五日市町 (広島県)
五日市町[1](いつかいちちょう)は、かつて広島県佐伯郡に存在した町である。 概要1911年(明治44年)、五海市村が町制施行して五日市町となった。広島市街から山口・九州方面に延びる国道2号に面し、1899年に開業していた山陽鉄道(のち国鉄を経て現JR西日本山陽本線)五日市駅や1924年開業の広電五日市駅を基点に商業集積および都市化が進んだ。広島市への原子爆弾投下の際には、郊外の主要な救援拠点の役割も担った。第二次世界大戦後の高度経済成長期には広島市のベッドタウンとして急激に人口が増加し、1980年の国勢調査において人口日本一の町となっている(87,325人)。 1985年3月20日、広島市に編入合併して町は消滅し、広島市佐伯区が発足した。佐伯区は旧五日市町と一致していたが、2005年に湯来町が佐伯区に編入されたため現在では区域が拡大している。合併にあわせて住居表示の変更が実施された。 廃止時点の人口97,459人は、地方自治法に基づく日本の町として史上第1位である(なお1985年国勢調査で佐伯区の人口は100,026人となっており、合併が半年遅ければ人口10万人を突破していたことになる)。地方自治法以前の町村制時代を含めると、東京府豊多摩郡渋谷町(1932年廃止、現東京都渋谷区)や同北豊島郡西巣鴨町(1932年廃止、現東京都豊島区)など、人口10万人を超えていた町が存在する。また、20世紀の中国地方で最後の合併例となった。 広島市への合併をめぐる混乱町は第二次世界大戦以後、広島市のベッドタウンとして発展し、1970年代には市制移行要件の一つである人口5万人を超えた。一方の広島市は1970年(昭和45年)に「広島市基本構想」を制定し政令指定都市を目指すことを明記。当時、政令指定都市は人口100万人が目安とされていたため、広島市は周辺の市町村の編入合併を推進していた。1973年までに沼田・安佐・可部・祇園・安古市・佐東・高陽・瀬野川・白木の各町が続々と広島市に編入。さらに1974年に熊野跡村・安芸町、1975年に矢野町、船越町も編入し、1980年に広島市は全国10番目の政令指定都市となったが、人口は約90万人にとどまっていたため、広島市としては旧市域に隣接する五日市町や安芸郡府中町との合併協議が重要課題となっていた。 人口が急増していた五日市町では、広島市と合併して都市化の進展を望む意見(合併推進派)と、大都市への編入によってごみ処理などの行政サービスの質が低下するなどの懸念から合併を拒否し、単独市制移行を望む意見(単独市制派)との間で対立が生じた。1970年頃から1984年12月の広島市編入議案の採決に至るまで長期間にわたり混乱が続いた。町議会はたびたび紛糾し、常に野次や怒号が飛び交っていた。傍聴席にいた反対派住民が議場内で発煙筒を焚いたり、混乱防止のため派遣されていた私服警官を取り囲んで議場の外に追い出したりする様子は全国ニュースでも報じられた。 1981年(昭和56年)5月9日、広島市と合併を協議した町長に対する不信任決議が成立[2]。同18日に町長は議会を解散した。 1984年12月、編入議案を採決しようとした推進派町議および町長に対し、単独市制派の町議が議事進行を妨害。議長席付近でつかみあいとなり町議のスーツが破れたり蹴りあいになったりした。合併に反対する町民が議場内で発煙筒を焚き、さらに放水するなどの妨害行為の中で採決は行われた。1票差で可決し、広島市への編入合併および町の消滅が決定した。 五日市町は1985年3月20日に消滅、同時に広島市に新しい行政区佐伯区が発足した。 沿革
地理
人口の変遷
行政町村長助役
収入役
経済産業
田上、谷口、福本、水口姓などの人物が農業を営んでいた[4]。
商工業者は金穀貸付業の佐上、醤油醸造業の保井、鋳物業の寺地、呉服商の長尾などがいた[4]。 名所・旧跡大字・町名
交通(1985年3月19日当時のデータ)鉄道道路
教育(1985年3月19日当時のデータ)
五日市町出身の有名人
脚注
参考文献
関連項目Information related to 五日市町 (広島県) |