渡辺久信
渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ、1965年8月2日 - )は、群馬県勢多郡新里村(現:桐生市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、元プロ野球監督。 2008年から2013年まで埼玉西武ライオンズの監督を務めた後、2019年から2024年まで同球団のゼネラルマネージャー(GM)を務めた。2024年5月27日からは、成績不振で休養した松井稼頭央監督に代わって監督代行をシーズン終了まで務めた。 経歴プロ入り前新里村立新里中央小学校、新里村立新里中学校出身[1][2]。ハイジャンプでは小学6年生の時に1.42 mを記録し、中学3年生の時には郡大会で1.75 mを、高校3年生の時には1.80 mをそれぞれクリアした[1]。前橋工業高校時代から速球派の大型投手と期待された。中学時代から球速140 km/hに近いストレートを投げており、県の高校野球界でも注目の的だったが、自身は桐生高校を志望していた。当時の桐生高校は、阿久沢毅・木暮洋のコンビで甲子園を席巻した直後であり、桐生高校側としても次代のエースとしての期待を込めて、受け入れ態勢を準備しており、専属の家庭教師をつけて受験勉強を開始したが、生来の勉強嫌いもあって3日で受験を断念し、結局前橋工業高校に進学した[3]。 高校2年夏の県大会は準決勝で東農大二高の阿井英二郎と投げ合って敗れた。3年春は県大会に続き、関東大会も優勝。夏の県大会では、太田工業高校との決勝で延長11回に押し出しフォアボールでサヨナラ負けを喫した[1]。渡辺が甲子園に出場したのは、1年生だった1981年夏の第63回全国高校野球選手権のみで、準優勝した京都商業高校に初戦でサヨナラ負けを喫した。しかし、この試合では完投している[1]。 1983年のドラフト会議で、西武ライオンズは東海大学の高野光(4球団競合の末に1ヤクルトスワローズが交渉権を獲得)を1位指名するも抽選で外れ、その外れ1位として渡辺を指名した[注 1]。当時の最高球速は147 km/hで、本人は当時読売ジャイアンツ(巨人)で活躍していた槙原寛己のようにストレートで押せる投手、そして西武のエースを目指していた[1]。なお、群馬県出身者としては初のドラフト1位指名選手である[1]。 現役時代西武時代快速球とフォークを武器に1年目の1984年から一軍に定着し、2年目の1985年は先発とリリーフを兼任してシーズン43試合に登板して11セーブを挙げ、1985年の日本シリーズにも登板した。3年目の1986年は先発ローテーションの柱となり、リーグ最多の16勝を挙げて最多勝を獲得した。またリーグ最多奪三振にもなったが、最多奪三振がパ・リーグでのタイトルとなったのは1989年以降であるため、当時は表彰はされなかった。 1988年、1990年も最多勝を獲得するなど、東尾修・工藤公康・郭泰源・松沼博久らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。 1988年、15勝7敗で最多勝を獲得し、3連覇に貢献。中日ドラゴンズとの日本シリーズ第1戦、第5戦に登板し、セ・リーグ最多勝の小野和幸と投げ合い、第1戦は8回途中を1失点に抑え勝ち投手になり、第5戦は3回途中4失点(自責点は3)で勝ち負けつかなかったが、日本一に貢献した。 1989年10月12日、熾烈な優勝争いの天王山となった近鉄バファローズとのダブルヘッダー第1試合で途中登板したものの、ラルフ・ブライアントに勝ち越しソロ本塁打を打たれた。結局西武は同日のダブルヘッダーを2試合とも落とし、同年の優勝を逃す要因となった(10.19の項も参照)。渡辺は引退の記者会見で、最も心に残る場面として「後悔しないように、一番自信があった直球で勝負を挑んで、モノの見事に打たれた」と、この場面をとりあげている[4]。 1990年5月9日の日本ハムファイターズ戦に先発した渡辺は、9回までノーヒットピッチングだったが、西武打線も柴田保光の前に無得点に抑えられ、延長戦となった。10回もノーヒットを続けたが、11回に小川浩一にヒットを許し、ノーヒットノーラン達成はならなかった。試合は12回表に西武が先制、渡辺は11回無失点で勝利投手になった。巨人との日本シリーズでも1988年の日本シリーズに続いて開幕投手を務め、チーム4連勝の勢いを付ける完封勝利を記録した。渡辺は1986年から1990年までの5年間で69勝(うち15勝以上4回)という成績を収め、ライオンズ黄金期の中盤を支えた。 1991年は、開幕戦を完投勝利で飾った後は打ち込まれる日が続き、5月4日の近鉄戦では1回もたずにKOされ、自ら二軍(イースタン・リーグ)での再調整を申し出て一軍登録を抹消される[5]。その後も振るわず、自身初の防御率4点台を記録し、勝敗も初めてシーズン負け越しを記録した。広島東洋カープとの日本シリーズでは第3戦に登板し、2年連続初登板完封勝利を記録。チーム日本一に貢献した。同年以降、渡辺の成績は下降線を辿るが、代わって工藤が安定した成績を収めるようになり、長期にわたるライオンズ黄金期が生まれた。 1992年10月10日の日本ハム戦では打席に入り、左前安打を記録した。当時は交流戦がなく、これは同年のヤクルトスワローズとの日本シリーズを見据えた采配であり、同試合では同僚の潮崎哲也、石井丈裕も打席に立ったが、三振を喫しなかったのは渡辺だけであった。その後パ・リーグでの投手の安打は2001年9月29日でジェレミー・パウエル(同じく日本シリーズを見据えて送りバントをしたがそれが内野安打となった)まで、約9年間記録されなかった(松坂大輔が2000年に安打を記録しているが代打での記録であり、投手として記録したものではない)。 1993年、シーズンでは自己ワーストの14敗を記録(この年のリーグワースト2位の敗戦数)。ヤクルトとの日本シリーズで第3戦で勝利投手になったが、第7戦で敗戦投手となり日本一を逃した。なお自身のシリーズ敗戦投手は1986年の日本シリーズ以来の11試合ぶりの敗戦投手(リリーフ登板)で先発登板での敗戦投手はこれが最初で最後だった。 1994年は、4シーズンぶりに勝ち越し、自身最後の規定投球回をクリアしたシーズンとなった。9勝8敗の成績でチームの5年連続リーグ優勝に貢献した[6]。巨人との日本シリーズでは2年ぶりに開幕投手を務め、自身最後のシリーズ勝利投手(通算7勝目であったが、全ての勝利は相手側球場での勝利で一度も本拠地での勝利は挙げれなかった)となったが、チームは日本一を逃した。11月5日の契約更改で1億2800万円から65%アップの年俸2億1000万円の提示に満足してサインした[6]。実は、この金額は、“新年俸”1億6000万円に“引き留め料”の5000万円が加算されたものだったが、渡辺自身は記者会見で「FA宣言はしていませんよ」とコメントし、純粋な大幅年俸アップと思い込んでいたようだ[6]。報道陣から「それはFAを行使したことになるんだよ」と指摘された渡辺は「知らなかった」とビックリ仰天したものの、「まあ、西武に残るつもりで、ここに来たし、球団の誠意も感じられたからいいです」と自らを納得させていた[6]。 1995年、東尾が監督に就任し、シーズン初登板こそ先発で延長10回途中まで無失点の好投はしたが、それ以降先発で4試合全て負けて4連敗となった。次の登板で先発勝利したが、内容の悪さから中継ぎに降格となり、リリーフ初登板で失点し、シーズンの大半を二軍で過ごすことになった。終盤に一軍に昇格し抑えを経験した。先発では7試合1勝4敗防御率6.43が、復帰後抑えに回ってからは11試合2勝0敗5S防御率1.65の好成績だったが、本人の先発志向が強かったため、翌年も先発投手としてシーズンを迎えた。 1996年6月11日のオリックス・ブルーウェーブ戦でノーヒットノーランを達成した[7]。シーズンでは、開幕から先発ローテーションに入り、チームが下位に低迷する中でノーヒットノーランを記録した6月まで、西口文也の9勝に次ぐ6勝(4敗)と奮闘していたが、6月末から8月末まで5連敗し、チームが若手主体に切り替えたことにより二軍降格し、そのままシーズンを終える形になった。 1997年は主に谷間の先発を務めたが、プロ入り初の一軍未勝利に終わり、ヤクルトとの日本シリーズでも第3戦の8回にリリーフ登板したが、伊東勤が出した変化球のサインを見間違えストレートを投げた結果、先頭打者の古田敦也に勝ち越し本塁打を打たれ、さらに投手の高津臣吾に適時打を打たれるなど不本意な結果となった。 同年オフ、西武はチームの若返りを目指す球団方針から渡辺のトレードを検討したが、高額年俸(推定1億1300万円)がネックになったことから、11月23日に戦力外通告を言い渡した[8]。渡辺は現役続行を希望し[9]、セ・パ合わせて2、3球団から入団の打診を受け、登板機会の多そうなチームへの入団を希望していた[10]。同年12月5日、野村克也が監督を務めるヤクルトへ入団することが決まった[11]。背番号は21で、契約条件は年俸3000万円+出来高最高3000万円であり、退団が決まっていたテリー・ブロスや吉井理人の穴を埋める先発投手としての活躍を期待されていた[11]ヤクルトを移籍先に選んだ理由は、「『野村ID野球』を学んでみたい」との思いからであった[12]。その際に、ヤクルトの前に管理部長の根本陸夫からダイエーへの移籍を誘われたが、関東に残りたいという気持ちがあったので、移籍は実現しなかった[13]。 ヤクルト時代1998年は、『野村再生工場』での復活を期待されたが、速球にこだわるが故に速球を痛打される機会が目立った。5月20日の横浜戦で3年ぶりの完投勝利を挙げた(自身の連敗は8でストップ)が、この1勝に終わり、19試合の登板で1勝5敗、防御率4.23の成績で終わった。ただ、本人は後に「野村さんの下で1年やってみて、指導することの面白さを感じていました」とも語っており、野村の下で自らの野球経験を理論化し整理する良い機会になったとしている[13]。 同年オフには伊東昭光とともに現役引退を申し入れ、同年10月15日に了承された[14]。 台湾時代引退決断後、テレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者として専属契約を交わしたものの[15]、東尾の勧めによって、指導者の勉強のため急遽台湾に渡ることとなり、台湾大聯盟・嘉南勇士の投手コーチに就任。 先輩の東尾や西武ファンの吉永小百合との会食の席で、話題が出ると、東尾は「ナベがいずれ日本で指導者をやるというのなら、一度台湾で勉強してきた方が絶対タメになるぞ。真剣に考えてみろ」と、すぐ家に帰って嫁と相談してこいといきなり言い出す[16]。その夜、直帰後に家族会議を開いて台湾行きを決断[16]。 しかし、言葉による意思疎通が困難であったことから、当時台湾大聯盟で技術顧問を務めていた郭泰源に通訳を手配してくれるよう要請したところ、「言葉が通じないのであれば(渡辺が)自ら投げて身をもって教えればよい」とアドバイスを受けて急遽選手兼任となり、現役に復帰することになった[17]。中国語の家庭教師を雇って学んだ結果、1年ほどで日常会話程度はこなせるようになり、ヒーローインタビューに中国語で答えることもあった[18]。ヒーローインタビューでは覚えた中国語で「みんなありがとう!今夜は飲みましょう!」と叫び、球場を盛り上げた[19]。 指導という名目もあり、日本時代のような速球中心のプライドが邪魔をせず、ヤクルト時代に野村から習得を指示されていた、緩いカーブやシュート等緩急を駆使した投球の結果、入団1年目から18勝で最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得(三振も1位だったが当時の台湾大聯盟では最多奪三振のタイトルは存在しなかった[20])するなど、台湾球界を代表するエースとして活躍した。また、西武在籍当時の同僚であった郭や、台湾に来た石井丈裕らとともに台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。 先発すると7回か8回まで投げ、最終回は投手コーチとしてマウンドの若い選手へアドバイスを送り、チームの投手部門の殆ど全てを任されていたため、自分が交代する時は自らタイムをかけて監督を呼ぶ自己申告制であった[16]。 伸び悩むサイドスロー投手の参考になればと、自身が1試合サイドスローで投げたら、完封勝利したこともあった[21]。 鶏や豚だと思って食べていた肉料理が、実は田圃に棲む体長40-50cmの野ネズミだと聞かされて、噎せ返りそうになったこともあった[注 2]。渡辺も台湾の選手やコーチと酒を飲み、料理を頬張りながら、台湾の文化や慣習に馴染もうと努めた。休日には一人でバスや電車に乗り、知らない町を散策し、時には原付バイクで行くこともあった。夕暮れ時には屋台や食堂にふらりと立ち寄り、居合わせたファンと野球談義に花を咲かせたこともあった[22]。 オフの日は一人旅で台湾各地を歩き、声を掛けて来た地元の人と朝の4時まで飲み明かしたこともあり、台湾での人付き合いで酒が異様に強くなった[19]。コーチ業では日本での選手生活晩年に二軍生活を経験したことが生き、若手との距離を縮め、自ら歩み寄り飛び込んでいった[19]。後に3年間の台湾生活を「第二の青春時代だった」と振り返っている[19]。 2001年シーズン途中に現役を引退し、コーチ業に専念した。台湾での経験について、渡辺は自著『寛容力』の冒頭で「指導者としての原点は台湾での3年間にある」と語っている。 引退後引退後はテレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を経て、2004年に二軍投手コーチとして西武に復帰。2005年から二軍監督兼投手コーチ、2007年からは二軍監督専任となる。在任中は正津英志の復活に尽力した。 西武監督時代2008年より伊東勤の後任として一軍監督に昇格。球団主導で招聘された黒江透修をヘッドコーチに据え、自ら小野和義[23]・大久保博元・清家政和・熊澤とおるをコーチとして招聘、チーム力を底上げし前年度Bクラスのチームを就任1年目で優勝に導いた[24]。 リーグ優勝時には人目を憚ることなく涙を流し、「こんなに泣いたのはオグリキャップの引退レース(第35回有馬記念)以来だ」とのコメントを残した[25][注 3]。ポストシーズンでは、クライマックスシリーズセカンドステージで日本ハムを4勝2敗(アドバンテージ含む)で破って日本シリーズに進出し、日本シリーズでは巨人を4勝3敗で破り、チームを4年ぶりの日本一に導いた。さらにアジアシリーズも制覇し、功績を評価され2008年の正力松太郎賞に選出された。 伊東の場合はレギュラーシーズン2位でプレーオフ・日本シリーズを制しての日本一であったため、西武でシーズン1位と日本シリーズ優勝を両方達成したのは森祇晶監督時代の1992年以来。また、前年Bクラスのチームを新人監督が日本一に導いたのは史上初となった。 2009年は黒江ヘッドコーチが辞任し、さらに大久保打撃コーチが不祥事によって更迭され、チーフコーチに大石友好、打撃コーチに森博幸、打撃コーチ補佐に黒田哲史が就任し首脳陣刷新して迎えるシーズンとなったが、シーズン序盤に抑え投手のアレックス・グラマンが故障で戦線離脱するなど、中継ぎ・抑え投手が軒並み調子を落とし、チームは4位と低迷した。計14回のサヨナラ負けを記録したが、これはパ・リーグにおけるワースト記録であり、両リーグを通じては1988年の広島、1993年の中日ドラゴンズと並ぶワーストタイ記録であった。球団から続投を要請され、新たに2年契約を結んだ。 2010年はリリーフ陣の崩壊で接戦を落とした前年度の反省から一転、ロッテから移籍してきたブライアン・シコースキーを抑え投手に据え、岡本篤志・藤田太陽・長田秀一郎らをセットアッパーとして起用する継投パターンを確立した。9月16日時点では2位のソフトバンクに3.5ゲーム差の首位に立ち、優勝マジック4が点灯していた。しかし、9月18日 - 20日のソフトバンク3連戦で3連敗を喫し0.5ゲーム差に迫られ、9月23日の楽天戦で敗れて2位に転落。9月26日の日本ハム戦で敗れたことでソフトバンクの優勝が決定し、監督3年目は2位で終えた。また、チーム防御率は前身クラウンライター時代以来、33年ぶりのリーグ最下位に転落した。クライマックスシリーズファーストステージでロッテと対戦するが、2試合連続で延長戦に突入した末に2連敗を喫し、シーズンを終えた。その後、進退伺を提出したと報道されたが、「負けっぱなしではいられない」との本人の意向から、2011年シーズンの続投が決定した。 2011年は投手陣の不振が主因となって、前半戦を球団史上15年ぶりの最下位で折り返すこととなった。また、球団史上32年ぶりとなる最大15の負け越しを記録し、7月12日から25日にかけては球団史上初の3カード連続の同一カード3連敗を喫するなど[26]チーム成績は低迷した。後半戦以降、新人の牧田和久を抑え投手として抜擢し、セットアッパーとして起用したミンチェ・岡本篤志の2人と併せて勝ち試合における継投パターンを確立して投手陣をてこ入れし、さらに中島裕之をキャプテンに任命してチームの建て直しを図った。また、3年目の浅村栄斗や新人の秋山翔吾といった若手野手を辛抱強く起用した結果[27]、9月14日から27日にかけて2つの引き分けを挟んで10連勝を記録するなど9月の月間成績を19勝5敗とし、クライマックスシリーズ出場へ望みを繋いだ。3位のオリックスと1ゲーム差の4位で迎えた10月18日のシーズン最終戦(日本ハム戦)に勝利、同日オリックスが敗れたことから、わずか勝率1毛差で3位に浮上し[注 4]クライマックスシリーズ出場を決めるとともに、最大15あった借金を完済し勝率5割以上の成績で公式戦全日程を終了した。また同日試合終了後、球団からの続投要請を受諾し、1年契約で2012年シーズンも指揮を執ることを表明した[28]。クライマックスシリーズファーストステージにおいては日本ハムを2連勝で破りファイナルステージ進出を決めたが、ファイナルステージにおいてソフトバンクに0勝4敗で敗退した。 2013年、終盤までソフトバンク、ロッテなどのクライマックスシリーズ争いが続き、10月5日にCS進出が決定[29]、9月29日から7連勝で2位に浮上し、最終戦は3位のロッテと2位とCSファーストステージ本拠地開催権をかけての試合で勝利し、8連勝で2位でシーズンを終える[30]。しかしCSファーストステージではロッテに1勝2敗で敗れ、敗退が決まった翌日の10月15日に球団に監督辞任を申し入れ、球団に了承された[31]。渡辺は記者会見で「今年の優勝が楽天に決まったときには、監督を退こうかなと思っていました」と述べた[32]。 監督退任後2013年10月17日、西武球団シニアディレクターへの就任が発表された[33]。本人は後に、この異動について「今度はフロントとしてチームを見ていきたい、という気持ちが出てきた」「『やるからには根本さんを目指す』と決めました」と語っている[13]。 2017年1月1日、シニアディレクターと兼任で、編成部長への就任が発表された[34]。 2018年10月21日、2019年1月1日付でのゼネラルマネージャーへの就任が発表された[35]。 2024年5月26日、監督の松井稼頭央が同日のオリックス戦を最後に休養に入り、代わりに5月28日の対中日戦から渡辺が兼任で監督代行として指揮を執ることが発表された[36]。渡辺にとって11年ぶりの現場復帰となった[37]。背番号は72[38]で、形式的に「コーチ」として登録されたのち、5月27日付けで監督代行として公示された[39]。監督代行就任後2試合目となる5月29日の対中日戦で初勝利を挙げた[40]。交流戦は4勝14敗の最下位に終わった[41]。就任会見ではAクラス入りを目標に掲げたが、就任後の成績は34勝61敗3分でチームは最下位となった[42][43]。10月9日のシーズン最終戦後、「GMとしてほとんどの選手の獲得に関わってきた。けじめをつけないといけない。この球団に残るのはおかしいと思う」として退団することを発表した[44]。 プレースタイル常時140km/h台の速球(プロ入り後の最高球速は150km/h)を軸に、スライダー・カーブ・フォークボールを交える典型的な力投型投手であり、コントロールの緻密さには欠けるものの球のキレと球威で勝負するタイプであった。また、1989年・1990年には2年連続で投球回数が200イニングを突破するなど、体力や回復力にも恵まれた投手であった。なお、その投球スタイル故に奪三振が多かった代償として被安打・被本塁打もまた多く、1989年・1990年には最多被安打を、1989年には最多被本塁打を記録している。 もっとも、力投型投手の多くがそうであったように、渡辺もまた力の衰えが見え始めた現役晩年に至っても全盛期のような力で押す投球スタイルから脱却できず、速球を痛打される機会が目立った。当時の西武監督であった東尾からは速球が通用するうちに投球の組み立てを変えるようアドバイスを受けたが、自身の体に残る全盛期のイメージが邪魔をしてモデルチェンジできなかったという[45][46]。 人物
プロ入り前小学校5年生から6年生のころ、白血病を罹患していた近所の児童(自身が中学校へ進学した頃に死去)を背負って登校していた[2]。 1983年のドラフト会議で西武から1位指名された後、ある新聞社が渡辺や読売ジャイアンツ(巨人)に1位指名された水野雄仁(徳島県立池田高校)、中日ドラゴンズに1位指名された藤王康晴(享栄高校)との対談会を行ったが、彼ら3人が渋谷の街を歩いていたところ、若い女性たちが同年の選抜大会で活躍した藤王や水野の存在には気づいた一方、渡辺は「もう1人はだれだっけ?」と反応されており[47]、渡辺はこの一件から、甲子園で活躍した者たちに絶対に負けたくないと思ったという[48]。 現役当時愛称は「ナベ」「ナベQ」[注 5]。現役時代は、私服でDCブランドを着こなし、さらにグラウンド内外でのファッション・アクションが球界や社会に影響を与え、西武時代のチームメイトであった工藤や清原和博と共に『新人類』と称された[49]。さらに185cmの長身でスリムなことから西崎幸広・阿波野秀幸・星野伸之らと「トレンディエース」と並び称され、女性ファンから絶大な支持を受けていた。入団2年目ごろまではまだ年俸が低かったため、年収の2/3ほどを洋服代に費やし、税金が払えなくなり督促状が届いたこともある[50]。しかし、1991年4月頃から頭髪が薄くなり、さらに台湾へ渡ってからは屋台飯にはまったことが原因で太り気味にもなってしまい、選手達にも「今じゃ信じられないだろうが、昔はこれでも西崎さん・阿波野さんと並んでイケメンと言われていたんだ」と自虐的にジョークを飛ばしている。 現役時代の愛車は最初に買った中古のBMWを除き、メルセデス・ベンツ一筋。当時の西武には土井正博(二軍打撃コーチ)と東尾の名球会コンビ以外は、ベンツに乗ってはならないとする暗黙のルールが存在したが、これを破りプロ入り3年目にベンツを購入し、これ以降多くの同僚選手が相次いでベンツを買ったため、後に「私が“ベンツ解禁”の先駆者になった」と語っている[51]。 入団当時の監督であった広岡達朗の『管理野球』には辟易したと語る。選手寮に入って初めての食事の際、ご飯が茶色い玄米であったことと、冷蔵庫に牛乳が入っておらず豆乳のみであったことに驚かされたという。当時の玄米にしても豆乳にしても現在のような洗練された味ではなかったことから非常に不味かったが、おかずだけは美味しかったために何とかなったと回想している[52]。渡辺自身、管理されるのが最も嫌いな性格であったことから、将来「監督になったら絶対に管理はしないぞ」と誓ったという[53]。その一方で「今思えばその経験が良かったと思う。『新人類』と騒がれても、道は断じて踏み外していない。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎を作ってもらったのかも知れない」[54]、「蹴飛ばされたこともあったが、若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と当時を振り返っている[55]。 工藤や清原からは「今までやってきた27年間の中でプロ野球投手としては最高の存在」と高い評価を受けている。工藤によると、素質・筋肉の質・関節の柔軟性がどれを取っても一流で、肺活量は7,500cc(通常プロは6,000cc前後)もあったという。また、工藤は「もう時効だから言いますけど、アイツ中学生の頃から喫煙していたにもかかわらず肺活量が並外れていて、それでいて筋肉の質も超一流。シーズン200イニング以上投げておきながら、試合後はまったくマッサージを受けないで平気でした。僕がマッサージを受けてる横から『工藤さん、お先です』って行って飲みにいってしまったの。今では200イニング投げるピッチャーっていませんよ」と述べている[56][注 6]。また、清原はオリックスで引退した2008年、対西武最終戦で渡辺から花束を贈呈された際、「若手の頃に一番可愛がってくれた先輩。本当に感激した。」と号泣した。菊池雄星との対談では、「渡辺監督と潮崎コーチなんて手本が揃ってるチームは滅多にない。特に渡辺監督。あの人についていけばまず大丈夫」とその手腕を絶賛した。 酒の強さも人並み外れており、1年後輩の大久保博元からは「西武時代の同僚で一番酒に強かった」「どんなに飲んでも、二日酔いが人生で一度もない人」と評されている。現役当時は「5人でヘネシー5本は飲む」という中で「一番飲んでるのが僕(大久保)とナベちゃん」だったという。監督となってからも「若い頃と飲みっぷりが変わらなかったし、酔っぱらわない」としている[57]。 指導者として基本的には怒らないことを指導方針としているが、プロ意識を欠いた人間を非常に嫌う。台湾時代には新人ながら素質十分で練習しなくても活躍し、そのため首脳陣も何も口を出さなかった投手を呼びつけて「お前がどんなに優れた才能を持っていても、今の態度じゃ俺達のチームはお前なんていらない」と叱ったり、失策を犯した後に好プレーをした三塁手がコーチとハイタッチしているのを見て、試合後「こんな馴れ合いの環境じゃ、絶対に強くなれないぞ」と怒鳴りつけたりしたこともある。 西武二軍監督時代も「一人前の野球選手になる前に、まずは一人前の社会人にならなければならない」との方針から、若手選手の緊張感を欠いた態度には厳しく接した[58]。 球団本部ゼネラルマネージャーとしては、大久保博元が「選手の幕引きまで考える人」と評している。これは、松坂大輔を古巣の西武に戻して西武の選手として引退させた事実を踏まえた上での評価である[59] 現役時代にブライアントに本塁打を打たれた後で森祇晶監督に配球を責められた経験から、監督時代は結果だけで選手を責めないよう心掛けていたと語っている[60][61]。 詳細情報年度別投手成績
年度別監督成績
タイトル
表彰
記録
背番号
関連情報著書
DVD
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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