ローマンエンパイア
ローマンエンパイア(欧字名:Roman Empire、1999年2月6日 - 2016年10月29日)は日本の競走馬、種牡馬[1]。主な勝ち鞍は、2002年の京成杯(GIII)。 経歴誕生までの経緯母ローマステーションは、酒井牧場が生産及び所有したローソサイエティ産駒で、1989年の新馬戦で勝利を挙げ19戦1勝で、競走馬を引退した[2]。引退後は、酒井牧場から「仔分け」という方式で、中島牧場に生産を委託[3]。初仔から4番仔までを酒井の持ち分とし、それ以降は中島牧場に譲渡するという約束であった[3]。酒井の持ち分である4頭は、いずれも競走馬として勝利を挙げ、オーシャンステークスで3着となった2番仔ショーザランニング(父:ランフォーエバー)や福島民友カップを制した4番仔ニシオセーラムなど「順調な仔出し[3]」(吉沢譲治)だったが、約束通り中島牧場に譲渡された[3]。首が短く、短距離を走りそうな体型のローマステーションに、譲渡1年目はポリッシュパトリオット、2年目はジョリーズヘイローを種付けしたところ、酒井は同じ特性の種牡馬を配合したことを中島に叱った[3]。そのため、3年目には、ローマステーションと対照的な体型であるサクラローレルを選ぶと、酒井はこの配合も「きっといい仔が生まれるよ」とほめられていた[3]。 1999年2月6日、中島牧場にてサクラローレル産駒の牡馬(後のローマンエンパイア)が誕生[3]。これまでの産駒よりも首と胴が長く、サクラローレルの想定通りの体型だった[3]。 幼駒時代ターファイトクラブにて総額2300万円計100口で会員募集され、ターファイトクラブの募集馬で一番早く満口となった[3]。1歳9月となり、中島牧場を出て、育成牧場であるチェスナットファームに移動した[3]。 競走馬時代日本中央競馬会 (JRA) 所属時代は栗東トレーニングセンターの古川平調教師の管理馬となる。2001年12月の阪神競馬場の新馬戦、さざんか賞を連勝し、オープン入りを果たした。新馬戦ではチアズシュタルクを、さざんか賞ではテレグノシスに圧勝し、のちの皐月賞で人気を集める逸材だった。 明けて2002年、東京競馬場の京成杯に挑戦。母にヤマニンパラダイスを持つ良血馬ヤマニンセラフィムと、父サクラローレルの初年度産駒として注目されたローマンエンパイアの両頭に人気が集中。レースは先に抜け出したヤマニンセラフィムを大外からローマンエンパイアが追い込み、際どい一騎討ちの末に1着同着となった。次に出走したのは3月、ヤマニンセラフィムと再度対戦となった中山競馬場の弥生賞で、ヤマノブリザードやバランスオブゲームら素質馬が集まる一戦となった。レースは逃げたバランスオブゲームを、大外を回っての直線一気で捕らえ切れず2着に敗退。騎乗した武幸四郎の仕掛けの遅さを非難する声もあったが、「負けてなお強し」という印象を与え(この弥生賞ではヤマニンセラフィムが骨折して6着と大敗、その後両者の対戦はない)続くクラシック第1弾皐月賞では、タニノギムレットら強力メンバーが集ったなか、2番人気に支持されるが体調不良もあり、やや出遅れて後方のまま14着に大敗。さらに左肩跛行の症状を見せたため、長期休養に入った。 約9か月の休養を挟んだのち、翌2003年の京都競馬場のオープン特別・淀短距離ステークスで復帰。休み明けと距離短縮(2000メートル戦から一気に1200メートル戦へ短縮)の不利を感じさせない大外からの豪脚で2着に食い込むが、次走の京都記念は13着に大敗。この年は6戦したものの、東京競馬場のエプソムカップでの2着が目立つ程度に終わった(6戦2着2回、4着1回、6着1回)。その後、蕁麻疹を発症したため2度目の長期休養に入った。 2004年の復帰戦は小倉競馬場の小倉大賞典で5着。阪神のオープン特別・大阪城ステークスで京成杯以来、2年2か月ぶりの勝利を挙げた。その後2戦は産経大阪杯5着、都大路ステークスが11着に終わり、エプソムカップ出走へ向けての調整中に右第1指骨を剥離骨折した。幸い症状は軽く、半年の休養を経て秋の京都競馬場で復帰したが、カシオペアステークス4着、京阪杯12着。その後安藤勝己騎手からダートの適性を示唆され、12月、初めてのダート戦となる阪神競馬場のオープン特別・ベテルギウスステークスで2着と健闘した。 2005年は京都競馬場のダート平安ステークス8着後に脚部不安で再度休養。12月末の阪神競馬場の2005ファイナルステークスで復帰して3着。 2006年は小倉大賞典6着、大阪城ステークス2着、大阪杯10着後に脚部不安により実に5度目の長期休養に入った。 2007年は管理調教師の古川平が定年引退となったため、美浦トレーニングセンターの坂本勝美厩舎へと移籍した。中山競馬場のダービー卿チャレンジトロフィーで14着、東京競馬場のエプソムカップで15着に終わり、その4日後の6月14日にJRAの競走登録を抹消された[4]。 その後、地方競馬の金沢・藤木一男厩舎に移籍。初戦の金沢競馬場で行われたダイヤモンド特別を制し、移籍後初勝利を挙げている。しかしその後は脚部不安などでレースに出走できず、2008年3月に競走馬引退が発表された[5]。 競走成績以下の内容は、netkeiba.com[6]及びJBISサーチ[7]の情報に基づく。
種牡馬入り後2008年より[8]、サクラローレル産駒として初の後継種牡馬となる。繋養地は生まれ故郷の中島牧場[9]だが、中島牧場はイーストスタッドの隣にあり[10]、種付け時のみ同スタッドへ移動していた[8]。2011年に初年度産駒がデビュー。この年限りで種牡馬を引退する予定であったが、2頭の初年度産駒がともに勝ち上がったため、種牡馬生活を続行することになった[11]。 2016年の種付けシーズンを最後に種牡馬を引退し、6月27日にホーストラスト北海道に移動し余生を送っていた[12]。同年10月29日死亡[13][14]。解剖の結果、死因は胃破裂による急性敗血性ショックと判明した[14]。 血統表
脚注
参考文献外部リンク
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