三河牧野氏三河牧野氏(みかわまきのし)は、武家・華族だった日本の氏族。三河国宝飯郡中條郷牧野村に発した東三河の土豪として戦国末期に松平氏(徳川氏)に仕え、江戸時代に門閥譜代として多数の大名・旗本家を分出[1]。維新後大名だった牧野家5家が華族の子爵家に列した[2]。 三河牧野氏の分布三河牧野氏は戦国時代までに主に東三河の宝飯郡を中心に渥美郡・八名郡の一部を含む地域に分布した土豪として栄え、中でも牛久保城と吉田城に居城した牧野氏は国人領主に成長した。その係累・庶流もおおむねこれに従属したが、戦国乱世の合戦の優勝劣敗の結果、西三河地方や尾張国をはじめ他国に流れて移住したものもあった。以下に東三河地方の分布の痕跡を挙げる。 城趾・居館跡
古棟札など宝飯郡牧野氏の初見史料は、嘉吉3年(1443年)牛頭天王社を「奉勧請牧野右馬頭御建立」と判読される豊川市石原所在の中条新草神社の棟札であるが、この棟札自体の年月は延宝9年6月(新暦1681年7月)になっている。ほかには豊川市財賀町にある財賀寺八所権現社の文明3年12月11日(新暦1472年1月21日)棟札に「願主 牧野古伯」。また同寺には、文明4年11月15日(1472年12月15日)棟札に「牧野左京亮守成・牧野修理進利業」の記名や明応4年(1495年)の建立棟札にも「大旦那 牧野古白」の記名がある。また宝飯郡ではないが、豊川対岸の八名郡和田村(現・豊橋市和田町)にも文明3年(1471年)の和田椙本八幡宮棟札に、「牧野駿川(河)守」とある。 牧野氏の出自諸説三河牧野氏の三河定着以前の出自については、諸説がある。 三河発祥の牧野氏は、平安時代の四国の阿波・讃岐国の豪族田口氏の子孫が四国から三河へ渡来したという説と、これを否定する説がある。また、四国から三河への渡来したとする説についても三河国渡来の時期について、牧野氏先祖が、承久の乱の時に鎌倉幕府(北条執権政権)の軍に参陣し、鎌倉方に対する戦功の恩賞として三河国宝飯郡牧野村の地頭に補せられ、その地名を名字としたという鎌倉時代(及びそれ以前)渡来説(→牧野村移住と地頭補任)と、室町時代の応永年間に阿波・讃岐の豪族であった田口氏の一族が三河国に渡来、同郡の牧野村に牧野城を築城してその地の領主となったという室町時代渡来説(→田口成方・成富父子の移住)がある。また、渡来した人物についても複数の伝承があるが、客観比較が可能な史料が乏しいために明確な見解の統一はなされていない。 牧野氏先祖は四国の出身三河の牧野氏はその系譜書・家伝によれば蘇我田口朝臣蝙蝠(そがの たぐちのあそん かわほり)が祖という四国阿波国の豪族・紀姓田口氏の後裔という。田口成良・教良父子は平安時代末期に平清盛に仕えたが、三河牧野氏始祖と伝えられる人物はその子孫であるとされる(『寛政重修諸家譜』)[3]。 牧野村移住と地頭補任長岡藩々主家の牧野系図『牧野系図・紀姓』・『牧野家系図(本国三河・田口朝臣姓)』[4](いずれも長岡市立中央図書館蔵)の記述内容によれば、三河の牧野氏先祖は鎌倉時代承久の乱までに田口教良の子、牧野成朝・牧野成継兄弟が阿波国(または讃岐国)より三河国中條郷牧野村に移住、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府北条執権政権に加勢して功を認められ地頭になったとする[5]。その後、成朝の系は数代を経たが無嗣のためか続かず、成継の平三郎系が牧野氏の主流となる。 田口成方・成富父子の移住前掲寛政重修諸家譜巻652の田口氏流牧野氏の伝には、田口成清の代まで讃岐国に住し田口成富が応永年中(1394年-1428年)将軍足利義持の命により三河国宝飯郡中條郷牧野村に来住したとする説。なお同じ寛政重修諸家譜の巻367(丹後田辺藩牧野氏の譜)では、成富は細川氏に従って三河国に移り宝飯郡牧野村に住したとする[6]。 また、長岡藩主牧野家の『牧野家系図(本国三河・田口朝臣姓)』(前掲)の記述によれば、応永年間に讃岐国より田口成方・成富(成留)父子が舟にて渥美郡牟呂津に着船、同地の牟呂八幡宮に寄宿したという[7]。成富の系はその子成時(古白)、孫の信成と続く後の今橋城主の系(田蔵系)となる。 