レイ・オルドニェス
レイナルド・オルドニェス・ペレイラ(Reynaldo "Rey" Ordóñez Pereira , 1971年1月11日 - )は、キューバ共和国・ハバナ出身の元プロ野球選手(遊撃手)。右投右打。 経歴キューバ時代 - 亡命キューバ国内リーグ"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"では地元ハバナのチーム、ゲレーロス・デ・メトロポリタノスとレオネス・デ・インダストリアレスに所属。インダストリアレスにはキューバ代表の正遊撃手ヘルマン・メサが在籍していた。 1993年7月12日、第19回夏季ユニバーシアード大会の野球競技のB代表の一員としてアメリカ合衆国のニューヨーク州バッファローに滞在中、宿舎を囲む高さ2.5メートルのフェンスをよじ登って脱出し、亡命した。亡命後は北米独立リーグ、ノーザンリーグのセントポール・セインツで15試合プレー。シーズン終了後の10月29日にMLBのニューヨーク・メッツと契約を結び、入団した。 ニューヨーク・メッツ1995年はマイナーリーグのAAA級ノーフォークでフルシーズンを過ごした。抜群の守備能力の高さを発揮し、メッツはこのシーズン限りで正遊撃手のホセ・ビスカイーノを二塁手にコンバートした。 1996年4月1日の開幕戦の対セントルイス・カージナルス戦でMLB初出場。7回に出た左翼線を破る当たりでは外野深くまで移動、両膝を付く体勢で左翼手からの返球を受け取り、そのままの体勢から本塁へ送球して補殺を記録した。対戦したカージナルスの、のちにアメリカ野球殿堂入りする名遊撃手オジー・スミスはオルドニェスのプレーを見て、「私の後継者となる存在」と高く評価した。この年は151試合に出場し、打撃成績は打率.257・1本塁打・30打点で、OPSは.592とMLBの全規定打席到達者の中で2番目に低い数値だったが、守備成績は刺殺228・補殺450・併殺102を記録し、新人王の投票でも5位に入った[1]。ただし、27失策を喫し、まだ不安定であった。 翌1997年には120試合の出場で失策を9にまで減らし、初のゴールドグラブ賞を受賞し、以後は3年連続で受賞した。特に1999年には154試合の出場で、守備機会639に対して失策はわずか4で、年間守備率は.994。遊撃手のシーズン守備率のナショナルリーグ記録を更新した。また、この年の6月14日から翌2000年3月29日にかけて101試合連続無失策の遊撃手MLB記録を樹立した。記録が途切れた3月30日の試合は記念すべきMLB史上初となる、北米以外で開催された公式戦開幕シリーズの第2戦であり、人工芝の日本の東京ドームでの試合であった。この連続無失策記録は2年後の2002年にボルチモア・オリオールズのマイク・ボーディックが110試合に更新した[2]。 2000年5月29日の対ロサンゼルス・ドジャース戦で走者との交錯プレーにより左腕を骨折し、以後のシーズンを欠場した。この年にチームはワールドシリーズに進出したが、出場する事が出来なかった。2001年4月3日に復帰したが、守備能力は大きく落ちた。 2002年は新たにロベルト・アロマーと二遊間コンビを組んだものの、2人ともプレーは以前のような精彩を欠いた。これに失望したメッツファンからのヤジに悩まされ、シーズン終盤のニューヨーク・ポスト紙のインタビューでは、「ここのチームのファンはあまりに愚かである。我々は機械では無いのだから、全ての試合を完璧にこなす事なんて不可能だ」と、契約が切れる翌2003年シーズン限りで他球団へ移籍する意向を明らかにした[3]。2002年12月15日にタンパベイ・デビルレイズへ移籍した。 ニューヨーク・メッツ退団後2003年はシーズンのほとんどを怪我で逃し、わずか34試合の出場に終わった。 2004年5月18日にシカゴ・カブスへ移籍。しかしここでも23試合の出場に終わり、7月23日には解雇された。8月にアメリカ合衆国の市民権を取得した[4]。 2005年はサンディエゴ・パドレスのスプリングトレーニングに参加したが契約には至らず、この年と翌2006年はMLBとマイナーリーグで1試合もプレーしなかった。 2006年11月14日にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ。2007年開幕直前の4月1日にトレードでサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍した。したがって、2004年7月19日の出場を最後にMLBではプレーしていない。 2013年3月にキューバ政府が自由化の一環で国民の海外渡航制限を緩和した事から、20年ぶりに故郷ハバナに帰郷した[5]。 詳細情報年度別打撃成績
選抜含むキューバリーグ通算打撃成績4シーズン 打率.261 出塁率.288 長打率.322 OPS.610 表彰
記録背番号
脚注
関連項目外部リンク
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