朝丘雪路
朝丘 雪路(あさおか ゆきじ、1935年〈昭和10年〉7月23日[1] - 2018年〈平成30年〉4月27日[4])は、日本の女優、タレント、舞踊家、歌手、司会者。本名:加藤 雪会(かとう ゆきえ)、旧姓:勝田。 東京市京橋区(現・東京都中央区)築地生まれ[5]。元宝塚歌劇団月組娘役。父は日本画家の伊東深水[3]。夫は津川雅彦、娘は真由子。義兄は長門裕之、義姉は南田洋子。日舞の深水流家元として、深水 美智雪(しんすい みちゆき)の名を持つ。 来歴料亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘として生まれる[6]。芸事を好んだ母の勧めで、3歳より日本舞踊を花柳三之輔に師事。妾腹(非嫡出子)であったが、父の伊東深水に溺愛されて育つ。泰明小学校へは養育係とともに人力車で通学しており[5]、養育係は登校から下校までの間、彼女を車屋と学校で待っていた。深水の過保護ぶりは朝丘が思春期を迎えても続いていたこともあり、彼は娘の進路を役者・花柳章太郎に赤坂の料亭で相談し、深水の友人で阪急東宝グループ創始者・小林一三も同席した[5]。小林に「このような浮世離れした生活をさせていては、娘さんがだめになる」と意見されたこともあり、深水は渋々ながらも、朝丘がいずれは実家を出て生活することを了承したという。 山脇学園中学校卒業後、宝塚音楽学校に入学。1952年に同校を卒業し、宝塚歌劇団に入団。宝塚入団時の成績は31人中8位だった[7]。同期の39期生には女優の真帆志ぶき(元雪組男役トップスター)、東千代之介夫人の千之赫子がいる。月組[7] に在籍し、娘役として活動。1955年8月31日[7]に宝塚歌劇団を退団する。最終出演公演の演目は月組公演『黄色いマフラー』だった[7]。 1955年、『ジャズ娘乾杯!』で映画デビュー[5]。1966年、日本テレビのバラエティ番組『11PM』にゲスト出演し、天真爛漫さが視聴者に好評を得た[5]。これがきっかけでレギュラーに抜擢され[5]、同年4月からの金曜日のホステス(アシスタント)を16年間務め、司会の大橋巨泉との名コンビで人気を集めた[8]。 1967年に父の勧めで青森県八戸市の内科医師と結婚して男児をもうける[5]も、1968年に離婚(正式な離婚成立は1972年、子どもは夫側が引き取る)。その後仕事で一緒に巡業したことが縁で[5]津川雅彦と交際に発展し、1973年に再婚して1974年3月に真由子を出産。 お嬢様育ちのおっとりしたキャラクターと常識外れな天然発言が人気を集めたことから、以降バラエティ番組に多数出演するようになった[1]。 1981年、文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。2003年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2011年、旭日小綬章受章[9]。 1985年、父の十三回忌を機に日本舞踊の新しい流派「深水流」を興し[5]、のちに深水流家元として、青二塾で日舞の講師を勤めた[10]。 2014年、古巣・宝塚歌劇団の100周年記念で創立された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人の一人として殿堂入り[5]。これと前後して4月9日から13日まで夫・津川と娘・真由子との家族共演で行われた舞台『花や…蝶や…』に出演したが、これを最後に病気療養生活に入る。 2018年4月27日、東京23区内の病院にて死去した。82歳没。死去についてはしばらく公にされず、同年5月19日にメディアにより一斉に報道された[11][12][13][14]。最晩年にはアルツハイマー型認知症を患っており、最終的に津川が引き取って看取っている。