中山律子
中山 律子(なかやま りつこ、1942年〈昭和17年〉10月12日 - )は、日本のプロボウラー。群馬県吾妻郡草津町生まれ、鹿児島県育ち。ライセンスNo.2の女子プロ1期生。通算タイトル33勝の永久シードプロで公認パーフェクト2回。社団法人日本プロボウリング協会(JPBA)[注 1]会長職を4期8年務めた後、2012年3月より名誉会長。ジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)名誉会長。鹿児島市立鹿児島女子高等学校卒業、愛称は「和製ジャンヌ・ダルク」[1]。弟の中山徹は、プロゴルファーでPGAシニアツアー賞金王になったこともある[2]。 鹿児島時代中学2年生で鹿児島県の健康優良児コンテストで第1位に選出される。中学時代からバレーボールを始めて、高校時代にはバレーの選手として東京・熊本と2年連続で国民体育大会に出場。高校卒業後の1961年にバレーの実績を買われて旭精機(愛知県)に入社し、バレーボール選手として活躍したが、入社2年目に同社がバレー部を解散し帰郷を余儀なくされる。 1965年帰郷後、友人に誘われ初めてプレイしたボウリングで85点のスコアを出し、ボウリングの魅力に取り付かれた中山は以後ボウリングの道を歩む。 1966年4月の九州大会で準優勝し、1967年11月の全日本オープン選手権・準優勝をきっかけとし、1968年に東京タワーボウリングセンターにスカウトされ入社。 入社後の1969年6月に第1回女子プロテストが開催され、中山は3日目までトップだったが、終生のライバルとなる須田開代子に最終日に逆転され、結果は2位合格でプロ入りとなる。須田とはアマチュア時代から面識があったものの、優勝・須田、準優勝・中山のパターンがアマ時代には多く実力的には須田の後塵を拝する事が多かった。 女子プロボウラー時代女子プロ誕生と共に中山も結果が付いて来る様になり、1969年9月に開催された女子プロ誕生記念大会で優勝。1970年3月22日の第1回全日本プロボウリング選手権(女子)でも優勝し初代チャンピオンとなる。 1970年8月21日に府中スターレーンで行われた <女子プロ8月月例会> 海野房枝との優勝決定戦で、女子プロ史上初の公認パーフェクトゲームを達成する。 当日はテレビ朝日(当時NETテレビ)の『レディズ・チャレンジボウル』収録中であり、録画放送は夕食の時間帯だったので在宅率も高く、女子プロ初のパーフェクトゲーム達成の報は瞬く間に列島を駆け巡った。 翌月のボウリング場オープン記念エキジビションでも『未公認』ながらパーフェクトゲームを達成する。 当時のVTRは2インチで非常に高価だったため、各TV局は収録したビデオテープを保存せず、消去して再利用したりしていたケースが多く、中山律子の全盛期の映像で残っている物は少ない。 1970年度 <日本プロスポーツ大賞・殊勲賞>受賞。 1974年11月レコード会社社員と結婚。1978年出産。妊娠中は大会には出場せず、安静に努めていた。 2017年度JPBA日本プロボウリング協会プロボウリング殿堂表彰。 社会現象TV中継でのパーフェクト達成のインパクトは予想を遥かに超えた社会現象を起こし、中山は「さわやか律子さん」の愛称とともに抜群の美貌と人気を誇り、花王のフェザーシャンプーのCM等に出演し一大旋風を巻き起こし、CM曲の「律子さん、律子さん、さわやか律子さん[3]」は流行語となった。 女子プロボウラーは数多くあれど、中山は後に至るまで史上最強の女子プロと呼ばれ、同期の須田らと共に爆発的なボウリングブームの立役者となった。また全盛期の中山は所属先である「東京タワー」の文字が書かれた赤いボウラーシャツを着ており、それがトレードマークとなっていた。 エピソード1967年11月の全日本オープンの決勝前にそれまでトップを走っていた中山は偶然、会場のトイレで須田開代子と鉢合わせとなる。その際「中山さん、安心するのはまだ早いわよ」と声を掛けられた。その後はプレッシャーからかミスを連発。その後、6位の須田に逆転され優勝を逃す結果となった。このエピソードはボウリングファンの間で語り草にもなっている。 1970年の中山が初パーフェクトを達成した日、会場の府中スターレーンへタクシーにて向かっていたところ交通事故に巻き込まれた。精神的ショックが心配されたものの幸いケガはなく、予定通り定例会に出場することができた。 動物的なカンの持ち主と評判の中山は巨人の長嶋茂雄のようだと言われる一方で、完璧主義者の須田は王貞治のようだと言われていた。このことは挿絵にも描かれ新聞に掲載された。 1970年代当時の代表的専門誌「ボウリングファン」によると『女子プロ三羽烏』と言われた須田開代子・石井利枝と共にヒップの大きさは90センチメートルを超えていて、「お尻の大きさも大事ではないか?」と、2ページに渡って特集されたことがある。 1995年11月20日で亡くなった須田開代子のボウリング葬では「終生のライバル」として祭壇へ向かい弔辞を読み上げた。 その後のちに須田と共にジャパンレディースボウリングクラブ(JLBC)の設立に尽力する。須田の死後はJLBCの会長に就任。1990年代に負傷で一線を退いてからは普及活動を中心に行い、2004年には女性ボウラーでありながら日本プロボウリング協会の会長にも就任。ボウリングの普及やスポンサー探しといった従来の活動に加え、2006年からは『ボウリング革命 P★League』を立ち上げる[4]など、新たなムーブメントを模索している。 2012年3月に4期8年務めた日本プロボウリング協会の会長職から名誉会長となった。 2013年に東京タワー55周年エッセイコンテストに一般応募し、特別賞を受けた[5]。 2018年ジャパンレディースボウリングクラブ会長職を同期の石井利枝に譲り、名誉会長となった。 主な戦績 (通算33勝)
主な記録
取り上げられたメディア著書
モデルを務めた書籍他 (総数は不明) LPレコード
ビデオ
DVD / Blu-ray
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CM
書籍
他 (総数は不明) 雑誌・週刊誌アサヒグラフ、毎日グラフ、月刊明星、月刊平凡、週刊明星、週刊平凡、週刊文春、週刊現代、週刊女性自身、週刊ヤングレディ、世界画報、週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジン、週刊少年サンデー、週刊プレイボーイ、Sports Graphic Number 他 (総数は不明) 楽曲テレビ出演1971年当時のボウリング番組
特別出演
一般番組
他 (総数は不明) 特集(本人未出演)
他 (総数は不明) ラジオ
脚注注釈
出典
外部リンク |