なお、寛政譜では、田口氏の流れが牧野氏であるとしているが、吉田城内神明社(現在の安久美神戸神明社)の棟札には、明応6年11月17日、平朝臣古白、(愛知県史: 中世 1-3)という記述が見え、平氏を自称していた。 四国出身としない諸説三河の牧野氏を穂国造の末裔、あるいは三河一宮の砥鹿神社や尾張成海神社等の神官の末裔ではないかとして、四国の田口氏末裔説に否定的な諸説が存在する。 穂国造末裔説太田亮が戦前に唱えた説である。 太田亮は著書『神社を中心としたる寶飯郡史』で阿波国田口氏末裔説を否定した上で、牧野氏と贄氏は、穂国造の末裔ではないかとする。 神官・神職家庶流説柴田晴廣 『穂国幻史考』第三話の「牛窪考」で、牧野氏は、愛知県豊川市砥鹿神社神主・草鹿砥氏と同族ではないかとしている。ただし草鹿砥氏自身が穂国造同族と見られるため[8]、この場合上記穂国造末裔説と同趣である。 このほか、郷土史家などから、牧野氏は、神官・神職が土豪化・地侍化したものではないかと指摘されている。三河山本氏、堀田氏、諏訪氏などは、神官・神職の出身者が土豪化した例である。 室町時代の牧野氏動向牧野平三郎系平三郎系は牧野時成のとき元弘の乱(1332年)で足利尊氏に味方し、子の孝成が三州渥美郡内に恩賞の地数カ所を得た。その子成国のときには三河守護一色範光に属し、その孫・平三郎成興は応仁の乱で一色義直に従い京合戦に参陣したとされる。牧野平三郎系はその後、応仁合戦に西軍一色義直麾下として参陣したため疲弊し、その勢力を著しく低下させたと思われ、一色義直の家臣牧野成興(平三郎)は文明8年(1476年)死去し、その主君義直が将軍足利義政に和睦を認められ三河守護職を放棄したために、その後衰えた。成興の子忠高は継嗣がなく、一族牧野成種(出羽守)・成勝を養子としたと云う[9] [10]。ここまでは、牧野家の系図・家譜等の家伝のみで伝承の類である。 16世紀に入ると家伝以外の史料に牧野氏の記述があらわれて来る。駿河国の大名今川氏に関係の深い、連歌師柴屋軒宗長の「宗長手記」によると大永7年(1527年)7月に、伊奈の牧野平三郎方に宿泊したとの記事がある。 また天文13年(1544年)に連歌師谷宗牧が東三河に訪れた際に牧野平三郎・平四郎兄弟[11]が牛久保より出迎えた記事が「牛久保密談記」に見え、またこの牧野平三郎は宝飯郡南端の伊奈に居住したといい、永禄年間(1558年~1570年)に一時は伊奈本多氏に代わり伊奈城主であったともいう。 成種の系は牧野出羽守保成が継ぎ、戦国大名今川義元の庇護のもとに牧野一族の実質的な惣領となったが、義元戦死後は今川氏の衰退とともに徳川家康に屈して滅亡。また、その弟・牧野貞成(民部丞)は牛久保城主の牧野成勝(氏勝)の系を継いだとされ、天文年間初期(6年頃)には牛久保城主になったと推定される。 しかし今川氏の支配を嫌った民部丞貞成は、弘治2年(1556年)には今川義元に城主の地位から追放された[12]。永禄4年(1561年)には徳川氏(当時は松平氏)に転属、養嗣子の成定(右馬允)も永禄9年5月には岡崎で家康に謁見を受け徳川氏に服属した(「松平家康判物」『牧野文書12』(永禄9年5月9日(1566年5月27日)付け牧野右馬允成定宛))[13]。こうして、家康との関係を強めたこの系統より、徳川譜代大名家の牧野氏が生ずることになった。 牧野平四郎系藩主・牧野氏が牧野平三郎家の庶流であるとする説を採用すると、成興→忠高→氏勝→貞成(牛久保城主)→成定(牛久保城主)→ 康成→忠成(長岡藩祖・牧野氏)となり、平三郎成興が、長岡藩主家との同一の先祖となると見られることになるが、この部分について長岡藩主家系図以外では同時代文書や確かな記録類等、比較が可能なものは知られていない。 牧野平四郎家の家譜は、牛久保城にほど近い正岡城の城主牧野成敏(田兵衛尉)を家祖の父とし、その4男である新九郎氏成を牧野平四郎家の家祖としている。[14][15][16] 同家系図によると、長岡藩主牧野家の「牧野家系図」にある牧野成興(平三郎)がこの系図上には存在せず、また牧野成勝の父は、牧野成敏であったとしている。 