五月操
五月 操(さつき みさお、1882年 - 没年不詳[1])は、日本の俳優である。歌舞伎、新派の女形、やがて映画の現代劇に転向し、日活向島撮影所のスター女形であった[1]。本名は田中 兼松(たなか かねまつ)、歌舞伎時代は市川 桃枝(いちかわ とうし)と名乗った[1]。 人物・来歴1882年(明治15年)、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に「田中兼松」として生まれる[1]。 1894年(明治27年)、市川染五郎(のちの七代目 松本幸四郎)に入門し、「市川桃枝」の名を得る[1]。のちに新派に転向、「五月操」と改名した[1]。 1913年(大正2年)、映画俳優に転向し、同年10月に、日活が新たに開所した日活向島撮影所に入社する。翌1914年(大正3年)、松井須磨子らが帝国劇場でレフ・トルストイの『復活』を初演するが、これを新劇出身の桝本清が脚色し、細山喜代松が監督して『カチューシャ』のタイトルで製作、これに主演の立花貞二郎、関根達発とともに出演する。『カチューシャ』は日活向島開所以来の大ヒットとなった[2]。 当時のフィルモグラフィには、監督の記録が残っていないが、1917年(大正6年)に入社した田中栄三によれば、日活向島には監督は小口忠1名しかおらず、撮影技師も坂田重則、藤原幸三郎の2名、脚本家も桝本清、鬼頭磊三の2名、俳優は24名しかいなかったという[3]。福宝堂出身の篠山吟葉、あるいは『カチューシャ』をヒットさせた細山喜代松はすでに退社していた。五月らは小口が月産4作ペースで量産する作品にフル稼働していた[3]。同年、菊池幽芳のベストセラー小説『毒草』が3社競作となり、小口忠監督、桝本清脚本による日活向島版にお源役で出演する[4]。小林商会版では監督を兼務した井上正夫、天活版では村田正雄が演じた役である[4]。 1922年(大正11年)11月25日、藤野秀夫、東猛夫、島田嘉七、宮島健一ら日活向島のスター13名とともに退社して、国活に移籍する[5]。同年、同時期に向島から移籍した坂田重則が監督した『鷲津村の娘』に元向島のスター俳優がそろって出演、同作は、日活向島での最後の作品、田中栄三監督の『京屋襟店』が公開された翌日の同年12月31日に公開された。翌1923年(大正12年)、同時期に松竹蒲田から移籍した村田実の監督・脚本による『父の罪』に同様のメンバーで出演した。同作以降の国活はほとんど映画を製作できなくなり、1925年(大正14年)には解散しており、五月操についてのその後の記録が不明である。 フィルモグラフィ日活向島撮影所
国際活映
註外部リンク
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