翌20日には津川が会見を開いた(結果としてこれが津川の最後の公の姿となった)が、津川曰く「死因はない」とされ、診断書にも認知症と書かれたという[15]。テレビドラマでは2014年4月11日にフジテレビで放送された『銭女』、映画では2016年に公開された『プラシーボ』(遠藤一平監督)が遺作となった。 朝丘の死去から約3か月後の8月4日、津川もその後を追うように死去している[16]。2018年11月21日、津川と合同の「お別れの会」が青山葬儀所で営まれた[17]。 晩年には社長を務めていた個人事務所を閉鎖し、津川が社長を務めていた事務所・グランパパプロダクションに移籍しているが、この移籍は形式的なものだった[18]、両者の死後は事務所間の情報共有に苦労し、お別れ会の開催まで手間暇がかかったという[19]。 戒名は「李雪妙路大姉」。墓所は京都市右京区の龍安寺で、津川とともに眠っている。 人物
芸名は先述の深水、花柳章太郎、小林一三の3人によって「冬の早朝、丘の上に白い雪が降り積もる。その路を美しく歩く女優に育ってほしい」との思いを込めて名付けられた[5]。「誰にも踏まれていないので真っ白」という意味が由来との説もある。 仲の良い先輩、同年代のタレント、実の娘からも「ゆきえちゃん」と本名で呼ばれていた。若い頃は「雪姐(ゆきねー)」という愛称でも呼ばれていた。対して公の場では、夫のことを「雅彦さん」「津川さん」と言っているが私生活では「まー」と呼んでいた。 花柳章太郎や川口松太郎にも目をかけられ師事、若き日は劇団新派にも一時参加していた。 娘・真由子が生後5ヶ月の時期に誘拐されるが、後に無事発見・保護され、誘拐犯は逮捕された(津川雅彦長女誘拐事件)。 娘の幼少時代には授業参観で大騒ぎしたエピソードがあり、娘も「親が関わる時は必ずパパ(津川)が来てくれなきゃ困る」と言っていたという。 お嬢様育ちな性格子供時代深水の常軌を逸した溺愛を一身に受けて成長。世間知らずのお嬢様育ちで、一般常識というものがよく分からずまさに浮世離れした人格である[1]。幼少期から自宅と学校の行き帰りは勿論、何処に出掛けるにも養育係と一緒であったため、金銭の使い方や道順を覚えるということを知らないまま成長した。膳に並んだシラスを見て「おとと(御魚)の目が怖い」と言えば爺やと婆やが魚の目をひとつひとつ取り除く。雨が降れば一般では傘を使用するが、深水は「(朝丘の)指を怪我したら大変だ」と傘の開閉も、持たせることもさせない。その結果、中学生時代に、ほんの気まぐれで、一人で通学を試みたが途中で迷子になってしまい大騒ぎになったことがある。生涯、一人では公共交通に乗って移動することも、切符の購入も出来なかった。しかし、物心つく前からそのような環境で育ったため朝丘にとっては普通の生活であり「父のすることは全て正しい」と信じ、疑問に感じたことはなかったという。 また「(両親が)海は危険だと言っていた」との言いつけを守っていた(ただし、芸能界に入ってから撮影で足を浸す程度に入ったことはある)。夏休みには親が用意したホテルのスイートに宿泊し、プールを貸切にして友人たちと過ごした。 宝塚時代浮世離れで世間知らずな言動と、おっとりした性格が仇となったことがある。宝塚時代もその性格は変わらず、朝丘の至らぬところは周囲が補ってくれていた。しかし、それらも朝丘にとっては実家に居たときと同様、当たり前のことだと思っていたため特に気にも留めずにいた。やがて娘役に抜擢されて人気も出てくると、朝丘に対して反感を覚える者も出てきた。ある時は舞台で使用する化粧品が紛失、ある時は衣装に不備が生じる。靴の中に剣山や釘が仕込まれていたこともある。幕間の衣装替えの時、靴を履き替える際に気付かずに踏んでしまい激痛で失神したことがある。 結婚後結婚するまで自分でお金を払って買い物をした経験が全くなく、結婚してからは買い物はすべて1万円札で支払っていた。