- ^ 東京混声合唱団をバックに従えて登場した。
- ^ 「ホンダラ行進曲」のパートでは、ハナ肇とクレージーキャッツのメンバー全員がコーラスとして参加。
- ^ 3人がそれぞれの持ち歌を順番に披露した。伊東ゆかり「キューティ・パイ」→園まり「女王蜂」→中尾ミエ「バイ・バイ・バーディ」のメドレー。
出典
- ^ ビデオリサーチ(編)『視聴率の正体』広松書店、1983年、200頁。ISBN 4-7952-5208-4。
- ^ a b 『週刊朝日』1964年12月4日号、136頁。(「『紅白歌合戦』の予想表」『週刊朝日』1964年12月4日号、134-136頁)
参考文献
関連項目
外部リンク
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開催会場 | |
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関連番組 | |
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