中林忠良
中林 忠良(なかばやし ただよし、1937年(昭和12年)9月17日 - )は、日本版画界を代表する版画家の1人。東京芸術大学名誉教授、紫綬褒章・瑞宝中綬章受章[3]。日本における銅版画の第一人者[4]。 銅版の腐蝕と自分を含めた全てのものの腐蝕を重ね合わせ、「すべて腐ちないものはない」という思想のもとに[5]、白と黒を基調とする銅版腐蝕版画(エッチング)による製作を続けている[3]。 略歴1937年 東京・品川区大井山中町に産まれる。1941年江東区に、1943年品川区に、1944年目黒区に転居。目黒区立中目黒小学校入学直後に、新潟県蒲原郡加茂町(現加茂市に戦時児童疎開。4年間を過ごす。この少年時代の疎開生活は、のちの作品に影響をあたえた。 1959年 東京芸術大学 美術学部絵画科油絵専攻に入学。1961年 3年次の版画集中講義で、駒井哲郎から初めて銅版画を学ぶ[5]。1963年 東京芸術大学 卒業[6] (学部同級生 -版画関係- に青出光佑、秋元幸茂、斎藤智、野田哲也、星野美智子、本多栄子、本山敬子、柳澤紀子がいる[7])。 東京芸術大学大学院 美術研究科 版画専攻に入学、駒井哲郎に師事する。 1965年 東京芸術大学大学院を修了し、同大副手に採用される。1966年から非常勤講師。「アトリエC-126」を今井治男、小作青史、野田哲也、吉田東、清塚紀子らと結成。のちに田村文雄、原健らが参加した[6]。1969年 東京芸術大学助手。1974年講師、1978年に助教授に昇任、1989年に教授になる。この間、1973年 第四回版画グランプリ展でグランプリ受賞[2]、パリなど、内外で多数受賞[2]。 1975年には文部省派遣在外研究員として国立美術学校、ハンブルク造形芸術大学[8]で研修( - 1976年)[2]、1年間をすごす。 1986年に長野県茅野市・蓼科に「山のアトリエ」を建て、創作活動をする拠点の一つになる[9]。 2003年 紫綬褒章受章[10][7]。2005年教授を退任。武蔵野美術大学客員教授( - 2009)、大阪芸術大学教授に招聘される。 2015年時点 東京芸術大学名誉教授[1]、大阪芸術大学客員教授[11]、京都造形芸術大学客員教授[12]、2014年瑞宝中綬章受章[13]。日本版画協会理事。2020年より日本美術家連盟理事長[14]。2023年に文化功労者[15]。 作品と思想「現代日本の銅版画に新たな一面を開いた」といわれる[16]中林は、その出発点を雪深い新潟で過ごした子供時代に置く。その疎開体験を「自然の光と影しかない風景となじめない学校や暮らしの中で雪の世界にだけ親しいものを感じていた」と回顧する[17][18]。「7歳から14歳までの4年間、自然を友として過ごした雪国での疎開の体験が、僕の表現の根っことその画質を形作った」「人より、自然の方に親和感をもつようになった」と語っている[19]。 銅版画との出会いは、芸大3年の1961年秋。駒井哲郎の集中講義に出席し、駒井の作品、実際に刷る姿に感動。初めて自分も作品を作る。また特異な画家ヴォルスの作品に出会ったこともきっかけとなり、「油絵の教室を抜け出して版画を制作していた」という[16]。当時、中林は「油絵の具のヌルヌルした感じが身にそわなくて、描けば描くほど作品が自分から遠ざかるようで、そんなときに銅版と出会って、もうコレだ!と」と駒井の授業との出会いの衝撃を語っている[4]。 大学の助手として、大学紛争の時期を体験。「群れと個」という問題意識に立ち「孤独な祭り」(1970年)でその終結を作品化し、その後「白い部屋」(1971年)「二律背反される風景」(1972年)「囚われる部屋」(1973年)「囚われる日々」(1974年)にも受け継がれて行く。「自分が社会や仲間、自分にむけてメッセージを投げかけて」『閉塞的な情況を風景として表していた」と振り返る。 これらの思いは、オリジナル版画集「剥離される日々」(1973年 詩・岡田隆彦)、「大腐爛頌」(1975年 詩・金子光晴)、「覇王の七日」(1977年 小説・中上健次)の制作にもつながっていった。その、金子の「大腐爛頌」ーすべて腐らないものはない!」という言葉が「自分が考えていた事とピタリと一致した」という。 1975年から1976年にかけ、文部省の在外研究員として外遊し、帰国直後、恩師・駒井哲郎の死去で、後の「転位」シリーズにつながる「師・駒井哲郎に捧ぐ」を制作。「ぞれまでは状況の中で自分はどうあるべきかを絶えず考えていたが、もっと基本的なことがあるのではないか。それらをさっぱり捨てて、残ったのが物質そのものだった」として、1977年から「Position」シリーズを制作。1979年からの「Trans・position」「転位」シリーズに繋がって行く。 「はじめは社会や環境への自身の浮遊感を埋めるべく、足元の〈地〉を見直すという仕事であったが、しだいに白と黒に代表される二律背反の拮抗と調和を、腐蝕銅版画の工程・技法(しくみ)にからめて描くようにもなった。75年に出会った金子光晴の詩片『すべて腐らないものはない』で顕わになった世界観が、その背景にある」[17][18]。 そして、その心境として「気の遠くなるほどの長い年月をかけて大地を浸食して行く自然界の作用を、自分の掌の中に縮めてわずか数十分でイメージの画像化をくわだてる、それが自分の銅版画の仕事なのだと考えるようになった」と語っている[16]。 エピソード日曜大工を趣味として、アトリエの作業台や本棚を制作。また、自分の作品に使った銅版は自宅のあちこちに使っており、玄関口や「一階のトイレには全部、自分のレイエ[20]した版を多く利用している」という[4]。 若い頃の思い出で、「お金がないから、デートは道ばたのスタンドで牛乳を飲むだけ。生活費を稼ぐ為に、近所の子どもたちに絵画教室をしていたら、手伝ってくれていた妻が生徒に『あの先生と結婚するのは苦労するからやめたほうがいいよ』と言われちゃったこともある」そうだ[4]。 なお、妻の慶子の実兄はマヒナスターズのボーカル三原さと志。義理の甥にミュージシャンの(コーネリアス)小山田圭吾[21]がいる。(7インチシングルレコード「あなたがいるなら」「いつか/どこか」のジャケットを中林が手がけた。) 版画家の交友として野田哲也がいる。野田家と中林家は子育てを一緒に行うなど家族ぐるみで交友がある。 技法エッチングを基本としているが、アクアチントやリトグラフ、ドライポイントなども併用した、多彩で精緻なニュアンスを実現している[22]。 社会福祉法人済生会の機関誌「済生」の表紙絵を、1964年からら50年描き続けており、それらの多くはモノタイプ(Monotyping・単刷版画[23])で、「もう一つの彩月 ー絵とことばー」として2012年に出版されている[24][24]。 パブリックコレクション国内
海外アメリカ英国フランスベルギーブルガリアポーランドオーストラリアカナダトルコロシアイスラエル中国韓国台湾受賞・栄典
書籍
オリジナル版画集
テレビ出演
脚注出典
外部リンク |