「牛窪密談記」や「今橋物語」の記述よれば、正岡城主牧野氏は享禄もしくは天文初期に当時主流であった今橋城主牧野氏に敵対するまでして、早くから岡崎松平氏(徳川氏)に帰属したとする。 幕末の信濃国小諸藩(藩主・牧野氏)家臣・牧野八郎左衛門成道、牧野軍次成功、牧野多門正發等は、正岡城主牧野成敏を遠祖とする牧野平四郎家系の出自であるとしている。これが事実とすれば長岡藩主家の系譜の遠祖部分と明らかに異なる家系を相伝していたことになる。 牧野田蔵系四国から渡来した伝承をもつ牧野成富(田蔵左衛門尉)を祖とし、その子成時(古白入道)が、それまでの宝飯郡から豊川(当時は吉田川)の対岸渥美郡に今橋城を築いて居城とした流れで、以後当主は代々、田蔵・田蔵左衛門(田は伝とも表記される)と称した牧野氏の一系統である。 今橋合戦で敗死した古白入道成時ではあったが、その孫(実は子)の信成が新たに城主となる。だが享禄2年(1529年)5月(天文元年(1532年)説もある)には、岡崎城主の松平清康による進攻を受け、吉田城下の下地(しもじ、現・豊橋市下地町)における合戦で壊滅し、信成の居城吉田城も落城して滅亡、嫡子田蔵某は家臣神谷氏の縁で尾張国知多郡大野(現・常滑市大野町)に亡命した。 この系は織田氏・豊臣氏と所属を変遷し、関ヶ原の戦いで徳川方に移り、のちに徳川氏旗本になった。この牧野氏は本姓を変えず田口としている(大名家の牧野氏は清和源氏支流と公称した)。 また牧野信成の孫の一人、牧野宇右衛門は、慶長5年(1600年)、池田輝政に召し出されて500石を賜り、その家臣(備前国岡山藩士)となった。 尊王攘夷の志士として著名な岡山藩士・牧野権六郎成憲は、この末裔である。 牧野筑意牧野筑意は牛久保城主牧野右馬允の分かれといい、照山城を居城としたというが、当初の照山城は城ではなくその隠棲の屋敷であったらしい(城趾・居館跡の項参照)。嫡子伝太夫もこれを継ぎ牛久保牧野家に付属したが、その子・弥次兵衛尉成政は松平元康(徳川家康)の永禄4年4月の牛久保城攻めの際、徳川方に帰属して八名郡の国人領主西郷正勝に与力して、牛久保牧野家の当主・牧野成定には敵対した。 正勝戦死のあとも家康の命により西郷氏後嗣に合力・補佐したが元亀2年(1571年)武田軍が東三河を攻めた際、豊川東岸の八名郡崇山八丁木縄手(豊橋市)で武田方の紫母衣武者と槍合わせの末に成政は戦死した。 成政の嫡子成勝(弥次兵衛)は、その後も西郷家に客分として残留した。しかし西郷家が所替え(下総国生実5千石)になった際、家臣化されるのを嫌い、牛久保牧野家の牧野成定から家督を相続した牧野右馬允(康成)が上州大胡城主(2万石)になったのを機に同族の誼みでこれに付属、のち家臣となった(後の長岡藩士牧野弥次兵衛家)。この時、長男成義(次郎兵衛)のみ西郷家に残したが、成義は家康上洛の節に伏見で徳川頼宣付きに召し出された(「名臣伝」『南紀徳川史』)[17]。 戦国時代から織豊期の牧野氏戦国時代には「三河物語」・「徳川実紀」などの徳川方の史料において、その先祖が松平家(徳川家)の三河国統一の過程に東三河で頑強に抵抗した勢力であった牛久保城の牧野氏として登場する。三河国内で今川家の力が後退するまでこの抵抗は続いたとされる。 三河牧野氏は宝飯郡の牛久保城と渥美郡の吉田城(今橋城)を牙城にしていたが、16世紀初めには駿河国の戦国大名今川氏に帰属していた。やがて、牧野氏は西三河で勢力を急拡大した松平清康により、享禄2年(1529年)から天文元年(1532年)の侵攻で吉田城を奪われた。宝飯郡の牛久保城を拠点としていた牧野氏(吉田城主牧野家の同族)も、その際に清康に服属している。 しかし、天文4年(1535年)の守山崩れで松平清康が落命すると牛久保牧野氏は再び今川氏に帰属し、その傘下で勢力を盛り返した。しかし、天文6年(1537年)に今度は戸田康光に吉田城を奪われた。しかし、今川氏に戸田氏が滅ぼされたことで、今川氏に従っていた牧野氏は再び勢力を回復させる。清康の孫の徳川家康による、永禄4年4月からの東三河侵攻に対しても今川方として頑強に抵抗するが、一族からも次第に徳川氏に転属する者が現れ始める。永禄5年(1562年)2月には「三州錯乱」の収束を目指した牧野氏の宗主今川氏真は親征したが、家康との直接対決に敗れた。次いで同年9月に東三河駐留今川軍は三州東岡合戦・三州八幡の戦いに大敗、翌年3月牛久保城外の戦いで今川支持者の牧野保成が死去すると、東三河諸勢の今川氏離反は決定的となった。結局、氏真の援軍を得られず孤立した城主牧野成定も永禄9年(1566年)5月までには服属した。以後、牧野氏は、家康の国衆に列して、東三河の旗頭として吉田城に詰めた酒井忠次の配下となり各地に転戦している。 成定の子牧野康成は天正3年(1575年)には遠江牧野城、ついで天正12年(1584年)には駿河長窪城を与えられた[18]。天正18年(1590年)の家康の関東転封の際、上野国勢多郡大胡において2万石を与えられた[18]。 江戸時代の譜代大名の牧野氏越後長岡藩主家上野大胡藩主牧野康成の嫡男忠成は元和2年(1616年)に越後長嶺藩5万石を与えられ、元和4年(1618年)に1万石加増のうえ長岡城へ移し、元和6年(1620年)の加増で長岡藩主7万4000石となった[18]。門閥譜代として外様の多い越後を抑える役割が与えられていた[19]。 江戸後期から末期の3人の藩主(忠精、忠雅、忠恭)が老中となった。忠雅は日米和親条約の署名者である[19]。洪水や1843年に領地だった新潟湊が上知になったため幕末には藩財政が疲弊して領内では百姓一揆が頻発するようになっていた[19]。 慶応4年・明治元年(1868年)の戊辰戦争で藩主忠訓は局外中立を保とうとしたが、公用人河井継之助の扇動のために奥羽越列藩同盟に参加する羽目となり、長岡城は陥落。王師に抗した罪により忠順は官位褫奪・蟄居のうえ城地召し上げとなった。しかし弟の忠毅に2万4000石で長岡藩再興が許された[20][19][21]。廃藩置県後には華族の子爵家に列する(→長岡牧野子爵家)。 笠間藩主家康成の三男成儀の子成貞は館林藩主だった徳川綱吉の家老(3000石)となり、綱吉の将軍就任後側用人として寵愛を得て加増を繰り返され、天和3年(1683年)には5万3000石の下総国関宿藩主となった[22]。その後も加増が繰り返され、宝永4年(1705年)には8万石の三河吉田藩主となった[23]。正徳2年(1712年)に成央が日向国延岡藩に転封となったを経て、延享4年(1747年)に貞通が常陸笠間藩に転封となり、以降廃藩置県まで在封[24]。廃藩置県後には華族の子爵家に列する(→笠間牧野子爵家)。 小諸藩主家長岡藩主牧野忠成の次男康成が寛永11年(1634年)に越後蒲原三島両郡において1万石を分与されて大名となり、元禄15年(1702年)に康重が信濃国小諸藩に転封となり、以降廃藩置県まで在封[25]。廃藩置県後には華族の子爵家に列する(→小諸牧野子爵家)。 三根山藩主家長岡藩主牧野忠成の四男定成は寛永11年に越後蒲原郡内において新田6000石を分与されて旗本となり[26]、幕末の当主忠泰は文久3年(1863年)に1万1000石への高直しが許されて初代にして最後の三根山藩主となった[27]。廃藩置県後には華族の子爵家に列する(→峯山牧野子爵家)。 田辺藩主家牛久保牧野氏に仕えた同族の牧野康成(半右衛門。前述の牛久保牧野氏の大胡藩主牧野康成とは別人)の子信成が寛永10年(1633年)の加増で1万1000石に達して大名となり、正保元年(1644年)に下野関宿藩2万2000石に転封となり、明暦2年(1656年)に親成が丹後田辺藩主3万5000石に転封となり、以降廃藩置県まで在封した[28]。廃藩置県後には華族の子爵家に列する(→舞鶴牧野子爵家)。 明治以降の華族の牧野家長岡牧野子爵家最後の長岡藩主牧野忠毅は、明治2年(1869年)に諸藩に先立って版籍奉還を願い出、6月22日に長岡藩知事に任じられたが、明治3年(1870年)10月22日に願いにより藩知事を免官された[20][29]。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると忠毅も大名として華族に列した[30][31]。忠篤の代の明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 1]として子爵に列せられた[33]。 忠篤は明治30年(1897年)以来貴族院の子爵議員に6回当選して務め、院内会派研究会の頭目の一人として活躍した[21]。また長岡市長、 實田石油会社社長、帝國農会会長、日本中央蚕糸会会長、華族世襲財産審議会議員などを歴任[21]。 忠永の代に長岡牧野子爵家の邸宅は東京市淀橋区西大久保にあった[34]。 笠間牧野子爵家最後の笠間藩主牧野貞寧は明治2年(1869年)6月19日の版籍奉還で藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[35]。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると貞寧も大名として華族に列した[30][31]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 2]として子爵に列せられた[33]。貞寧は明治33年に貴族院の子爵議員に当選した[36]。 その養子貞亮は宮内省に勤務し、東宮侍従などを務めた[37]。彼の代に笠間牧野子爵家の邸宅は東京市芝区伊皿子町にあった[37]。 小諸牧野子爵家最後の小諸藩主牧野康民は明治2年(1869年)12月7日に版籍奉還で藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県まで藩知事を務めた[38]。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると康民も大名として華族に列した[30][31]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 3]として康強が子爵に列せられた[33]。 その養子康熙(嵯峨公勝侯爵の子)は昭和前期に貴族院の子爵議員に当選[39]。彼の代に小諸牧野子爵家の邸宅は東京市杉並区大宮町にあった[39]。 峯山牧野子爵家最後の三根山藩主牧野忠泰は明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還で藩知事に任じられるとともに藩名を峯山に改名。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[27]。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると忠泰も大名として華族に列した[30][31]。 明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になったが、この際には忠泰の娘千代子が女戸主になっていたため、叙爵がなく[40]、伊達宗城五男忠良が千代子と結婚して婿養子として相続[41]。これにより1891年12月24日に忠良が旧小藩知事として子爵に叙せられた[40]。 その養子健之助は三井高弘男爵の子である。彼の代に峯山牧野子爵家の邸宅は東京市世田谷区三軒茶屋にあった[41]。 舞鶴牧野子爵家最後の田辺藩主牧野弼成は明治2年(1869年)6月17日に版籍奉還で藩知事に任じられ、この際に朝旨により藩名を舞鶴と改称。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[42]。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると弼成も大名として華族に列した[30][31]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 4]として弼成が子爵に列せられた[33]。 その子一成は貴族院の子爵議員に当選して務めた[43]。彼の代に舞鶴牧野子爵家の邸宅は東京市目黒区三田にあった[44]。 系譜
田辺藩主家系譜
牧野氏出自の関係人物
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
外部リンク |