そのため、お釣りの千円札や硬貨が溜まりに溜まり、ある日、薬を探していた津川が引き出しから小銭の山を発見して仰天する(本人は硬貨がお金とは知らず、無論、金銭感覚も一般とズレていたため、言われるままに多く支払っており、常に一緒に行動する付き人が注意を払っていたという)。 家事の一切も苦手であり「火が怖い」「洗濯機が使えない」「掃除機の使用方法が分からない」ほどであった。 娘が乳児だった頃もオムツ替えは家政婦に任せており、生涯、家事全般を事務所のスタッフと家政婦が代行していた(津川が思わず「我が家には主婦がいないんだねぇ」と呟いた際には「私も家事の出来る奥さんが欲しいわ」とあっさり言ってのけたという)。 エピソードテレビ番組夜のヒットスタジオ1974年4月1日から1975年3月31日までフジテレビ系の歌謡番組『夜のヒットスタジオ』の2代目司会者として、芳村真理、三波伸介と3人で司会を担当(しかし、前任者の前田武彦が1973年9月に降板するとともに芳村も半年間休演し、その間ゲスト出演者が輪番で担当していたため実際は間に半年のブランクがある)。当時のスタッフによると「お嬢様育ちらしい天然ボケで、スタジオをなごませてくれた」という[20]。 しかし、司会に就任した初回は体調不良のためスタジオには来れず、電話で出演。1974年7月以降も、舞台の長期公演が決まり度々番組出演を見合わせるようになった。朝丘がいない回は三波が朝丘の代役を務め、1975年3月の降板まではスケジュールが空いている場合などに断続的に出演。降板後もゲスト歌手の客演や対面ゲストとして出演した。 フジテレビはレギュラー司会者ではなく「ゲスト」司会者としており、『夜ヒット』の「○周年記念」「○百回記念」など節目の回で歴代司会者が集うときも司会者の一人として登場せず、1990年10月の最終回や1988年2月の1000回記念も歴代司会者に記されなかった。近年、フジテレビ側の記録に間違いがあったことが現存するVTR、スチール、当時の視聴者の証言から判明(1クールのみ担当ののちゲスト司会と誤記/1年間の司会が正当)。これが正式な歴代司会者扱いされなかったことの理由のひとつに挙げられる。 なお、1000回放送で降板した芳村真理の勇退記念本[21] で、前田武彦・井上順・古舘伊知郎(三波は1982年12月に死去)と並んで歴代司会者の一人として番組の想い出や芳村へメッセージを語っている。 2年以上務め、その時代の『夜ヒット』の顔でもあった前田・三波・井上・古館とは対照的に、朝丘はわずか1年で降板したことで同年齢の芳村との確執も喧伝されたが、後年、明確に否定しており、1960年代半ばの頃から芳村が朝丘の歌謡ショーを司会するなど長年の親交がある。当時は毎回の放送前に互いの服装を相談し、雰囲気が重ならない衣装を選択していた。 笑っていいとも!『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」コーナーに何度かゲスト出演していたが、さまざまなハプニングを起こしている。1986年3月3日の出演時、「お友達紹介」の際に次回出演の宍戸錠の自宅の電話番号を声に出して言ってしまった。その直後から宍戸宅にいたずら電話が殺到、しばらく電話が繋がらない状態となった。宍戸はその後、自宅の電話番号を変更せざるを得なくなったという。 1988年12月16日にも出演予定だったが、滞在していた金沢市が大雪により、飛行機が遅れて離陸し同番組に登場できず、義兄の長門裕之が代理出演した。 その他のテレビ番組初めてテレビに出演した年齢は23歳。日本ではまだ試験放送だった時期に、アメリカの番組『ダイナ・ショア・ショウ』に出演した[22][5]。 1967年、『11PM』で大橋巨泉が胸の大きい朝丘を指して「ボイン」と呼び、流行語になった(巨乳タレントのはしり)[1]。 