上板橋村
上板橋村[1][2][3](かみいたばしむら)は、かつて武蔵国豊島郡、後に東京府北豊島郡に存在した村の一つ。江戸時代初期に誕生した。歴史的な板橋のうち、西側の部分に相当する。 地理現在の国道254号(川越街道)「日大病院入口」交差点から旧川越街道の石神井川に架かる「下頭橋」にかけての地域である。板橋区の南西部分であり、地名では大谷口、大谷口上町、大谷口北町、上板橋、小茂根、桜川、東新町、常盤台、徳丸、東山町、南常盤台、向原、弥生町のほぼ全域および中板橋の一部、練馬区小竹町、旭丘のほぼ全域に相当する。 武蔵野台地上にあるが、中央に石神井川が流れているため傾斜となっている。
歴史板橋の地名はすでに平安時代には存在しており、江戸時代初期に上板橋村と下板橋村に分割された。 江戸時代となると大半が江戸幕府の天領となり、野方領に属した。川越街道(川越児玉往還)の宿場町としては「上板橋宿」と呼ばれていたが、下板橋宿と異なり正式な村名は「上板橋村」であった。江戸側から下宿、中宿、上宿に分かれていたが、規模としては小さなもので、問屋場や本陣などは設置されず、名主屋敷がその代わりを果たしていた。また、江戸時代初期には下板橋と同じく、小竹村などのいくつかの集落に分かれていた。 1889年(明治22年)に市制町村制が開始されると、上板橋村は北豊島郡の中で最も発展しているとして飛地を除く単独で上板橋村となり、1932年(昭和7年)の板橋区の成立時には上板橋一 - 七丁目、小山町、茂呂町、根ノ上町、大谷口町、向原町、小竹町、江古田町となった。 沿革
町名の変遷板橋区成立時の町名改称は以下のとおり[4]。
政治・行政旧戸長・飯島彌十郎が在職中に町村制が施行される[2]。村長、助役、村会議員は以下の通り[1][3]。 村長
助役村会議員18名を定員とする[1]。1929年5月当選議員は「三原七太郎、小宮萬治、早川與作、矢作佐太郎、篠彌市、竹内代五郎、篠藤一郎、綿津廣一、木下仙太郎、栗原榮一、栗原忠次郎、小宮市蔵、栗原佐吉、瀬田熊太郎、根本金作、森眞雄、渋谷與四郎、大野金次郎」などである[1]。その他に議員を務めた人は「飯島彌十郎、大野卯之助、大野善太郎、醍醐福太郎、寶田龜五郎、小宮金五郎、中尾一郎、小野澤庄吉、榎本清之助」などがいた[5]。 経済地主産業
明治の初め戸長役場当時の記録によると当村の物産は「米1041石8斗4升、糯米300石、大麦3825石、小麦212石5斗、裸麦225石、大豆96石、蕎麦120石、甘藷15万2676斤、藍葉1250貫、製茶4531斤、菜種70石、大根25万本、牛蒡7万5000本、茄子350万個、里芋30万斤」である[2]。百姓は「木下兼吉、三原七兵衛、小宮権右衛門、大野伊三吉、室田長右衛門、榎本喜八、小宮仁右衛門、飯島新左衛門、石田権右衛門、大野惣右衛門、新井清右衛門、大野五右衛門、大野権兵衛」などがいた[2]。職業を農業とする人は「大野卯之助、大野善太郎、小宮金五郎、榎本清之助、瀬田熊太郎」などがいた[5]。
地域教育
施設
交通鉄道路線道路船舶名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事出身人物
脚注
参考文献
関連項目 |