テレビ番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』において、郵便小包の配達夫に「拇印お願いします」と言われ、「よいしょっと」と言いながら伝票にボイン(自分の乳房)を押し付けるコントを披露した。 ネタ見せ番組の『エンタの神様』では、芸人のはなわによりインタビューとして話を聞かれ、朝丘は普通に会話しただけだが、天然ボケの性格で自然と面白い内容になるため「朝丘雪路伝説」というネタとして披露されたことがある。 2006年5月25日放送の『クイズ$ミリオネア』に真由子と親子で出演し、750万円の問題で「浦島太郎の竜宮城の場所」の解答を間違えてしまった。結果、賞金100万円を獲得した。 その他1956年に作曲家・服部良一に師事する歌手として、(2代目)水谷八重子、東郷たまみの3人で一緒に売り出すことになり、「七光会」を結成[注釈 1]。 結婚前の20代後半の頃の一時期、歌舞伎役者の(二代目)大川橋蔵と交際していた[5]。 歌手としてもヒット曲を残しており、NHK紅白歌合戦にもこれまでに10回出場している。代表曲として「道頓堀行進曲」(1961年 東芝音楽工業)、「ふり向いてもくれない」(1965年 クラウン)[注釈 2]、「スキャンドール」(1968年 クラウン)、「雨がやんだら」(1970年 CBS・ソニー)などがある。 朝の低血圧時にホテルの部屋のモーニングコールが鳴ると、驚いてそのまま気絶し、部屋で倒れているところを発見されて大騒ぎになることがたびたびあるなど、トーク番組で自身が披瀝する低血圧エピソードは多い。『11PM』でもキャッチフレーズとして自身が「朝弱い朝丘雪路」[注釈 3] だと言っている。 普段現金やクレジットカードは持たず、何でもツケで買っていた。娘の真由子によると幼い頃にデパートの屋上で「ジュースが飲みたい」と言ったところ、朝丘は自販機に向かって丁寧に「朝丘です。あ・さ・お・か・です」と挨拶した。それまで自販機を使ったことがない母は名を名乗れば商品が出てくると思い込んでいたため、真由子が「お金入れないと買えないよ」と教えたという[23]。 友人であった鈴木その子の経営していた会社「トキノ(現SONOKO)」の広告に出演したことがある。また、2006年4月25日に放送された鈴木の半生を描いたドラマ『ダイエットの女王 鈴木その子』(NTV)[24] では、鈴木の実母・末野を演じている。 『11PM』で共演していた大橋と同様、神奈川県保険医協会を事務局とする「医療費の窓口負担『ゼロの会』」の賛同者であった[25]。 関西弁で流暢に話せた。『ホーホケキョ となりの山田くん』では、まつ子役を終始関西弁で演じた。 気さくで天然キャラのイメージが強いが、一方で「誰よりも気遣いのできる方」と、専属写真家の小町剛廣は語っている[26]。 デヴィ夫人とは、50年以上の長きに渡って交流があった。朝丘との出会いは、元々デヴィ夫人の夫であるインドネシアのスカルノ大統領(1960年代前半当時)が、朝丘の父・伊東深水に「肖像画を描いてもらいたい」とジャカルタの宮殿に招待したことがきっかけ[注釈 4]。 出演映画
テレビドラマ
オリジナルビデオ劇場アニメ
バラエティ
ラジオCM
など 音楽NHK紅白歌合戦出場歴1957年・第8回に初出場。翌年は出場ならなかったものの、翌々年(1959年)・第10回で復帰し、そこから1966年・第17回まで8年連続で出場を果たす。その後しばらく出演は無かったものの、1971年になかにし礼作詞・筒美京平作曲の『雨がやんだら』が大ヒット。第22回で5年ぶり10回目のカムバック出場を果たしたが、この第22回出場が最後の紅白出場となった。
シングル
アルバム
ベスト・アルバム
その他
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク |